うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

表現媒体としての中国語(ドナルド・キーン『日本文学散歩』)

「大方の近世の教養人にとって中国語は外国語ではなかった。武士の子息たちは、はじめ何のことやら意味も分からないまま棒暗記で漢文を覚え、後に彼らの階級の特別の言葉としてそれを用いた。彼らが詩を書く時は、死に直面した英雄的な感情であろうと、川にのぞむ料亭で美女と共に過ごす楽しみであろうと、おおむね漢詩にその感興を託した。ただ中国人自身によって漢字にあてられた発音を学ぼうとする者はほとんどなかった。彼らは漢詩や漢文を綴ることを、作中で中国の風景や人物に言及しなければならないと感じる程度にしか、中国そのものと結びつけてはいなかった。候文で手紙を書き、文語体で随筆を書き、口語でしゃべる武士にとって、高揚した思想を文や詩にあらわすには、俗な言葉の持たぬ表現力を有する中国語が適切な媒体だと思われたのである。」(ドナルド・キーン『日本文学散歩』、122頁)