カヴァフィスはギリシャ語で書いた詩人だが、アレクサンドリアで生まれ、一時期ここを離れた以外は、生涯をアレクサンドリアで過ごした。カヴァフィスが暮らした部屋がいまは博物館になっている。建物はすぐに見つかったが、入り方は若干トリッキー。博物館は2階となっているが、2階というよりは4階といったほうが妥当な気がする、階段と階数からすると。しかし困難はこれだけではない。入口が閉まっているのだ。扉には「ヘレニズム文化協会」というようなプレートがあり、そこに「カヴァフィス博物館」と書いてある、扉の横にある呼び鈴を鳴らすと、中から扉を開けてくれるという仕組みだ。
見るべきものはあるような、ないような。各国語の翻訳がガラスケースのなかに入れられており、さまざまな人の手になる肖像画や写真が壁にかかっている。デスマスクや彫像がある。カヴァフィスが使っていたと思しき書き物机や椅子、ベッドがある。「イサカ」という詩のプレートが原語と3つの英訳でかかっていたが、たしかにこの詩で歌われている所在なさの感覚――故郷は不可能であると同時に必要である、というのも故郷がなければ出発するための拠点がなくなってしまうから、帰るための場所として故郷はあるけれども、故郷に帰るために旅に出るのではない、故郷に期待してはいけないけれどいつかは帰ることになる場所である、そして帰ってみてやはり故郷は何も与えてはくれないことに気づくのだ――は、アレクサンドリアという街とたしかに響き合っているような気はした。帰国したらカヴァフィスの伝記を読んでみよう。窓際におかれたノートをぱらぱらめくってみると、ギリシャ語の書き込みが多数あった。ギリシャからの来訪者が多いのかもしれない。
駅前のほうに歩いていくと、マーケットが出ている。パッケージの肉などがある一方で、塊の肉がぶら下がっていたりもする。駅前の公園の木々が面白い形に刈り込まれている。
駅から海に伸びる通りにも店が立ち並んでいるが、そこに古本屋のスタンドのようなものがいくつも林立している。アラビア語の本が主体だが、多少は英語の本もある。しかし生物学とか経済学の教科書のようなものが主体な気がする。近くにアレクサンドリア大学があるから、そういう本の需要があるということなのだろうか。