うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

クラウス・マケラの感染的な歓喜:流線形の抒情性、気負いのない感じのよさ

クラウス・マケラを新時代のカラヤンと呼んでみたい誘惑に駆られる。どこまでものびやかで、どこまでもみずみずしい、流線形の抒情性。指揮の身振りが大きく、抉るように前のめりに棒を突き出すかと思えば、見得を切るかのように両腕を大きく振るう。スペクタクルになるように計算された演出にも見えるが、同時に、聴衆を意識しない完全に没入的な身振りでもある。ダブルスーツを颯爽と着こなすブロンドの美男子は、天使の顔をした小悪魔だ。オーケストラを誑しこむカリスマ。1950年代の壮年期のカラヤンの怖いもの知らずの勢いのようなものがある。

音楽の「感じ」が圧倒的にいい。音の流れが自然なのだ。無理強いがない。外枠を最初に作って後で内側を埋めていくのでもなければ、ミクロな細部からデジタルに立ち上げていくのでもない。ここではすべての音が旋律であり、だからこそ、すべての音は、空間に置かれるのではなく、時間の流れに乗り、奔流となる。奏者を縛るのではなく、解き放つことで(または、解き放っていると巧みに——しかし、あたかもそのような人為性など微塵もないかのように——信じこませることで)、オーケストラをノセにノセる。ここでは誰もが愉しく騙されるのである。

しかしマケラの指揮の心が浮き立つようなエアリーな軽やかさは、重低音を土台にして上部を歌わせるカラヤンの音楽にはないものだ。マケラは低音を静的な基盤にしない。彼の音楽では低音もまた流動する線であり、前進する層となる。高音の管楽器や弦楽器が彼の作る響きの輝きを特徴づけてはいるけれど、にもかかわらず、すべての声部が、すべての音域が、互いに呼応し、互いに対話し、共に歌っている。

これはもしかすると、彼がチェリストである(エサ=ペッカ・サロネンの『チェロ協奏曲』のノルウェー初演を受け持つほどの腕前らしい)ことや、彼がフィンランド出身であることと、無関係ではないのかもしれない。マケラはサロネンフィンランド国立歌劇場でワーグナーの『指輪』を振るときにアシスタントを務めたそうだが、なるほど、彼らの作る音は、軽やかな敏捷性、ニュアンス豊かな淡色、清澄なカンタービレにおいて、よく似ている。

しかし、サロネンたちの世代が、ある程度の時期まで、ブーレーズがあまりにも見事に実践してみせた静的構造としての動的音楽の呪縛に囚われており、その後に来たラトルたちの世代が、その呪縛から逃れようとしてまた別の呪縛であるある種のマニエリズムやマニアックな自己言及性、すなわちポストモダンな、ということは要するに、無意味なことに意味がある戯れ的堂々巡りに陥らざるをえなかったとしたら、1996年生まれのマケラにはそのような気負いも捻くれもない。歴史の重荷がない。ただ自然に、ただ素直に、気持ちのいい、感じのいい音楽が、彼の身体から流れ出してくる。

10年後、20年後、50年後に、彼どのような音楽を振っているかは、まったく想像がつかない。クラウス・マケラの現時点の音楽は、まちがいなく、「いまここ」のものである。正しい意味で刹那的な音楽。未来の名声のためでも、過去の遺産のためでもなく、現在の彼が信じる音楽が、正しく、愉しく、彼の身体から精神的に発散され、オーケストラに広がり、コンサートホールを充たしているのではないだろうか。

彼の身体が音楽を歓んでいる。それが波紋のように周囲に広がっていく。感染的な歓喜にわたしたちは抵抗できない。これはきっと、人生に二度とは起こらない、若者だけに許された特権的な音楽。そしてそれを二度目に味わえる聴衆にとっては、またとない僥倖。

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