うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。教養教育の可能性。

特任講師観察記断章。地方公立大学に通っていると勉強とは直接には関連しない一般教養的なものと遭遇するチャンスが限りなく低いのかもしれない。理系と文系の中間のような学部1年生30人相手に聞いてみたところ、誰ひとりとして、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を聞いたことがないという。悪いの学生のほうではないのだろうとは思う。県立大学にはそこそこ優秀な地元の学生が集まっている。素直で真面目で、変にひねくれてはおらず、丁寧に説明すればきちんと理解できる頭と心を持ちあわせている。だというのに、教えられてしかるべきことがきちんと与えられていない。これは憂慮すべき状況だ。

TOEICごときを教えている自分が、「教養的なもの」を教える最初の存在になっていること気づき、恐れ慄く。TOEICの授業である以上、教養的なものへの言及はどうしても散発的で断片的で即興的にならざるをえないし、長くやればやるほど学生の意識は教室を後にして夢の世界に浮かび上がり、取り残されて支えを失った額はますます垂れ下がって机と接触しそうになる。絶対に勝てない一発勝負の短距離走(ただし何メートルでゴールになるかは不明)をやっているような気分がする。

とはいえ、勝つ必要はないのかもしれない。

リベラル・アーツ教育に目配せするTOEIC教師の責務は、知そのものを伝えるというより――それは専門科目を担当する教師の役目だろう――、脳が熱を帯び、心が飛び跳ね、体が打ち震えるような悦ばしい知の宇宙に通じる扉があることを学生たちに示唆し、その扉を少しだけそっと開いて、扉の向こうにある魅惑の世界を垣間見させるところにあるのではないだろうか。具体的な「何か」を与えるというより、「ここには何か知らなくてはいけないものがあるらしい」という予感のようなものを伝えることにあるのではないか。それも、具体的な言葉や情報を通して理性的にわかってもらうというより、こちらの身振りや声音の真剣さや真摯さから感性的に悟ってもらうことにあるのではないか。もちろん理性と感性の両方のレベルで実践できるのがベストであるのは当然だけれど、どちらかひとつを選ばなければならないのであれば、感性教育のほうを選ぶべきではないかという気がする。