うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。有償のサービスと無償の権利。

アメリカ観察記断章。エドワード・スノーデンがあるインタビューで「隠すものなどないから見せても構わない、というのは、権利を放棄するのと同じことだ。プライバシーは権利なのだから、我々はそれを正当化する必要などない。正当化しなければならないのはプライバシーの権利を侵害しようとする政府のほうだ」というようなことを述べている。見せたくないというのは後ろめたいことがあるからだ、という暴論がまかり通っているのはアメリカでも日本でも同じようだが、彼我では、権利の行使とサービスの享受についての意識がほとんど逆転しているところもあると思う。アメリカにおいてサービスは金で買うものだ。日本のように「おまけ」(英語で言うとcomplementaryだろうか)でついてくることはない。アメリカの外食ではファーストフードをのぞきチップが必須である。店員によるサービスは注文した品に無料でついてくることはなく、食べるもののプラスアルファとして換算される。ところが日本だとサービス料はだいたい内税的な扱いだろう。そして自らを「神様」であると思い上がった「お客様」の要求はとどまるところをしらない。サービスが定額なので、それに見合うだけものを求めるばかり、あわよくば料金以上のものを引き出してやろうという欲が働く。それに加えて、日本におけるサービス料は前払いに近いのかもしれない。だからたとえば旅館で仲居さんに心付けを渡すのは部屋を去るときではなく最初に部屋に案内されたときなのだろうし、こうして先に払うことで「気を利かせてもらう」ことを暗黙のうちにお願いするわけだ。しかしアメリカにおいてサービスは後払いで、それは提供されたサービスに見合う正当な報酬にほかならない。ここで客は多大な要求をすればそれだけチップをはずまなければならないことを理解しているがゆえに、傍若無人な要求は出てきにくいように思われる。しかしこの金がからんだときの慎み深さは、権利の問題となるとまるで当てはまらない。そこではアメリカ人はかなり強気になるし、物怖じすることがない。権利である以上、それは自らの意志によって好きなように行使してよいもので、それゆえ、周りに気兼ねするものではないかのようだ。教室においても、学生は質問するのは当然の権利とばかりに、30秒前に説明されたことをもういちどTAに繰り返させようとする。ところが日本における権利とは、個人的なものでありながら、周囲との関係においてしか行使されないものであるように思われる。権利は空気を読んで使わねばならないものだ。アメリカにおけるサービス(金と引き換えに貰うもの)は日本おける権利(下賜されたもの)と似ているのかもしれないし、日本におけるサービス(金で買ったもの)はアメリカにおける権利(闘争して勝ち取ったもの)とパラレルなのかもしれない。