うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

Giorgio Caproni. Ritorno.(ジョルジョ・カプローニ「帰還」)

Ritorno
Sono tornato là
dove non ero mai stato.
Nulla, da come non fu, è mutato.
Sul tavolo (sull’incerato
a quadretti) ammezzato
ho ritrovato il bicchiere
mai riempito. Tutto
è ancora rimasto quale
mai l’avevo lasciato.

 
帰還
わたしが帰ったところは
わたしが決して居たことがなかったところ。
かつてそうでなかったところと、何も変わってはいなかった。
中二階の(蝋引きのクロス
の格子柄の)テーブルの上に
また見出されたグラス
は決して充たされたことがなく。すべて
依然として在ったものは
わたしが決して残さなかったもの。
 

多数の結節点としての個人や社会(ラトゥール、レピネ『情念の経済学』)

というのも、われわれ自身のもっとも内奥では、つねに「多数」が支配しているからである。社会学主義の一世紀のあとでタルドを理解することがこれほど難しいのは、彼が社会を個人とけっして対立させず、むしろ反対に、社会も個人もどちらもかりそめの集合体であり、部分的な安定化であり、通常の社会学の概念からまったく逃れてしまうような、ネットワークのなかのノードでしかないと考えているからなのだ。(18)

 

彼の観点によれば、社会科学の根拠となっているのは、点から点へ、個人から個人へと、けっしてそのどこかで留まることなく進んでいく、一種の感染である主観性とは、つねにある個人から次の個人へと飛び移りゆく欲望と信念の伝染性のことを意味しており、そしてこれこそが決定的な点だが、それらは社会的な文脈や構造をけっして通過することがないのである。(18)

他者救済としての「経済」(テツオ・ナジタ『相互扶助の経済』)

われわれがくり返し強調してきた「相互扶助」という言葉は、人びとの道徳意識の根底にある強力な規範でありつづけている。一八世紀はじめに伊藤仁斎が哲学的に表現したように、「善」や「慈悲」(323)は抽象的な概念ではない。人が他者を救い、苦痛や不幸を和らげるために社会的な場でなされる行為である。社会的概念としての他者救済は「済民」と表現されることが多い。これは「経済」という近代の複合語の基本要素である。「済」は、「救う」を意味し、「経」は「整える」の意味で、国民が救済されるために、混乱と混同を避けるような社会的行為の規則を設定することである。/経済の語にこめられていた力強く倫理的な規範は、明治時代に「経済」の概念を近代的なものに翻訳した過程で失われた。経済は「資本主義」を意味するようになり、強い国民国家をつくり出し、また柳田國男が論じたような「自立した」個人をつくり出すために必要な方法論を意味するようになったのである。柳田が「経済」という言葉を用いた一九〇〇年代はじめには、「民を救済する」という理想はすでに消し去られていた。経済はこうして、国民総生産という点で近代化を補強することを意味するようになったのである。これは、近代的知識人としての柳田が、職業官僚である平田東助と共有していた見解である。近代化に不可欠な資本主義としての経済は、明治政府の基本的イデオロギーであった。そして、この資本主義というイデオロギーにおいては、経済とは他者救済ではなく収益をあげる近代的方法を意味する言葉になった。岡田良一郎が近代経済のこのような認識を認めないと主張したのは、それが収益性という名のもとに弱者を押しつぶす強者の無慈悲な認識だったからである。これとは反対に、報徳において貯蓄が積み立てられたのは、終局的には他者救済のためであり、利益を確保するためではなかった。報徳は、相互扶助の考えを放棄しなかったのである。柳田は、昔ながらの道徳的な思考にしがみついていると岡田をなじった。資本主義によって収益をあげることは近代的な方法であり、報徳はこの新しい歴史と調和しなかったからである。(324)/相互扶助と救済に関する思想は、どうしたら民衆が自分たちの経済活動をやり遂げることができるかという課題について長期にわたって影響をおよぼした。他者救済には、救済するために「整える」という意味もあった。徳川時代の民衆にとって、整えるとは正確な詳細について合意し、これを合意書あるいは契約書に書きこむことを意味した。徳川時代後期から明治期にかけてさかんになった契約にもとづく相互扶助組織によって、銀行制度がなくても庶民がおたがいに貸し借りをする制度できあがった。そうした契約にもとづく相互扶助組織は村落や町で実践され、二〇世紀になると事業志向の会社となり、産業革命や戦後初期の荒廃した時期に、庶民がどのように奮闘し、精を出したかを伝える歴史の一部となったのである。(325)

 

広い社会において、かならずしも隣近所の住民ではない市民を支援することは協同組合的な自治のあらわれである。ほかの市民運動とおなじく、上下関係も永続的な権威をふりかざす指導者もなく、職員や永久会員も、決まった政治的イデオロギーもないことがその特徴である。そこに満ちているのは、緊急時に他者に手を差し伸べるという根本的な原則と、共生あるいは共存という、よく知られた思想、生命と存在、つまりすべての人間の相互関係性である。(328)

 

To aid citizens in the broader society, not necessarily one’s nextdoor neighbor, is an expression of cooperative self-governance, and as in other citizens’ movements, it emphasizes the absence of hierarchy, permanent authoritarian leadership, professional and permanent membership, and a fixed political ideology. It is thoroughly informed by the underlying principle of helping others in an emergency and by the wellknown idea of kyosei, or kyoson, the mutuality of life and existence and hence of the interrelatedness of all humanity. (Tetsuo Najita. Ordinary Economies in Japana: A Historical Perspective, 1750-1950. 238)

殉教または生と死の価値の逆転(フーコー『肉の告白』)

「ところで、周知のとおり、殉教は、真理をめぐる振舞いである。すなわち、殉教とは、そのために人が命を落とす進行を証言するものであり、この世の生が一つの死に他ならないのに対して死の方は真の生に到達させてくれることを現し出すものであり、その真理がひるまず苦痛に立ち向かわせてくれることを証明するものなのだ。殉教者は、言葉を発する必要すらなく、その振舞いそのものによって、生を破壊しつつ死の彼方で生きさせる一つの真理を白日の下にさらけ出す。殉教の振舞いの複雑なエコノミーのなかで、真理は、信仰のなかで明示され、皆の目の前で一つの力として示され、生と死の価値を逆転させる。殉教は、一人の人間の信仰の誠実さを表現し、その信仰の対象とされているものの全能の力を真正なものとして、来世の現実を出現させるためにこの世の偽りの見かけを一掃するものという尚中の意味において、一つの「試練」を構成しているのだ。」(フーコー『肉の告白』141- 42頁)

"Or le martyre est, on le sait, une conduite de vérité : témoignage de la croyance pour laquelle on meurt, manifestation que la vie d’ici-bas n’est rien d’autre qu’une mort, mais que la mort, elle, donne accès à la vraie vie, attestation que cette vérité permet d’affronter la souffrance sans défaillir. Le martyr, sans même avoir à parler, et par sa conduite même, fait éclater en pleine lumière une vérité qui, en détruisant la vie, fait vivre au-delà de la mort. Dans la complexe économie de la conduite du martyre, la vérité s’affirme dans une croyance, se montre aux yeux de tous comme une force et inverse les valeurs de la vie et de la mort. Il constitue une « épreuve » en ce triple sens qu’il exprime la sincérité de la croyance d’un homme, qu’il authentifie la force toute-puissante de ce à quoi il croit, et qu’il dissipe les apparences trompeuses de ce monde pour faire apparaître la réalité de l’au-delà." (Foucault. Les aveux de la chair. 123)

自分とは異なったさまざまな眼を持つこと(プルースト『囚われの女』)

Le seul véritable voyage, le seul bain de Jouvence, ce ne serait pas d’aller vers de nouveaux paysages, mais d’avoir d’autres yeux, de voir l’univers avec les yeux d’un autre, de cent autres, de voir les cent univers que chacun d’eux voit, que chacun d’eux est ; et cela, nous le pouvons avec un Elstir, avec un Vinteuil ; avec leurs pareils, nous volons vraiment d’étoiles en étoiles.

「たったひとつのほんとうの旅、たったひとつの若返りの泉、それは、新しい風景を訪れることではなく、自分とは異なったさまざまな眼を持つこと、誰かの眼で、数えきれないほどたくさんの人の眼で世界を見ること、自分とは違う人ひとりひとりが見ているたくさんの世界——そのひとりひとりが世界である―――を見ることだ。画家エルスチールや音楽家ヴァントゥイユのような存在とともに、わたしたちはこれをやってのける。彼らに匹敵する人々とともに、わたしたちは、本当の意味で星々から星々へと飛び移る。」(プルースト『囚われの女』)

非時系列的な共鳴箱(ファニー・ピション『プルーストへの扉』)

「この作品は線としてとらえられた時間のなかで起こる出来事を年代順に並べた物語ではなくて、同時に存在するいくつもの経験を入れる共鳴箱、あるいは文学の大聖堂となるはずです。それをプルーストは「私たちの人生はほとんど時系列を無視して成り立っていて、日々の流れに多くの時間的錯誤が入り込んでいるから」(花咲く乙女たちのかげに)と書いています。」(ファニー・ピション『プルーストへの扉』93頁)

真をなす [faire vrai]」こと(フーコー『肉の告白』)

「悔悛者がなるべきこと、それは、自分がしたことについて「真を語る [dire vrai]」ことよりも、自分がそうであるところのものを現出化することによって「真をなす [faire vrai]」ことなのである。/悔い改めの実践が、必ず悔悛者の真理を白日の下に晒すための現出化を通じて実行されなければならないということは、一つの問題を提起する。罪を犯したとき、なぜ、悔悟し、過酷な状況や苦行を自らに課すだけでなく、それに加えてそのことを示し、自らをあるがままの姿で示さなければならないのか。真理の現出化は、なぜ、過ちを贖うことを可能にする手続きの本質的な部分をなすのか。人が「悪をなした」とき、なぜ、その人がしたことについてのみならず、その人がそうであるところのものについても、真理をはっきりと示さなければならないのか。」(フーコー『肉の告白』136頁)