うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。立看板の不在。

アメリカ観察記断章。うちの大学のキャンパス特有の事情ではないと思うが、アメリカのキャンバスには日本のキャンパスのようにベニヤ板の立看板がない。日本がいわば情報を由布するため(だけ)に勧誘の立看板をずっと放置しているとするなら、アメリカにおける勧誘はつねにリアルな口頭のコミュニケーションによって行われているように思う。そしてサークルというかソサイエティは、昼間にテントを広げ、ボバティーだとかスパムニギリだとかコリアンBBQなどを路頭で売って、活動費を稼いでいるらしい。キャンパスにおける告知は、だいたい、欄干だとか掲示板にベタベタと張られたA4サイズのビラが大勢を占めているように感じるけれど、究極的なところでは、アメリカにおけるコミュニケーションは紙媒体ではなく人的な触れ合いがモノを言うように感じる。これは授業でもそうだと思う。アメリカの教育シーンにあっては、コミュニケーション内容よりも、コミュニケーション行為そのものが重要なのではあるまいか。シニカルな言い方になるけれど、ディスカッションが正しい結論に達するか否かよりも、学生たちが気兼ねなく気持ちよく意見を述べることができる環境を準備して「いいディスカッションができた」という幻想を彼ら彼女らに与えられるか否かが重要なのだ。ところでアメリカのキャンパスでは、いろいろな集団が犇めいている。グリークレターを冠した社交クラブだとか、エスニックグループ(日系でいうと、Tomo no kaiとかいうのがある、一度も行ったことはないけれど)だとか。こういう学生っぽいものがあるかと思うと、他方では、聖書を無料で配布しているグループがいたりする。そして学期末のある週は、外部の露天商たち(ポップコーンだとかアクセサリーだとか、マフィンだとか古着だとか)がキャンパスの通りでいろいろな商品を売っている。だからキャンパスはいつもどこかお祭りめいたハレの雰囲気がある。相見知らぬ人が出会い気負いもなく気軽にコミュニケーションを紡いでいける場がそこかしこに開けていること、それがアメリカの開放性の肝であり、アメリカがいつまでも成熟することなく若くほとんど青臭いままでいられる理由であるように思われる。