うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240311 カナダ滞在記のはじまり2/3、成田空港のジャパニズム

成田空港に来るのは何年ぶりだろうかというぐらいだけれど、久々に来て、アジア系言語がそこかしこから聞こえてくることに気がつく(付言しておくと、アジア系言語がわかるからではなく、自分が知っている西欧系言語の響きではないことと、視覚的情報を補って、そのように結論しているだけである)。

アジア系と言っても、中国韓国ばかりか、東南アジアからの若者グループが多い感じがする。その一方で、西欧圏からはわりと壮年老年だったり、家族連れという感じがする。南米からの旅行客も多そうだ。そして、やはり、若者が多い気がする。

それにしても、空港西あふれる「日本的なもの」は何と言えばいいのだろう。『ブレードランナー』と『攻殻機動隊』の描く「日本」を臆面もなく採用したという感じだろうか(これを見ると、いま、アキバなどは一体どうなっているのかと思ってしまう)。一昔前なら、このような日本表象は海外に見られるものであり、いわば日本の保守派が眉をひそめるものであったと思うのだけれど、それがいまや国の玄関に堂々と掲げられているのだ。

しかし、空港は雑多な演出空間でもある。セキュリティチェックを抜けたすぐにはハイブランドがズラッと並んでおり、むしろデパート的。そこからすこし離れると、このようなキッチュな日本表象が出現するスペクタクルの空間。さらに遠ざかると、わりと無味乾燥な空港の無国籍性(それはショッピングモール的な空間である)が顔を出す。

 

 

20240311 カナダ滞在記のはじまり1/3、カナダの紙幣

外貨が必要かとも思いつつ、まったく現地通貨を持たないのも不安なので、多少両替すると、20カナダドル札と5カナダドル札を出してくれた。英仏併記なのは予想通りだが、紙幣といえば紙という思い込みがあったので、ホログラムのような部分が紙幣の中にあることに妙に驚いてしまう。透明なフィルムが紙と融合しているけれど、ここだけ劣化することはないのだろうかとか、ここを折るとどうなるんだろうとか、湿気で紙とフィルムの伸縮率にズレが出ることはないんだろうかとか、どうでもいいことを考えてしまった。

20ドル札がエリザベス女王というところに、カナダとイギリスの一筋縄ではいかない関係を感じる一方で、5ドル札のほうは7代目の首相ウィルフリッド・ローリエとのこと。ウィキペディアのよれば、「初のフランス系カナダ人の首相として知られ、仏語圏と英語圏の調整によりカナダ連邦を拡張するなど、和解(妥協)政策でよく知られた。ローリエはまた、政治・経済面での自由を確保出来ることを前提に、イギリス帝国に残ることを認めた。45年に亘り庶民院議員を務めたこと、連邦首相在任15年間というのは、いまだ他の誰の追随も許していない。」

それにしても、5ドル札のほうは宇宙開発、20ドル札のほうは第一次大戦戦没者を慰霊する碑(フランス北部のヴィーミにある)というのは、なかなかに興味深い。やはり通貨には国家性=国民性が表出するようである。

 

文化と想像力の危機としての気候変動の危機(ゴーシュ『大いなる錯乱』)

第一部 物語

気候変動の危機はまた、文化の危機であり、したがって、想像力の危機でもあるのだ。[. . . the climate crisis is also a crisis of culture, and thus of the imagination.](16‐17 [9] 頁 )

 

環境をめぐる〈不気味なもの〉は、超自然な不気味さとは似て非なるものだ。その違いは、まさに、前者が人間ならざる(ノン・ヒューマン)諸力・諸存在にかかわる点にある。(55頁)

 

気候変動によって引き起こされる出来事の不気味さ[…]今日わたしたちが経験している奇怪な天候事象は、それがいかに徹底的に非‐人間的(ノン・ヒューマン)な性質の物であろうとも、人間の行為の蓄積によって生じたものであるということだ。その意味では、地球温暖化によって引き起こされる諸事象は、わたしたちがみな多かれ少なかれその発生になんらかのかたちで寄与しているという点で、むかしにくらべて人間とより親密な関係をもっていると言える。自分の手でこしらえたあやし(55頁)げな創造物が、まったく思いもつかなかったような姿かたちとなって舞い戻り、わたしたちにとりつくようなものなのだ。(56頁)

 

人間存在のよるべなさへの自覚は、あらゆる文化に見いだすことができる。[…]では、こういった直観が、植民都市建設者たちの精神からだけでなく、文学的想像力の最先端からも退いてしまったのは、なぜなのだろう。西洋においてさえ、近代の到来からずいぶんと時間が経ってからやっと、大地は秩序正しく穏やかなものと見なされるようになった。詩人や作家たちにとって、「崇高」の観念と結びついた畏怖の念を惹起する力を〈自然〉が失うのは、一九世紀も終わりごろになってからにすぎないのだ。(93頁)

 

そう考えてみると、人間ならざる諸存在の行為主体性をめぐる謎の実体は、それが〔最近になって〕あらためて認知されるようになったことにあるのではなく、むしろ、それへの気づきがそもそもどうやって——すくなくともここ二~三世紀のあいだ支配的であった思考や表現の様式の範囲内(109頁)では——抑圧されるに至ったのか、というところにある。このプロセスにおいて、文学の諸形態は、あきらかに重要な、おそらくは決定的な役割を演じてきた。であるから、わたしが最初に掲げた前提、すなわち、人新世によってわたしたちは、わたしたちの肩ごしにまったき意識をもって世界をみつめている〈他なる〉まなざしの存在を認知=再認せざるをえなくなっているという前提を、しばし真にうけてみるならば、まっさきにとび出してくる問いは以下のようなものとなるだろう——近代小説における人間ならざるものの地位=場所(プレイス)とは、どのようなものであるのか。

 この問いに答えようとすると、また別の、人新世がもたらす不気味な効果に向き合うはめになる。それは、文学的想像力が人間へとその照準を劇的に移動させた時期〔=近代小説の誕生〕と、人間の活動が地球の大気に変化を生じさせはじめた時期〔=人新世〕とがぴったりと重なる、という事実のことだ。そうなると、人間ならざるものが小説の中心に描かれることが仮にあったとしても、それは真剣な小説(シリアス・フィクション)の豪邸のなかでというわけにはいかず、むしろ、その邸宅から放り出されたSFやファンタジーが住まう周辺部に散在する小屋においての話となるのだった。(110頁)

 

第三部 政治

フィクションが——この言葉によってわたしは小説だけでなく抒情詩や神話も指している——可能にすることは、世界が現状とは別様である〈かのように〉想像するために、仮定法のかたちで世界に接近することである。要するに、フィクションがもつ重要で替えの利かない潜在的な力は、さまざまな可能性を想像することを可能にすることにあるのだ。そして、人類の生存にかんして別のかたちがありうることを想像するのが、まさに気候変動によってつきつけられた難題(チャレンジ)なのだ。なぜなら、地球温暖化がみごとにあきらかにしたことがひとつあるとするならば、それは、世界をただ現状のあるがままに考えることは集団的自殺の方程式をなぞることにつながる、ということだからだ。わたしたちは、むしろ世界がそうありうるかもしれない状態を想像すべきなのだ。しかし、人新世をめぐる他の多くの〈不気味〉なことがらとおなじように、この難題(チャレンジ)がわたしたちの目前にあらわれたのは人新世に応答するのにもっとも適した想像の形式——フィクション——が根本的にことなる方向へと舵を切ったまさにその時であったのだ。

 つまり、ここには「個人の〈モラル〉をめぐる冒険」という観点からフィクションや政治を理解することの逆説とその代償がある——それは、可能性そのものを否定するのだ。人間ならざるもの(ノン・ヒューマン)についていえば、ほぼその定義からして、主体性を神聖視して政治的な主張が一人称でなされる政治から締め出されている。(210頁)

 

著者インタビュー

スタインベックのような作家はその時点でなにが可能であったのかを書き残すことで、わたしたちに道を示してくれていると思います。〔「先進国」の〕現代文学についてわたしが強く感じるのは、現代作家のあまりに多くが、スタインベックのように〈自然〉や〈世界〉に真正面から取り組むことに背を向けているという事実です。そして、そのような傾向が全面化してくる時期と温室効果ガス排出量が急増した時期とが重なることは、けっして偶然ではないと思うのです。(280頁)

 

アメリカの小説で用いられるメタファーについて考えてみてください。それは、ほとんどの場合、プラダを着たとかフォード車に乗ったとかいった。商品(コモディティ)のメタファーです。木や森や動物が中核的なメタファーになることは、まずありません。アメリカ文学における商品あるいは商品化のメタファーの浸透ぶりには目をみはるものがあります。(280頁)

 

281 インタビューアーの応答:大江健三郎と木のメタファー、村上春樹と商品のメタファー

 

たんなるドキュメンタリーではなく、その現実に密着した記述が小説という形式をとることによって超越的なアレゴリーの域に到達していることがこういった作品[引用者註:スタインベックの『怒りのぶどう』やメルヴィルの『白鯨』『レッドバーン』]の真の偉大さだと、わたしは思うのです。(282頁)

 

スタインベックは、日本だけでなくアジア全域において、二〇世紀アメリカが生んだもっとも影響力のある作家であると言っても過言ではないのではないでしょうか。それが文学界において脇に追いやられていくその過程自体が、考察にあたいするものだと思います。(283頁)

 

 

 

アンビエンス詩学の否定神学、または不在を不在「として」記述すること(モートン『自然なきエコロジー』)

文章は、なにかないものとして描き出すことで、それを記述することができないところを言葉で占めることで、陽否陰述に自己言及的なねじれを生じさせるが、このねじれは、なにかを記述する私たちの能力をどれほどまでに言葉が駄目にしているかということへの不平不満に由来する。この否定的描写は、アンビエンス詩学ではとりわけ重要である。アンビエンスは背景を背景として喚起するので——背景を前景へと引き出すならば、それを解体することになるだろう——それは遠回しで斜交いの修辞戦術を頼りにせねばならない。否定的なエコロジーが、否定神学のように自然をより適切に記述すると考える学派が存在する。私は、否定神学はいまだに形而上学に苛まれているというデリダの見解に、納得している。環境の否定的な詩学もまたこれらの徴候に悩まされているかもしれない。(89頁)

 

学者たちは、彼らが反知性的であるときにもまして知性的であることはない。自尊心のある農民たちはだれも、アルド・レオポルドやマルティン・ハイデガーのようにはふるまわない。社会的および主体的な観点を、ちょうど農民が行っているようにして反省的に選択している教授以上に、ポストモダンであることができるのか。(40頁)

美的なものは距離の産物でもある。それは自然からの人間存在の距離であり、客体からの主体の距離であり、物体からの精神の距離である。それはむしろ、怪しいほどにまで反エコロジカルではないか。(48頁)

アイロニーは、存在の一つのあり方になるとき、皮肉にもアイロニーであることをやめる。アイロニーは、全てに対する美学化された距離を維持するのではなく、よそ者とも親密な関係性を構築せねばならない。(195頁)

近代批判、または、近代が切り捨てるものを切り捨てるない方向性の模索(ラトゥール『地球に降り立つ』)

「近代人のこれまでの選択は、つねに古いものと新しいものとのあいだの選択だった[…]近代人にとって過去に架ける橋はない。過去はつねに乗り超えられるもの、時代遅れになるものだ。[…]伝統の概念を懐古的だと笑い飛ばし、伝達、遺産、再生のすべての形を、あるいは変容のすべての形を、つまりは発生のすべての形を排除する。そうした排除が、風景、動物、政府、神だけでなく、人間の子どもの教育に対しても行われる。」(ラトゥール『地球に降り立つ』135‐36頁)

近代化への抵抗、または留まり続ける勇気(ラトゥール『地球に降り立つ』)

「近代化に抵抗するとは、自らの地所の代わりに他の地所が用意されることを、勇気をもって拒むことである。」(ラトゥール『地球に降り立つ』33頁)

人間と他の生命体の絡まり合い、または人間による代弁と人間だけの未来志向の問い(チャクラバルティ『一つの惑星、多数の世界』)

「人間が他の生命体と絡まり合っているという事実は、私たちに集団的および個人的なところで影響を及ぼしている現在のパンデミックに関する物語においてだけでなく、惑星的なレベル――たとえば地球システムの歴史―—においても明瞭である。だがこれらの絡まり合いは、リアルなものでありながらそれ自体では政治的な主体を構成しないのだが、それでいて、人間には、(人間の制度の内部において)動物や植物、さらには山や川のような無生物のための弁護者となることができる。私たちが、人間に起因する気候変動と呼ぶ出来事や問題の雪崩を前にするとき、人間も人間ならざるものも行動することになるだろう。たとえば、木、動物、鳥、魚、その他の生き物や微生物がすべて、自分たちが反映するのにもっとふさわしい場所や地域へと移動しようとするだろう。だが、「何をなすべきか」という未来志向の問いは、いまだに人間だけのものである。」(チャクラバルティ『一つの惑星、多数の世界』39-40頁)