うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記。何のための採点。

特任講師観察記。本務校の採点業務は9割は片付いた。追試対応をしなければならない学生がまだいるけれど、大筋では終わったといっていい。しかし、採点をやるほどに、何のための採点なのかという気がしてくる。

評価は必要だ。いや、評価というよりも、批評といったほうがいいかもしれない。学生のパフォーマンスを公正に、正当に、そして、審美的に判断すること。よいものは熱烈に称賛し、ダメなものは(将来の伸びしろに期待をかけて)生暖かく見守ること。

しかし、そこに得点を付けて、スコアによってクラスを序列化することが、本当に必要なのかどうか。

大学入学までの教育は、つまるところ、序列化を目指したものであるかもしれない。というよりも、「受験」というシステムが、「試験の得点」として数量的に外在化される「学力」にもとづく振り分けプロセスである以上、そうならざるをえないだろう。しかし、そのシステムを大学で引き続き引き受けていく必要はあるのかどうか。

大量のものを捌くうえで、数値化は効率的な手段ではある。しかし、知識の増加はたやすく数値化できるものではないし、それが体験知的なものであればなおさらだ。そして、後者に該当する質的な学びこそ、批判的思考や創造的想像力=想像的創造力、メタ的な認識力や反芻的な省察力こそ、大学教育が推すべきものではないだろうか。

大学「間」の序列は、受験システムを成立させるために不可欠ではある。しかし、大学「内」の序列は、本当に必要なのかどうか。

身につけるべきものを身につけられてない者はやり直させる、身につけた者は先に行かせる。それぐらいシンプルでいいのではないか。

誰に見せても恥ずかしくない仕事をしているかどうかは、学生自身がいちばんよくわかっているのではないか。悲惨な成績を与えてさらに辱める必要はあるのかどうか。

優れた者は、口頭で、書面で、褒めたたえれば、それでいいのではないか。学生のなかで何か新しいものが芽生え始めているかどうか、何か素晴らしいものが育ちつつあるかどうかを、教える側がそっと囁いてあげればいい。

しかしそれは、現行の大学制度においては、あまりにユートピア的な提案だ。だからこうして、出席回数や課題提出状況までもを数値化し、無意味なまでに厳密に、採点しなければならないのである。本当に何のための、誰のための採点なのだろう。