うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。「教育は権利だ!」

アメリカ観察記断章。先日の学費値上げ反対プロテストのなかでも聞いたスローガンにpublic education should be freeというものがある。「公教育は無料であるべきだ」という掛け声はいつも何かしっくりこないものを感じていたけれど、education is not a privilege but a rightという別のシュプレヒコールを聞いたとき、いろいろなことが急に腑に落ちた。アメリカにおいて「権利」はアメリカ国民であるというただそれだけの理由で無限に無制限に使ってよいものである。それは分け隔てなく誰にでも与えられているもので、それを行使するために何か特別なことをする(たとえば特別料金を払う)必要はない。「教育は権利である」という言葉は、日本における「義務教育」と大きく異なっているだろう。義務教育という言葉には暗黙のうちに強制というニュアンスがある。もちろんこれは教育を受ける主体(学生)ではなく教育を受けさせる主体(親、保護者)を中心にした物言いだから、少し事態が異なっているけれど、日本において公教育を語るとき義務教育という言葉は圧倒的なプレゼンスをもっているように思うし、あまりに公教育が普及しているからこそ教育が権利であるということが見逃されているようにも思う。教育が権利であり、また権利であらねばならないというのは、アメリカにおいて教育が依然として(移民第二世代にとって)階級上昇の最重要なファクターのひとつでありつづけているからだろう。英作文の授業を受け持っていると必ず「自分は家族の中で初めて高等教育を受ける人間だ」という話を耳にする。教育はだから「贅沢」ではなく「死活問題」なのだ。日本の大学教育においてこうした緊迫さはあまり見られないように思われる。サブカル的テクストを見渡しても、浪人物語や苦学生物語はたくさんあると思うけれど、大学に行くことの切実さをあけすけに語るようなものの数は多くないように感じる。だからこそ、『ドラゴン桜』の突き抜けた現実主義は異色でもあり、語られることの少ない真実を告げているようにも思う。つまりあそこでは、兄が有名私学に進んだがゆえにひねくれてしまった教育ママの息子と、教育にこれっぽっちも理解を示さずとっと小料理屋を手伝ってほしいと思っている母親の娘のふたりが主人公となるが、最終的に合格するのは後者で、それはつまり大学教育という究極のロンダリングによって生まれた環境から離脱するという結末である。