うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

浮世絵のように:朝比奈隆の力強い隈取、2次元的な平面的深さ

朝比奈隆の音楽は愚直に真摯であり、誠実な確信にあふれている。ときとして鈍重に響きはする。泥臭く、スタイリッシュではない。しかし、何かを真似ているのではない凄みがある。

朝比奈の指揮は決してうまくない。タクトだけでオケをドライブできる類の指揮者ではないだろう。呼吸は自然であるし、音楽は然るべく流れてはいく。しかし、厳密に言えば、拍子は必ずしも正確ではない。

1.5世代離れた小澤征爾の驚嘆すべき技巧的卓越性や身体的敏捷さを知ってしまった後に朝比奈のブルブル震えるようなフルトヴェングラーじみた指揮棒さばきを見ると、どこかアマチュアくさい感じがする。

しかし、小澤に、西欧的な正解を知っているがゆえの悲哀――それを知ってしまった以上、どうしても忘却することはできず、あえて退けようとしながら、結局はそれに囚われてしまい、自由に自分勝手になりきれないという悲劇――がただよっているとすると、朝比奈の音楽にはそれがない。屈折がないのだ。あまりに素直である。自らの内に根拠があるかのように。

 

とはいうものの、朝比奈の核心にあるのは、日本が誤解した西欧なのかもしれない。愛をこめて西欧のものを研究し、心の底からそれを吸収してはいるものの、どこか勘所を外してしまっているような感じ。オーセンティックではない感じ。それは、フレンチでもイタリアンでもない、洋食という日本独自のジャンルに似ている。

 

朝比奈の音楽の説得力は比類ないが、彼の作る音楽が西洋音楽の神髄を具現化しているのかというと、なんとなく疑わしい。むしろこれは、日本人が夢見た幻想の西欧ではないのか。

朝比奈の音楽には途方もない深さはあるが、奥行きはない。輪郭は太く強いが、響きがない。線の絡み合いこそ明確だが――この点において、朝比奈と小澤は奇妙にも軌を一にする――瞬間的な共鳴は感じられない。だから朝比奈のブルックナーは響きの濃度や密度の平均値はおそろしく高いところをキープしているにもかかわらず、陰翳に欠ける。音楽が膨張したり拡張したりしていくことがない。

一本調子なのだ。

時間や空間が変容しない。朝比奈の音楽はどうしようもなく世俗的なのだろう。超越的なものが現出しない。敬虔であるし、畏怖の念はある。しかし、にもかかわらず、現世的なものでしかない。

 

朝比奈の音楽は、もしかすると、浮世絵のようなものかもしれない。朝比奈はどこもかしこもメゾフォルテで演奏させているという批判をむかしどこかで読んだ記憶がある。そのとおりではある。内声を強く弾かせるから音は厚くなるが、一様な厚みである。力強い隈取は、対象をくっきりと浮かび上がらせるが、西欧的な透視図法や遠近法は存在しない。すべてがフラットで、3次元的な空間的奥行きがない。しかし、2次元的な平面的深さはある。

朝比奈の音楽は特異だ。そしてこの特異さは、非西欧からしか現れてこないだろうし、今後の日本から生まれることはないだろう。いろいろと知りすぎて賢しらになってしまっているわたしたちはもはや、朝比奈ほどに堂々と悠々と踏み外し続けることはできない。

 

その意味で朝比奈はやはり偉大なマエストロであった。

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答えが出ている問い、答えのない問い(ソルニット『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』)

「答えがあらかじめ決まっている問いというのもある。少なくとも問いかけた側にとっては、正解がひとつしかない類の問いだ . . . 答えはもう決まっていて、それを押しつけ罰を与えたいだけなのだ。わたしの人生の目標のひとつは . . . 答えが出ている問い [closed questions] に答えのない問い [open questions] で切り返せるようになること . . . 何はともあれこう尋ね返すのを忘れないことだ――「なんでそんなこと聞くんですか?」後になって気づいたのだが、これは敵意ある問いには常によく効く返し方で、答えがもう出ている問いというのは、たいてい敵意に満ちたものだ。」(ソルニット『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』13頁)

"We talk about open questions, but there are closed questions, too, questions to which there is only one right answer, at least as far as the interrogator is concerned. These are questions that push you into the herd or nip at your for diverging from it, questions that contain their own answers and whose aim is enforcement and punishment. One of my goals in life is to become truly rabbinical, to be able to answer closed questions with open questions, to have the internal authority to be a good gatekeeper when intruders approach, and to at least remember to ask, "Why are you asking that?" This, I've found, is always a good answer to an unfriendly question, and closed questions tend to be unfriendly." (Solnit. The Mother of All Questions.)

 

「差別を雑に眺めることは、集合的な罰という考え方にも通じている。他者を単一の組織体――イスラム教徒、ユダヤ人、黒人、女性、ゲイ、ホームレス、怠惰な貧乏人――として考えると、そこに属するどんな人間でも傷つけることができてしまう。」(ソルニット「鳩が飛び立ったあとの巣箱」『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』189‐90頁)

「自然本来の無宗教」(フェルナンド・ペソア「アナーキストの銀行家」)

「人の力でアナーキストになろうとするなんて . . . とにかくたしかなのは、真のアナーキズムにおいては、ひとりひとりが、自分の力で、自由を創造し、社会的虚構とたたかわねばならないということなのだ . . . この真のアナーキズムの道を歩もうという者はほかにいないのか? それなら僕は行く。ひとりで、自分の力で、自分の信念で、もはや同志の心のささえもなく、全社会の虚構にたちむかう。べつに格好つけたり、英雄気取りのわけじゃない。ごく自然のなりゆきさ。ひとりで歩まねばならない道だというなら、道連れなどいらないね。自分の理想があれば結構だ。」(フェルナンド・ペソアアナーキストの銀行家」『フェルナンド・ペソア短編集』134、35頁)

 

人間性というものを信じて言わせてもらえば、憎悪の体制など続くわけがないよ . . . 社会主義共産主義の目的は、労働者を高い地位にひきあげることではなく、ブルジョワを低い地位におとすことだ。労働者はおなじ状態のままか、さもなければ、さっきも言ったとおり、もっとひどい状態になる。おまけにブルジョワが失ったものを、労働者が手にするわけじゃない。逆に、アナーキズムは、愛の体制だ。そして、自分の愛するものをしいたげようとするものはいない。」(ペソア「「アナーキスト銀行家」補遺」169‐70頁)

 

アナーキズムは自然によって人間の心に植えつけられた、自然本来の無宗教だ。」(ペソア「「アナーキスト銀行家」補遺」175頁)

酔いの深さが暴き出すわたしたちのかけがえのなさ(プルースト『ゲルマントのほうI』)

「酔いには、太陽や旅がもたらす陶酔から疲労やワインによる酔いまでさまざまな種類があるだけではなく、海の水深のように異なった「深さ」もあり、そうした酔いが私たちのうちで、まさに各々の深さのところにいる一人の特別な人間の存在を暴き出す。」(プルースト高遠弘美訳『ゲルマントのほうI』)

生真面目な歓喜、意図的な野蛮:アーノンクールの呼吸と身振り

アーノンクールの演奏を聴くと、目をぎょろつかせた、何かに烈しく怒っている顔が頭に浮かぶ。しかしその顔をしばらく見つめていると、その憤激の裏に奇妙なユーモアがあることにも気づかされる。あまりに生真面目で、あまりに真剣なので、とても笑顔とは言いがたいのだけれど、にもかかわらず、やはり愉悦としかいいようのない純粋な歓びが、表層的な不機嫌さの向こうから噴き出してくる。

 

ウィーン交響楽団のチェロ奏者として演奏家のキャリアをスタートさせたアーノンクールの指揮は決して上手いものではない。両方の人差し指を突き出しながら拍を大雑把に示す。

震えるような身振りは、数学的な正確さとは程遠い。しかし、アーノンクールの目指す音楽は、デジタルな精度とは無関係なところにある。かなりどぎついアタックを好むけれども、それはあくまで呼吸のレベルでのことであって、実際に出てくる音のレベルではないようなところがある。いや、もちろん、アーノンクールが音自体を軽視しているわけではないけれども、彼の関心は、音そのものというよりは、音を出す奏者の身体や精神に向かっているように思う。

そう書いていて、なぜかふと、学部時代に受講した能についての授業で、担当教員に、能の笛や太鼓の音のズレが西欧音楽のアンサンブルに慣れ親しんでいる身からするとすごく気になると言ったところ、能の演奏は呼吸で合わせるから、というようなことを言われたことが思い出された。もしかするとアーノンクールの音楽もそういうものなのかもしれない。

最終的な音は結果にすぎなくて、重要なのは、そこに至る過程。過程を徹底できれば、最終的な音のズレは些事である。

そういうことなのかもしれない。

 

アーノンクールは、洗練された粗野を求めているのだろう。古典的な西欧美学は、荒々しい生の力を、技術によって陶冶するというものであり、洗練こそが美ではなかったか。

アーノンクールはそれを意図的に覆す。

意図的に洗練を退け、洗練されるべきであった素材の生命力を加工なしに表出させようとする。正確さを忌避しているわけではないけれど、過剰な正確さは人為の現れにほかならない。

 

アーノンクールの音楽はおそらくきわめて身振り的であり、言語的なものなのだ。

フレーズのアーティキュレーションこそがアーノンクールの音楽を形づくる。響きでも、リズムでもなく、ディクションをこそ、統一させようとする。

言葉としての、言い回しとしての音楽。ディクションはアナログ的なものであるので、どうしても個々の奏者のシンギュラーな差異もそこでは音に出てしまうので、アーノンクールのアンサンブルにはつねに雑味がある。

 

どこか奇矯な音楽だ。生理的に気持ちよいところをあえて外してくる。なめらかさを拒否するくせに、わざとズラしてくるわけではない。学究的であるのに、理性的なものに安住しない。頭でっかちなところがあるのに、究極的には、身体的な勘を信頼している。しかし、生々しさを尊ぶくせに、媒介なしの生そのものは拒否する。それはきわめて狭いストライクゾーンであり、ハイコンテクストにすぎる音楽でもある。

デリダやド・マンの脱構築が、「脱」すべき「構築」のないところでは成立しないように、アーノンクールの人為的不自然さの美学は、彼が自らを差異化しようとしてする仮想敵の存在が共有されていないところでは、ただ単に、奇妙なようにしか聞こえないのではないか。

 

アーノンクールの音楽はパフォーマンスなのだと思う。受容者の存在はここで決定的である。彼の音楽は、一方的に聞くものではなく、双方向的に見聞きして体験すべきものである。アーノンクールの音楽にとって、彼の不機嫌な歓喜の表情は、本質的なものであるように思えてならない。

 

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劇か祭か(ロマン・ロラン、大杉栄訳『民衆芸術論』)

「劇は、貧しいそして不安な生活が、その思想にたいする避難所を夢想のなかに求める、ということを前提とするものである。もしわれわれがもっと幸福でもっと自由であったら、劇の必要はないはずである . . . 幸福なそして自由な民衆には、もう劇などの必要がなくなって、お祭りが必要になる。生活そのものが観物になる。民衆のためにこの民衆祭を来させる準備をしなければならない。」(ロマン・ロラン大杉栄訳『民衆芸術論』)

"Le Théâtre, comme notre Art tout entier, sous leurs formes les plus nobles, suppose une vie rétrécie et attristée, qui cherche dans le rêve un refuge factice contre ses pensées. Plus heureux et plus libres, nous n’en aurions pas besoin. La vie nous serait le plus glorieux spectacle et l’art le plus accompli. Sans prétendre à un idéal de bonheur, qui s’éloigne toujours à mesure qu’on avance, osons dire que l’effort de l'humanité tend à restreindre le domaine de l'art, et à élargir celui de la vie. Un peuple heureux et libre a besoin de fêtes, plus que de théâtres ; et il sera toujours son plus beau spectacle à soi-même./ Préparons pour le Peuple à venir des Fêtes du Peuple." (Romain Rolland. Le Théâtre du peuple.)

小澤征爾という問題:東洋が西欧に喧嘩を売るために犠牲にしたこと

小澤征爾を聞くと、柄谷行人の言葉を思い出す。アメリカに行って、デリダやド・マンのようなことを英語でやることはできないと思ったが、言語の言語性に依拠しない純粋な論理が焦点となる分析哲学のような領域であれば渡り合えると思った、というような発言が思い出される。
 
小澤の音楽は、西洋音楽を、純粋な音の構築物、音そのもののダイナミズムに変換していくようなところがある。躍動する論理としての音楽、論理的な肉体としての音楽。
明晰であるほどに、その異形さが際立ち、不気味さがいやます。
 
小澤征爾の指揮はかなり細かい。大きな身振り、肩口まで手を振り上げて手刀のように振り下ろす所作に目を奪われがちだが、小澤の技術的卓越性は、細かい拍や変拍子をまるでメトロノームのようにきっちりと振り分けるところにある。
ミクロなレベルでの鼓動を、マクロなレベルでの脈動にピタッとはめることができるのは、小澤のリズム感覚がいわばデジタル的で、好きなだけ細かく分割可能でもあれば、複層的な流れをいつでも好きなようにシンクロさせられる余力があるからだろう。
小澤ほど楽譜を虚心坦懐に音にしている指揮者も珍しいのではないか。彼の演奏と比べると、ブーレーズのような指揮者たちがいかに楽譜を自分の美学に従って再構成し、独自の音響世界を捏造しているかがわかる。ブーレーズが万華鏡の鏡のような増幅装置だとすると、小澤は何も足さず、何も引かずに自らを透過させる透明な媒体だ。
 
小澤の演奏では、楽譜のなかの幾何学的なパターンーーたとえば、低い声部と高い声部に割り振られているがゆえに、純粋な音としては対位法して聴認しがたいもの――がびっくりするほどクリアに響く。
しかし、このあまりにも正確無比な音の愉悦に身を任せていると、別の疑問もわいてくる。
はたしてこのような純粋な音の運動が、4拍子が完全に均等な4等分になっている数学的で幾何学的な音響世界が、音楽として愉しいのか、という疑問(それは、NHK交響楽団はもちろんのこと、サイトウキネンオーケストラにも通底する問題だ)。
 
それはもしかすると、小澤の音楽が、アタックの瞬間的な鮮烈さには気を配りつつも、アンサンブルとしての持続的な厚みにはわりと無頓着なところとも、関係しているのかもしれない。
つまるところ、西欧の音楽家たちのリズムやメロディには、微妙なタメやノリがある。それはデジタルに言えばズレなのだけれど、そうした微細なハズシがアジとなっている。
そのような伝統的な惰性をすべて洗い流し、すべてを書かれた音符を基点にして立ち上げた単なる純粋な音に還元したところに、小澤の卓越した無国籍的、無歴史的、無時間的な異化作用があったのだろう。
 
そのようなラディカルな抽象化は、中和剤としてはすばらしい。
 
しかしこれを単体で讃えていいのかとなると、どうしても言い淀んでしまう。
小澤の演奏の浅さ、薄さ、軽さは、かけがえのない美点であると同時に、東洋の島国の一個人が、西欧数百年の伝統に、徒手空拳で喧嘩を売るために引き受けざるを得なかった副産物であるようにも思う。
小澤のテクニックの純粋さが引き立つのが、アイヴズのような意図された混沌や、武満のような東からの西への挑戦、または、バッハのような幾何学的な秩序であるというのは、さもありなんというべきところである。