うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。経済的棲み分けとしての多文化共存。

アメリカ観察記断章。南カリフォルニアが多文化的であることは間違いない。それは学生の顔ぶれや名前を見えれば一目瞭然である。そこではさまざまなものが混ざりあっていて、ルーツに遡ればアイデンティティが確定できるという考え方はまったくナンセンスだ。しかし実際の生活空間ということになると、かなり単文化的で、隔離的かつ孤立的ではないかという気がしてくる。たとえばエスニックスーパーはアメリカにある外国のようなものだし、さらにいえば、ローカル・コミュニティは言語的に閉じているように思えてならない。たとえばウェストミンスターというヴェトナム・コミュニティでは英語よりもヴェトナム語が支配的であるように見える。カリフォルニアのなかで多文化は共生しているし、さまざまなフュージョンがいたるところで起こっている(これは食の世界でとくに顕著だと思う)。しかしそれは、圧倒的な国土の広さによって保証されたローカル・コミュニティの半自律性があってのこと(それぞれの言語的文化的コミュニティが独自の世界を確立するためのスペースがあること)ではないのかという気がしてならない。LAのような都会では、さまざまな出自の人々がまさに隣り合わせで住んでいることだろう。しかし自分のように、富裕層の多い新興郊外地に住んでいる身からすると、「他なるもの」は、空間的にはさほど混ざりあっていないように感じる。アーバインのように人工的に作り出された郊外において成立している多文化共生とは、文化的差異の調停ではなく経済的差異によるゲットー化が可能ならしめたものでしかないように思う。住める場所のランクは経済レベルによって決まり、それがライフスタイルを決定する。文化の真空地帯である新興郊外で重要になってくるのは、文化や言語ではなく、そうした経済的階級なのだ。文化的な多様性は、経済的なものに従属している。近所にあるショッピング・モールは高級感あふれるもので、そこではさまざまな人種からなる家族集団を目にすることができるが、着ているものだとかテナントの顔ぶれを見れば、それが金持ちであることは嫌というほど痛感させられる。それは見事なまでに脱色された資本主義的ユートピアなのだろう。