うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

非常勤講師観察記断章。下に降りていくのではなく、上に引き上げる。

非常勤講師観察記断章。ちょうどいいところ。静岡で働き始めてちょうど6ヶ月、後期も中盤に差しかかり、やっと「ちょうどいいところ」がかなりクリアに見えてきた。しかし、それと同時に、学生にとってのちょうどいいところと自分の思うそれのズレも、よくわかるようになってきた。ある日のことだが、身体的疲労と精神的消耗と授業準備不足が相まって、いつもの65%くらいのだらけた授業をやってしまった。しかし自分からすれば手抜きもいいところのものが、学生にしてみれば、心地よいらしいということにも気づかされた。学生が快適に感じるものを提供することが、ネオリベ化する現在の大学における至上命令だろう。学生はcustomerであり、教師はentertainerである、というわけだ。楽な方に流れたほうが、顧客もサービス提供者も満足するwin-winな関係を切り結ぶことができる。しかしそれでもたらされるのは、双方における堕落でしかない。そして、それは、うつくしいことではない。

もし言語教育が稽古事のようなものだとしたら。教えるという行為はとても孤独なものなのだろうか。知識の伝達、情報の伝播であるような科目ならまた違うのだろうが、語学という科目、それもコミュニケーションという分野の場合、教育は、芸事や武術の習い事(たとえばピアノのレッスン)に接近している。確かにクラス構成はつねに教える側1に対して教わる側が多であるし、学生ひとりひとりとのあいだに深い人間関係が築かれているわけではないけれど、ここでは、教育成果が数量化しにくい。もちろん書道の昇級昇段試験のように、TOEICのスコアを顕在的で客観的な指標と取ることはできるが、芸事において技術と芸術がかならずしも表裏一体でないように、言語習得もテクニカルなものには還元しがたいアート的な要素がある。文体の構築であり、「腑に落ちる」というきわめて主観的な、どうしようもなく主観的でしかない感覚的納得である。そしてこの解釈学的な体験−−「ああ、そうか、そういうことか」という悟りの瞬間−−は、おそらく、ランダムに、イレギュラーにしか、個々の学生に訪れることがない。その到来を起こさせることや速めることは、非常勤講師にすぎない自分の身には余る難題だ。教えることはあるし、教えられることもたくさんある。学ばせることも出来ない注文ではない。しかし悟らせることはできそうにない。内発的な出来事でしかありえないからだ。もし言語習得が芸事の学びのようなものだとすれば、教え手は、つねに手探りを続けるしかないし、その手探りはきわめて個人的で、恣意的なものにとどまるだろう。手探りを「メソッド」化し、他の教師とシェアすることはできるし、それぞれの手探りについて語り合うこともできる。しかし、究極的には、自分のやり方を自分で引き受けるしかない。そして、学生に悟りがもたらされたかどうかは、結局、わからない。

似た者同士。「お前は学生の方に下りていくんじゃなくて、学生を自分の方にグイッと引き上げようとしているんだろ」。いまよりはるかに暗中模索をしていた頃に久しぶりに話した友人がそう言った。大学1年の語学クラス以来の付き合いだが、自分のことをよく見抜いている。そのとおりだと思う。しかし最近になってあらためて気づいたのは、自分にとって興味をそそられるのは、「まだ/いまだ」引き上げられていない者であるらしい、ということだ。エルンスト・ブロッホのいうNoch-nicht。Not yet。つまり、自分の共感相手は、「すでに」引き上がっている者(エリート)でもなければ、引き上がる気などまるで持ち合わせていない怠惰者でもなく――アナキストとして落伍する自由を認めたい気分もあれば、落伍を望む者に上昇を強要する権利があるのかという迷いもある――潜在的には昇れるはずなのに、昇りたいという狂おしいほどの望みがあるのに、依然として昇れないで悶えている者なのだ。それは要するに、過去の自分の姿である。しかしもしそうだとすれば、教えることは、同類にたいする呼びかけ、過去の自分にたいする未来からの呼びかけ、過去に自分が望みつつも叶えることができなかった未来を別の時間軸の未来から救済するようなことでしかないのだろうか。

理不尽に応える者たち。悲観的なことばかり書いているが、現実はそこまで悲劇的ではないし、もしかすると、もっとずっと楽観していいものなのかもしれない。前学期から教えている学生たちはこちらの無茶振りにだいぶ慣れてきたようで、ずいぶん食らいつけるようになってきたし、どうにか言葉を捻り出そうと頭を捻っている。学生たちが苦闘する姿は美しいと思うし、そんな美しい光景にまで辿りつけた自分の手腕(豪腕?)は、称賛に値するのではないかと思う。全力で学生を知的に傷めつけるというサディズムはきわめて反時代的であるし、同僚の先生がいみじくも言う通り、「中等教育化する高等教育」に真っ向勝負を挑むようなものだ。よく学級崩壊もせずここまで来たものだとしみじみ思う。しかし、もし本当に崩壊していないとしたら−−崩壊していないというのがこちらの幻想でないとしたら−−それは自分ひとりの功績ではなく、心ある学び手たちの暗黙の協力のおかげなのだろう。彼女ら彼らに感謝したい。

洒落者。自分の語学能力や教育能力が学生に信任されているのかどうかはいまだに未知数だけれど、装いのお洒落っぷりは認められているらしい。知を伝えようとする者として、そこに歓んでいいのかと思わなくもないが、正直、悪い気持ちはしない。