うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。教えながら教わる。

特任講師観察記断章。徒手空拳で進めてきた「強勢、抑揚、発音」の授業2コマをどうにか完走した。来週の期末試験の課題文章を探さなければいけないし、期末試験課題を採点して最終成績を出すという大仕事も残ってはいるけれど、そちらはエピローグのようなもので、本編自体は今日でおしまいといっていいだろう。一大ハッピーエンドというほどではないけれど、自分のほうにも、学生のほうにも、確かな手ごたえが残るようなかたちで終わることができたと思う。

ひとつまちがいなく言えるのは、最後3週のグループワーク――グループで作成した録音課題を別グループにやってもらい、別グループのメンバーの録音をグループで採点し、コメントする――をとおして、学生たちは多様性と出会ったということだ。 同じ課題に取り組んでいるのに、それをどのように分析し、どのように朗読し、どのように評価するのかは千差万別であり、すべてが異なっている。同じものはない。そして、それでよいのだということを、学生たちは確かに感じ取っていた。

わたしたちがひとりひとり異なっているのは当たり前の事実ではあるけれど、この当たり前のことを深いレベルで実感するのは、案外むずかしい。というよりも、そのような機会がそもそもわたしたちの忙しい日常のなかにほとんどないというべきだろうか。多様性と、損得抜きで遭遇し、丁寧に鑑賞し、なぜ自分の感性や思考と異なるのかをあらためて自らに問い直してみる機会と場を持てるというのは、もしかすると、とんでもなく贅沢なことなのかもしれない。

もうひとつ印象的だったのは、他の学生の課題を見ることが刺激になったという意見だった。おそらく他の授業でも、他の学生が提出した課題の一部、とくに、優れたものを目にする機会はあったかもしれないけれど、課題の全部を、良いものも悪いものもひっくるめて、3つも4つも丹念に目をとおすという作業は、学生にとっては未知の体験だったのだろう。

レナード・バーンスタインは自身の母校であるハーバード大学で1973年に行った連続講義——それはアイヴズへのオマージュとして、『答えのない質問』と題されていた――の初回の冒頭で、「学生のころは教壇の向こうに立つのはどういうことだろうと思っていたけれど、いまこうして「向こう側」に立ってみて、聴衆の側に座るというのはどういう感じなのかと考えている」と述べているけれど、今回のグループワークでは、こうした役割交替のチャンスを提供できたのではないかと思う。しかも、ある学生にたいしては評価する側に回るが、同時に、また別の学生にたいしていは評価される側に回る、という相互的なかたちで。

教えながら教わる。誰かに教えることをとおして、自らが教わる。しかしこれは、クラスの参加者のあいだにある程度の親密さと信頼感がなければ不可能かもしれない。その意味では、通年でやってきたからこそ、最後のグループワークがうまく機能したのであり、このやり方はすぐさま他の授業で応用可能ということにはならないような気もしている。