うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。英語の三人称の平等性、日本語の三人称のしがらみ。

翻訳語考。英語の、ひいては西洋語の3人称は、きわめて平等主義的なところがある。王もボスも父も、友も敵も、子も、現実における上下関係に頓着せず、he/his/him で名指せてしまう。もちろん、王の場合、His Majesty のような敬称的三人称はあるものの、代名詞は人情とは別の位相にある。

日本語の3人称はどうもそうはいかないらしい。My father は代名詞で受けるとなれば he だが、では「わたしの父は」を「彼は」で置き換えられるのかというと、どうだろう。文法的には何の問題ないし、意味的にも混乱させることはない。しかし、書き手として、何か生理的に引っ掛かるものがある。

たしかこの問題はフランス文学者でフランス語創作者の水林章が指摘していたはずだけれど、日本社会において平等が体感レベルにまで腑に落ちないのは、(近代)日本語の人称が充分に抽象的ではないからだという部分はあると思う。

というわけで My father を受ける he を「父は」と訳しているけれど、代名詞以上、固有名詞未満の「父は」は繰り返すとくどいので、できるだけ使わなくてすむように、主語の間引きが必要になる。

その匙加減が難しい。各段落1回は「父は」という主語を入れたほうがいいような気はするものの、この主語を入れると文章の速度が落ちる。スピードはキープしたまま、「誰が」は曖昧にならないギリギリのところを見極めなければいけない。

20250913 「スウェーデン国立美術館 素描コレクション展―ルネサンスからバロックまで」@国立西洋美術館を観る。

20250913 「スウェーデン国立美術館 素描コレクション展―ルネサンスからバロックまで」@国立西洋美術館

上野の美術館は学生のころよく行っていたし、国立西洋美術館の常設展(松方コレクション)は高階秀爾若桑みどりなどの西洋美術の概説書で学んだことを実地に確認するには最高の場所だった。西洋美術の絵の見方の基本はここで身に着けたといっても過言ではない。今日本当に久しぶりに(数年ぶり?)に訪れてみて、自分にとっての美術館の原風景のひとつはここなのだということを再確認した。

特別展の「スウェーデン国立美術館 素描コレクション展―ルネサンスからバロックまで」は、端的に言うと、地味。素描の性質上、一点一点が小さく、それぞれの大きさも似たり寄ったり。すこし彩色されているがあったり、下書き的なものから、メモ的なものがあったりと、バリエーションはいろいろあるけれど、本当に素描のみ。80点近くあり、イタリア、フランス、ドイツ、ネーデルラントと4つのカテゴリーにわけられているものの、正直、各国間の違いはそこまで感じられない。

しかし、だからこそ逆説的に見えてきたのは、素描は時代や場所に依存するところが少ないのではないかという点。400‐500年前に描かれたものだというのに、そのような感じがしない。まるでつい先ほど書かれたかのような雰囲気がある。

(デッサンの技術というものは、果たして、ルネサンスの時代からどのぐらい変化しているものなのだろうか。)

面白いことに、素描が下絵に近づき、見たものをそのまま紙に写し取るのではなく、ある種のデザインに落とし込もうとするほどに、隔たりが際立っていく。その意味では、画家が衝動的に手を走らせたような素描のほうが、時代を超越しているように感じた。

学生のころ、この建物がル・コルビュジエのものであることは知っていたし、貴重なモダニズム建築であることは承知していたけれど、その回廊的な特殊な構造のことはあまり意識していなかったし、新館がどのように隣接しているのかもわかっていなけれど、今日やっと、この建築物の空間の作られ方がだいぶ腑に落ちたような気がしている。

それにしても、松方コレクションは、ルネサンスからモダンまで、よくもまあ、西洋絵画の王道的なところを収集できたものだと思う。造船業で富を成した松方幸次郎が収集を始めた第一次大戦期という時代、19世紀後半以降の作品については、まだ同時代的なものだったのかもしれないし、買い集められたのもわからなくはないけれど、西洋絵画史を概観するようなこのコレクションは、最初から美術館を志向していたようにも思う。

同時開催の「ピカソの人物画」は、初期から晩年までの画風の変遷と、モデルを恋人にする(恋人をモデルにする?)という一貫した性向を浮き彫りにしており、規模としては決して大きくない企画展だが、これを所蔵品でまかなえるところに、国立西洋美術館の地力がよくあらわれている。

最近なにかの記事で、美術館を訪れる若者層が増えていると読んだ。「そうか?」と思っていたけれど、ここに関しては、「なるほど」という状況。いや、3連休初日の土曜日だったからとくにそうだったということもあるのかもしれないけれど、ここ数か月で訪れたどの展覧会よりも20代前後のカップルを多く見かけた。美術に興味はあるけれど、美術だけに興味があるというわけではないような層。チケットを買うための列に並んでいたときに気づいたけれど、ソロで来ている高校生もちらほらいた。海外観光客は思ったより多くない。

ともあれ、「スウェーデン国立美術館 素描コレクション展―ルネサンスからバロックまで」のチケットが2000円というのは、ちょっと割高な感じはする。常設展込みだと思えば妥当な気もするけれど。

翻訳語考。作家の書き癖を尊重する。

翻訳語考。作家の書き癖はあるし、それが独特のものであることもめずらしくない。文法的に逸脱気味だったり、一般的に守るべきだとみなされている決まり事を平気で侵犯したり。

たとえばルグィンは、接続詞なしに2つのセンテンスをつなぐ書き方を多用するけれど、これは学校文法的にはルール違反だ(この書き方は一般に run-on sentence と呼ばれている)。たとえば、「オメラスから歩き去る人々」には、Some of them have come to see it, others are content merely to know it is there. という箇所があるけれど、非ネイティブがこう書いたら、コンマの後/others の前に接続詞(and や but)を入れるように指導が入ると思う。

その一方で、文法・文体的にはルールどおりなのに、何かうまく繋がらない文を作る書き手もいる。たとえば、次のように。

He reached home late at night one day at the beginning of February, and a glance was enough to show know that he was an altered man.

個人的な感覚としては、「彼が帰ってきた」ことと、「一目見るだけで、別人になっていたことが明らかだった」ことは、つまり、行為と状態は、そのまま順接でつなぐと、収まりが悪い。「彼は2月初めのある夜遅くに帰宅して、一目見るだけで別人であることは明らかだった」とするよりは、「帰宅した〈とき〉」のようにしたり、「帰宅した。そして」のようにしたほうが、日本語の流れとしては自然だと思う。

とは言え、原文の独特な引っかかりは尊重したい。というのも、この and の使い方は全編にわたって登場するからで、ここで文を切ったり、言葉を足したりすると、オリジナルにある武骨な時間の流れが滑らかになりすぎる。

もう一点気になるのは、show が使われているところ。この場面は、帰ってきた he を受け入れる視点から語られているので、a glance は、不特定多数のそれというよりは、受け入れる側の「一瞥」だと思うし、「彼が別人になっていた」という発見は当然ながら、受け入れる側の認知行為だろう(まったく変わり果てていたことに〈気づいた〉)。にもかかわらず、このshow は、「変わり果てていた」という点を、誰かに向かって発信すべき情報のように提示している。

こう書きながら、自分でもいまひとつこの show の違和感を説明できている気がしないのだけれど、やはりこのような箇所はそれなりにゴツゴツした感じが残るような訳文にすべきではないかという気持ちがこれでむしろ強まったように思う。

翻訳語考。前置詞と関係詞で挟まれたフレーズの訳し方。

翻訳語考。情報を後付けしていくばかりか、挿入句で奥行きをつける英語のセンテンス構造は、日本語の文章構造とそもそも相性がよくない。だから、原文の意味を取るという点では何の問題もないセンテンスが、翻訳するとなると難物として立ち現れてくる。たとえば次のような箇所。

Things went on quietly enough, as above indicated, till I was about fourteen, when by a freak of fortune my father became suddenly affluent.  

図式的に表せば、「物事は平穏に進行」→「14歳ごろ」=「父が急に裕福になる」ということになる。ここで厄介なのは、I was about fourteen が、Things went on にたいしては「継続 till」の関係にあり、「(子どもの頃から)14歳ぐらいになるまで」という幅があるのに、my father became suddenly afflunet にたいしては「ある特定の時点 when」の関係にあり、「14歳ごろ」だけを指しているところだ。

つまり、ここで I was about fourteen というかたまりは、前からは till で、後ろからは when でつながれることで、二つの時間を含意することになっているのだ。上の図式化で「→」と「=」を併用した理由がこれである。

日本語はひとつのフレーズを、前置詞(till)と関係詞(where)でシェアすることはできないので、「14歳ごろ」というフレーズを2回繰り返すしかない。

「14歳ぐらいになるまで、物事は平穏に進んでいた。そして、14歳ぐらいになったころ、父は急に裕福になった」

しかし、こうするとワンセンテンスの原文が2文になってしまうし、原文にはない「そして」という継起の接続詞(A→B)が入ってしまうし、それは、継続(till)と、瞬間的な分断(suddenly)のコントラストを弱めてしまう。

和文英訳的には、語順をひっくり返して、「わたしが14歳ぐらいのとき、父が急に裕福になったときまで、物事は平穏に進んでいた」を思いつくかもしれない。

しかし、この訳には2つ問題がある。ひとつは、次の文では「急に裕福になった」理由が語られるため、この語順だと流れが悪くなること。もうひとつは、この語順にしてしまうと、「すでに述べたように(as above indicated)」という挿入句が行き場をなくしてしまうこと。

前後の流れを踏まえれば、「すでに述べた」のは「物事が平穏に進んでいた」ことである。つまり、「14歳ごろまで(そうだった)」も、「父が急に裕福になった」も新規情報なのだ。そのことを踏まえると、「わたしが14歳ぐらいのとき、父が急に裕福になったときまで、〈すでに述べたように〉、物事は平穏に進んでいた」という訳は、決して間違ってはいないものの、わかるようでわからない日本語になっているような気がする。

というわけで、以下のようにしてみた。

「すでに述べたように、物事は平穏すぎるほどに進んでいった。そのような状態に変化が生じたのは、わたしが一四歳ぐらいのときだった。運命の気まぐれで父はにわかに裕福になったのである。」

「そのような状態に変化が生じたのは」に相当するワードは原文にはないけれど、till の継続状態が、ある特定の時点(when)でストップするというニュアンスを表面化させているという意味では、充分に擁護可能な翻訳的操作ではないかと思う。

20250907 ミューザ川崎でアマオケの定期公演を聴く。

大学のときのオーケストラサークルの知り合いが何人も入っているアマオケの公演チケットをもらったので、行ってきた。2階席の前の方のど真ん中。商業公演ならS席だろう。不思議なまでにステージが近く見える。まるで1階席に座っているかのように。

プログラムはシベリウスの5番が前プロで、メインはドヴォルザークの8番。そして、ワーグナーパルジファルへの前奏曲(ただし、ちょっと短く編曲されていたと思う)。アマオケでなければありえない、アマオケだからこそのゴージャスなラインナップ。

アマオケで30年以上にわたって定期公演をこんなに大きなハコでやれているというのは、すごいことだ。いつもはマチネでやっているそうだが、今回はめずらしくソワレ。それでも、ホールはかなり埋まっていた。4階席はたぶん最初から客を入れていなかったようだけれど、3階席以下は7、8割の入りだったと思う。

アマオケの演奏のほうが曲の特異なところが生々しく姿を現す部分があるように思う。たとえば、シベリウス5番の冒頭では、ホルンの波のようなモチーフに、管楽器が応え、弦楽器が入ってくるけれど、微妙に音程があっていないように聞こえる。しかし、個々のセクションに耳を澄ましてみると、音はズレていない。にもかかわらず、アンサンブルとしてはうまく融合していない。おそらく、セクションのあいだをつなぐ音がもともと書き込まれていないのだろう。だから、まるで2階と4階が存在しない5階建てのビルのような、構造的な危うさがくっきりと浮かび上がってしまう。

シベリウスの音楽(とくに後期の交響曲)は、本当に独自の境地で、日本の楽器演奏者が慣れ親しんでいる独墺系の響きとは別物なのだろう。だから、譜面通りに音を出すだけでは音楽にはならない。

それでも、アマチュアのひたむきな懸命さが、作曲家が望んだのとは違うのかもしれないかたちで、音楽を創り出していく。最後の盛り上がりは、雑味があり、力業で押し切った感じ。シベリウスというよりはマーラー的。でも、これはこれでありという気もした。逆説的ながら、シベリウスの音楽の懐の深さに気づかされた。

ドヴォルザークオーケストレーションはもしかするとメンデルスゾーン的なところがあるのかもしれない。8番はチェロの見せ場が多く、中低弦の厚みがいかにも中欧的な曲だとずっと思っていたけれど、あらためて聞いてみると、2楽章や3楽章のオーケストレーションはむしろメンデルスゾーン的な薄さがある。

ただ、シベリウスの中空的な付かず離れずの多層性に比べれば、ドヴォルザークの中抜き的な響きは和声的にはオーソドックスであり、かつ、あくまで局所的なものだからこそ、パートの個人技で何とかなってしまう部分も大きい。だからこそ、4楽章の冒頭のように低弦をフィーチャーした箇所では、もっとあざとく出しゃばってよかったのではとも思う。

パルジファルは最初から響きの豊かさが段違いだった。オケのメンバーが変わったわけではないし、この曲だけ入念に練習したということもないだろうから、これはひとえにワーグナーオーケストレーションの上手さなのだろう。楽器の音のブレンドに無理がなく、倍音が豊かなのだろう、音がナチュラルに空間に広がっていく。

こうして聞いてみると、鳴りやすい作曲家と、鳴りにくい作曲家は、一聴瞭然だけれど、プロオケはどちらのタイプの作曲家もそれなりに響かせてしまうから、両者の違いが隠蔽されてしまう傾向にある。

などというひねくれた愉しみ方をしていたのは自分ぐらいかもしれないけれど、こういう鑑賞法もあってよいのではと思いたい(自己正当化のためにも、そう主張してみたい)。

翻訳語考。空間描写、一回的行為、反復的行為の切り分けと置き換え。

翻訳語考。英語の語順で読むとスッと入ってくるけれど、日本語にすると情報が拡散してしまい、情景が浮かびにくくなることがよくある。たとえば次のようなセンテンス。 He had your boots put where he could see them from his bed until he died.

なぜ日本語にするとわかりにくいのか。それは、英語では、全般的な状況説明(He had your boots put where he could see them from his bed)のあとに、時間の流れ(until he died)が来ているけれど—―さらに細かく言えば、英語では、前半部分でも「ブーツを置く」という行為から、「ベッドから見えるところに」という場所の流れになっている――、直訳的な日本語にするとこの順番が狂ってしまうのだ。

たしかに、「父は亡くなるまで、ベッドから見えるところにあなたのブーツを置いていた」で訳としては間違っていないし、日本語としてもわかりやすいと思うけれど、原文のニュアンスとしては、「ベッドから見えるところにあなたのブーツを置き、死ぬまでそれを眺めていた」という訳のほうが近いと思う。

久々に小説の翻訳をやってみて思うのは、英語は状況説明(ブーツが〈どこに〉置かれているか)と、一回的な行為(ブーツをそのような場所に〈置く〉)と、反復的行為(ベッドからブーツを〈見る〉)を一文のなかに同居させることができるけれど、同じことは日本語ではとてもやりにくいということ。すくなくとも、原文の手ざわりを日本語で再現しようとすれば、ある種の切り貼りが必要になる。

ただ、この切り貼りは方法論化しづらく、結局、「翻訳者の勘」といったファジーなものにゆだねられている気がする。

翻訳語考。慣用表現ではないシンプルな原文をあたかも慣用表現であるかのように訳す。

翻訳語考。シンプルなワードで書かれたシンプルなセンテンスほど、実は意味がとりづらいし、日本語にするのも難しい。シンプルに書けるのは、その背後には厚いコンテクストがあるから、そこにはさまざまな残響があるからで、それをネイティヴは聞き取り、当たり前のように補うのだろう。つまり、シンプルなセンテンスこそ、言葉を補った翻訳を必要としている部分がある。

しかし、言葉を盛りすぎると、くどくなりすぎる。かといって、直訳に近いかたちにすると、どうしてもぎこちなくなり、悪い意味で「翻訳調」になってしまう。

いま訳しているテクストに(幸いなことに第一稿は今日にも完成しそう)、John is just such another as Tom というような一文があった。ざっくり言えば、「ジョンとトムは似たような人間だ」ということであり、もうすこし細かく言えば、ジョンは、「トムのようなタイプの人間(such ... as Tom)」の「一例(another)」ということで、just は「一例であること」が「まさにピタリとはまっている」という感じだろう。

では、どう訳すのがいいのか。機械翻訳に聞いてみたところ、Google Translate は「ジョンはトムと同じ人間だ」。

DeepL は「ジョンはトムとまったく同じような人間だ」を第一に挙げ、代案として「ジョンはトムのような人間だ」「ジョンはトムとまったく同じ人間だ」「ジョンはまさにトムのような人間だ」を出してきた。

ChatGPT は、直訳的と断りながら、「ジョンはまさにトムと同じような人だ」「ジョンもトムとそっくり同じようなものだ」を挙げた。

「直訳寄りではなく自然な日本語で」と注文を付けると、「ジョンはトムと同じような人だ」「ジョンもトムと似たようなやつだ」、または、just のニュアンスを出すなら「ジョンはまさにトムと同じタイプの人だ」とした。

面白いのは、「日常会話っぽく仕上げる」なら「ジョンって、ほんとトムと同じタイプだね」だとなっていたこと。

ともあれ、これらの訳はどれも間違っていないし、十分読める日本語にはなっている。しかし、英語にはない「人間」を足していいのか、それから、無数の同意語があるのに「人間」でよいのか(人、男、奴などなど)という疑問はある。

機械翻訳や生成AIに聞くより先に、「ジョンはまさにトムと瓜二つ」という訳をふと思いついた。

この訳は、よくよく考えてみると、「トムのようなタイプの人間(such ... as Tom)」というニュアンスを取り逃がしている。ここで想定すべきは、ジョン→トム(またはトム→ジョン)ではなく、トム→トムのような人間→ジョンという図式だからだ。

しかし、この訳は「瓜二つ」という慣用表現を用いている点で、原文のシンプルさを代替しているような気もするし、原文にある another の「一」感を、「二」にずらせているのではという気もする。

それにしても、どうなのだろう。ひとつの言語における慣用表現に相当するものを、別の言語の慣用表現のなかに見つけるのは、むしろAIの得意技なのではという気もする。しかし、ひとつの言語においては慣用表現ではないものを、別の言語の慣用表現に置き換えるというズラしは、人力翻訳者がまだ張り合える領域なのではないだろうか。

とりあえずそう思っておくことにする。