うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。肉体的接触と親密度。

アメリカ観察記断章。アメリカにおいて肉体的接触と親密度は比例するようだ。これは男女の区別を越えて普遍的だ。だから男同士がきわめて自然に握手し抱擁しているのをあちこちで目にする。そしてここで年齢は関係ないらしい。熟年老年夫婦が、相手の肩や腰に手を回したり、手を組んだりして、幸せそうに歩いているのを見かける。おそらくこうした文化的文脈だと、日本語で言うところの「いちゃいちゃする」はプライヴェートとパブリックの微妙な中間に位置づけられるだろう。親密さを肉体的接触によって「表現」することは、現代アメリカにおいて、奨励されていないかもしれないが、禁止されてはいない。

というようなことを思ったのは、キャンパスを歩いていて、遠目に「あれ日本人グループじゃないかな」という予感がしたからだ。隣を通りすぎると、果たしてその通りだった。しかし通りすぎてから、「でも、なぜ日本人だとわかったのだろう」という問いがわいてきた。

理由のひとつは、おそらく、そのグループが男女混合だったからだろう。彼氏彼女の関係ではなく、友達で男女混合のグループになるというのは、もしかすると、案外めずらしいことなのかもしれない。似たようなグループ力学が中国韓国に見られないというわけではないと思うけれど、自分の見るかぎり、中国は圧倒的に男女グループが分かれているし、韓国も似たようなところがある。

ところが身体的接触となると、中国韓国のほうが積極的で、とくにカップルの場合これは顕著だ。だからだろうか、今日見かけた日本人グループのメンバーのあいだの微妙な距離感、付かず離れずの、中途半端な空白を含んだ立ち位置が、おそらく直感的に「あれは日本人だろう」と判断を下すよすがになったのだと、今になって思う。

日本的文脈で肉体的接触心理的親密さは奇妙な弧を描くのではないか。つまり満員電車のようなシチュエーションで「他人」との接触が(嫌々ながら)是認される一方で、友人とのフィジカルな接触は特別な機会を除いて注意深く避けられ、カップルになるとまた接触が再開されるが、それは今や、パブリックではなくプライヴェートな領域に移し替えられ、秘匿されることを要求される。日本的文脈において、親密さをパブリックに示すことは、規範というよりは例外であり異端であり、それゆえ、特筆すべき事柄になるようだ。「バカップル」とか「おしどり夫婦」とかいうように。

などということを冷静かつ冷淡に観察している自分は何なのだろう。この冷血ぶり、無感動ぶりをどうすればいいのか。研究において「共同的かつ相互扶助的な生」を考察しているにも関わらず、自分の生はありえないほどに孤絶している。この矛盾をどうしようか。