うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20191229 Day 7 カリフォルニアの亡霊、または郊外の風景のグローバル性。

今回のエジプト旅行の大きな動機のひとつは、エジプトのとある大学に出向中の友人を訪ねることだったのだけれど、実際に来てみて、不思議なショックを受ける。ここはアレクサンドリアから120キロくらいで飛ばす車で西に1時間ほどの距離で、彼に言わせると「田舎」とのことだが、おそらく比較的何もなかった土地に突如として出現させられた大学とそのキャンパス、そしてそれに伴う学生人口は、ここに、郊外としか呼びようのない歴史なき生活空間を作り出したように思う。そしてその風景は、驚くほど、カリフォルニアの郊外に似ている気がする。

どこがと言われるとなかなか説明しづらいのだけれど、クリーンだけれど無個性的な建物であるとか、道路脇に等間隔で植えられた街路樹であるとか、計画的に引かれたに違いない直線的な道路であるとか、居住地域とキャンパスと商業地域の明確な分割であるとか、そのあたりだろうか。空間の背後にすべてを計画した人為的な手を感じると言えばいいだろうか。

それが悪いというのではない。たしかにこれは快適な場所ではあるし、自然発生的な混沌的生命が抱え持つ厄介事から解放されている。しかし、その代償として、街が自然に発展する可能性を最初から手放しているとも言える。つまりこの街は最初から死んでいるのだ。これを発展させるには、行政の介入が必要であるし、そのためには資金が絶対的に必要だ。このような土地は管理を必要とするだろう。そしてその管理は、必然的に、上からのものにならざるをえない。

21世紀において新たに空間を創出させようとした場合、必然的に、カリフォルニア的な郊外がモデルになってしまうというのは、何か寂しい気がする。別の可能性の腹案を思い描けるというわけではないのだけれど、アーバインとは異なった郊外のあり方というのはありえないのだろうかと考えずにはいられない。

 

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