うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。映画のなかの仕草がよくわかるような気がした。

アメリカ観察記断章。映画を見ることはまれだ。おそらく10代から20代にかけての多感な時期に言語=物語表象にのめりこみすぎたせいだろう。あの期間、いま思い直しても驚くほどに本を読み本を読んでいた。本は常に傍らにあった。井の頭線の通学中に父親からもらった日本近代文学全集を片端から読み、大学図書館閉架から坪内逍遥の沙翁を探し出し、下北や吉祥寺の古本屋を物色し、武蔵野市図書館から古めの海外文学を借り、四六時中、貪るように何かを読んでいた。自分のなかには映像的なものにたいするフェティシズムが欠落していたのかもしれない。いや、おそらくは、見せ「られる」こと聞か「される」ことという強制性に抵抗していたのだと思う。センチメンタルなものを嫌っていたわけではないが、それを映像で見るのは気恥ずかしくて耐えられない年頃だった。

父親がビデオやレーザーディスクが発売された当初から買い揃えていたから、金曜ロードショーの洋画やアニメはよく録画していたし、それを見に近所の友達が家に来ていた。そういうかたちでハリウッド映画を見ていたのだと思う。今週YouTubeでバック・トゥー・ザ・フューチャーのクリップを見ていると、どれにも強烈なデジャブ感があり、このあたりのものを知らず知らずのうちに全部見ていたことに今更ながら驚いてしまった。

しかしそれよりさらに驚いたのは、いまこうしたアメリカ映画を見ると、ほとんどすべてのシーンが直感的に腑に落ちることだ。アメリカに長いこといるけれど、基本は引きこもり生活なので、さして人間と触れ合っていないし、見聞が広がっているわけではない。にもかかわらず、俳優たちの仕草や口調、会話のなかの間の取り方や視線の動かし方、体の使い方だとか群集の動きだとかが、どれもこれも、まったく自然に感じられる。

翻って考えると、自分の振る舞いや口調が、すでに、こうしたアメリカ的なものを会得してしまっているということなのかもしれない。アメリカのやり方は、すでに、異質なものではなく、自分が知らず知らずのうちに実行してしまっている態度なのかしれない。もしかすると、自分の今の振る舞いはどうしようもないほどに「アメリカン」なものなのかもしれない。しかしだとすると、自分は今、アメリカンなのか、ジャパニーズなのか、どちらなのだろう。おそらく、日本人にはアメリカンで、アメリカ人にはジャパニーズという中途半端で生半可なところにいるのだと思う。