うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「それではみなさん、よいお年を」

特任講師観察記断章。今年も終わりに近づいている。学生の大半がPCないしはタブレットを持っているというデジタル・インフラのパラダイムシフトを踏まえて、電子データだからこその課題を出してみたというのに、手書きにこだわる学生が一定数いる。これはいったいどういうことなのか。

手書きが悪だと言いたいわけではない。しかし、これから先、学生たちが手書きで文章を作成する機会はきわめて希少だろう。レポートにせよ、論文にせよ、電子ファイルでの提出がますますデフォルトになっていくはずだ。だというのに、そうした不可避的なデジタル化の流れを知らないかのように、中高で刷り込まれたのかもしれない手書きを続ける学生がいる。しかし、その一方で、やすやすと電子化に適応し、iPadにタッチペンで書き込みをする学生がいる。このデジタルディバイドは相当根深い。

言葉を持たない学生たちの多さに驚かされるが、それは、学生の怠慢というよりも、教員の怠慢ではないかという気もする。今年最後の授業を、べつに投げつけなくてもいいお小言をして締めくくる。

「対話する言葉、報告する言葉を持たないというのは、そうとうまずい状況ではないか。まがりなりにも大学で1年近く学んできたというのに、そうした言葉をまったく身につけていないとしたら、いったいこの1年は何だったのかということになりはしないか。」

「べつに解答を述べろと言っているのではない。そうではなく、何を話し合ったのか、どこまではたどり着いたのかを、きちんと語ってくれと言っているのです。なるほど、たしかに、それほど遠くまでは行けてないかもしれない。ほんの少ししか進んでいないかもしれない。しかし、何かはやった、少しは進んだ、それは間違いない。それを否定する必要がどこにあるのか。」

「何もやらなかったというのは責められて仕方がない。しかし、何かはやったのであれば、それはもうすでに、誇るべき何かではないのか。やったことを自分で否定するのは、自己卑下をデフォルトにすることです。その行き着く先は、自己の存在の根本に罪悪感を据えることでしょう。自分で率先して自分の自己評価を下げるようなことはやめましょう。そんなことに何の意味があるのか。」

「今日の授業の最初に、冬休みに見てみるといい参考書をいくつかあげましたが、べつにあれを全部見てこいという気はありません。しかし、少しはさらってみたらいい。そうすれば、まちがいなく、年明けには、「これだけはやった」とは言える。取るに足らない分量かもしれないけれど、「やった」という事実と実感は残る。自分にたいして恥じることのない、誰にたいしても「これだけはやったんだ」と誇らしく言えるものを積み上げていくべきです。」

「それではみなさん、よいお年を」と打ち切るように授業を終えると、微妙に重苦しい空気が教室上空にただよっており、それが目に見えない重しとなって、いつもならあっという間に部屋を出ていく学生たちの足取りをわずかに押しとどめていたような気がした。