うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「街は多彩、雑多、充溢そのもの」(渡辺京二『逝きし世の面影』)

「バードの記述でおどろかされるのは、それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。羽織の紐だけ、硯箱だけ売って生計が成り立つというのは、何ということだろう。もちろん、店の規模はそれだけ小さくなる。ということは一定の商品取引量の養える人口が、その分大きいということを意味する。つまりここでは生態学的に、非常に微細かつ多様な棲み分けが成立しているわけだ。細民のつつましく生きうる空間がここにあった。それだけではない。特定の一品種のみ商うというのは、その商品にたいする特殊な愛着と精通をはぐぐむ。商品はいわば人格化する。商店主の人格は筆となり箸となり扇となって、社会の総交通のなかに、満足と責任をともなう一定の地位を占める。それが職分というものであった。しかも彼らの多くは同時に熟達した職人でもあった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。商店は仕事場でもあった。町の両側の店が間口をすべて開け放ち、「傘づくり、提灯づくり、団扇に絵を描く者、印形屋、その他あらゆる手芸が、明々と照る太陽の光の中で行われ」るのを見るのは、「怪奇な夢のように思われ」るとモースはいう。すなわち通りは、社会的生産あるいは創造の展示場だった。そしてアーノルドのいうように、横町には横町の、きわめて雑多な店々の生態があった。庶民派住宅地域という生態学的な単純相に住んだのではない。彼らの暮らしは雑多な小店舗が混り合う複雑な相のなかでいとなまれた。人間のいとなみは多種多様な職分に分割され、その職分の個性は手仕事という商品という目に見える形で街頭に展示された。つまり人間の全社会的活動はひとつの回り燈籠となって、街ゆく者の眼に映ったのである。街は多彩、雑多、充溢そのものであった。」(渡辺京二『逝きし世の面影』214−15頁)