うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。「国民の皆様」?

適当比較日本語論。「国民の皆様」という呼びかけはおかしくないだろうか。へりくだろうという気持ちから出てくるのだと思うが、それは奇妙な距離感と無責任さになって言葉に跳ね返っているように感じる。文脈はかなり違うが、「お客様」という呼びかけと同じような不気味さがここにはある。日本語の敬語謙譲語はそもそも話者同士の上下関係が双方にとって自明であることを前提にしているように思う。それはつまり、上下関係がラディカルに変化することのない人間集団による長期的なやりとりであり、さらに言えば、閉鎖的ではあるが(ゆえの)親密なコミュニケーション圏だ。だからこそ、定着した関係を確立しえない文脈――不特定多数への語りかけ(たとえばパブリックスピーチ)や不特定個人への対応(たとえばコンビニでの対応)――で使われる丁寧語ははじめから日本語の生理に反しているように感じる。日本語のファジーな部分は社会の近代化と折り合いが悪いのではないか。この意味で、近代化の権化のようなファーストフードやファミレスが接客をマニュアル化したのは当然だったのかもしれない。マニュアル化された接客言語は、客が上で店員が下であることを確定し、本来ならリアルタイムでの微調整を要求するライブパフォーマンスとしての敬語をどの客にも普遍的に使える反復可能なフレーズに還元してしまった。こうした硬直化した丁寧語はたしかにある特定のコミュニケーション文脈において効率的だが、その乱用と拡張は人間的でありえるはずの人間関係を解体してしまうように思えてならない。

アメリカのファーストフード店でのカウンターでの店員の第一声は、だいたい、「next customer?」とか「next guest?」だと思う(とくに列で並んで待っていた場合)。「何になさいますか?」という問いかけはない。だからこちらが「じゃあcombo 3」でというふうに口を開くと、「which cheese?」とか「with onion?」というような必要最低限の質問が返ってくるだけだ。この意味で、日本のファーストフードの接客のほうがずっと積極的だと言える。しかし別の意味では、日本の接客まったく消極的で、マニュアル言語以外のものが混ざる余地がない。たとえば日本のチェーンのスーパーで、精算時に、レジ打ちの人が「ああ、このチョコおいしいですよね、私も好きなんです」みたいなことを言うだろうか? もちろんアメリカの店員がすべてフレンドリーということはない。大多数はものすごく無愛想である。しかしたまに妙になれなれしい奴がいるのだ(そして後者の比率はエコフレンドリーだったりやや高級な食材を扱っていたりする場所ほど上昇する傾向にある)。面白いのは、このなれなれしさがマニュアルからの逸脱と感じられない点だろう。アメリカの接客は日本ほどマニュアル化されていない。(とはいえ、最近、そういう高級スーパーでメキシコ系の従業員が就業時間中に(客からは見えないバックヤードであったも)スペイン語で話すことを禁止するというルールが出来たとかで、ニュースになっていたから、アメリカの接客マニュアルもそれはそれで非人間的なものなのだろう。)

オバマ大統領の就任演説では何度かnationが使われている。しかしそれよりも重要なのは、一人称複数のWeではないか。とくに二期目の演説では(Occupay Movementを踏まえてのことだと思うが)We the peopleという表現が多様されている。これらのスピーチは極めてパフォーマティヴなものだと思う。Weという人称によっていまだ存在しないアメリカ人民の(不可能な)融合を(仮想的に)成し遂げているという点において。いまでもよく覚えているのは、留学一年目にとったバリバールのセミナー(フランス現代思想と友愛friendshipの問題、デリダを中心に)で、バリバールが相当な熱をこめてオバマのWeの使用について語っていたことだ。日本(語)の政治演説に欠けているのは、まさに、こうしたパフォーマティヴな要素、言葉によっていまだないものを生起させる喚起力ではないだろうか。