うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

職人芸の極北:ラインスドルフのすこし滑稽な指揮の内在的な音楽性

エーリッヒ・ラインスドルフの職人芸の巧さはあまりに渋い。受け狙いの派手さがない。外面的効果を意図的に避けているとまではいわないが、聴衆にとっての聞きやすさのために、音楽の内在的な要求を犠牲にするようなことは絶対にない。

だから彼の正規録音(とくにボストン響常任時代のRCAとの録音)には、なにかが絶妙に足りないように感じる。ザルツブルク音楽祭ワルタートスカニーニのアシスタントを務めた後、30歳前後という若さでボダンツキーの後任としてメトロポリタン歌劇場のドイツ語オペラを振っていたとき――ラインスドルフもまた、ナチのユダヤ人虐殺が強いた新大陸への亡命者たちのひとりに数えられるかもしれない――の放送録音は、巧くまとめすぎた結果、スケールが小さくなりすぎたきらいもある。

しかし80年代のフリーランスになったころの録音を聞くと、良くも悪くもこじんまりした折り目正しさが、内側からにじみ出る確かな輝きに変わってくることに、気づかされる。

ラインスドルフの凄さを思い知ったのは、ASVから出ているヨーロッパ室内管との録音――リヒャルト・シュトラウス室内楽的編曲である、町人貴族組曲と、クープラン組曲――だったと思う。しかし、一聴して惹きつけられたわけではない。微妙に硬い響き、少し軋んでいるような音は、若い団体であるヨーロッパ室内管の青臭さや、録音の薄さと相まって、なかなか受け入れがたいものだった。

しかし、Orfeoから出ているバイエルン放送響とのマーラー交響曲6番のライブ録音――こちらはこちらで、Orfeoにありがちなすりガラス越しの妙に遠い音だったが――を聞いたとき、ラインスドルフの目指すところが、急にわかったような気がしたのだ。ラインスドルフは、巨大で特殊な編成――4楽章のハンマー!――を要求するマーラーの肥大したオーケストレーションを、まるでシューベルトの古典的な交響曲のように、小さくさりげなく音楽にしていた。どれほど複雑なスコアであれ、指揮者がそれを完全に掌握していれば、驚くほどシンプルに、しかしそれでいて、内側からじわじわと抑えがたく盛り上がってくるように聴こえるものなのだということをわからせてくれたのは、ラインスドルフだった。

ラインスドルフはオーケストラ・トレーナーとして優秀だったという。しかし、同時に、とんでもなく厳しい指導者だったらしい。南西ドイツ放送響とのシェーンベルクワーグナーのリハーサルが映像として残されているが、それを見ると、ひじょうに細かい。細かすぎるし、とにかく執拗だ。彼の指示はきわめて具体的なのだけれど、具体的すぎるほどに具体的で、有無を言わせぬところがあり、絞られているオケのほうに感情移入してしまう。

彼の指揮ぶりは決して映えるたぐいのものではなかった。オケにとってのわかりやすさを優先しているかのような身振りで、彼の風貌――かなり小柄で、禿げあがった頭に、クリクリと表情豊かに動く目――と相まって、すこし滑稽にすら映る。

しかし、彼は、指揮でオケをコントロールできるタイプの職人的指揮者でもあったのだと思う。見栄えはしないが、彼の指揮は、依然としてきわめて音楽的だ。

ラインスドルフの録音がすべて素晴らしいとは思わない。締めつけが過ぎて息苦しいものもあるし、巧くまとめすぎたものもある。しかし、60年代のウィーンフィルとの録音は、安きに流れがちなオケを厳しく律することで、キリリとした甘さを醸し出す演奏になっているし――とくにリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』は、トスカニーニの『フィデリオ』や『椿姫』で主役級を歌っているジャン・ピアースがバッカスを演じている点でも面白いし、最後の高音をオクターブ下げて歌っている点でも珍品的価値がある――甘くなりがちなプッチーニのシャープさも捨てがたい。マーガレット・プライスとフィル管とのシュトラウスの『4つの最後の歌』、フィル管とのモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』も、佳作的絶品だ。裏青のバイエルン放送響とのモーツァルトの『ポストホルン・セレナーデ』を挙げるのはさすがに反則すぎるけれど、これは本当に素晴らしい。音が充実している。表面的な磨き上げという点からすると微妙なキズはあるけれど、内側からにじみ出る自発的なエネルギーという意味では比類ない。

ラインスドルフの録音からひとつ選ぶとなれば、やはり、ヨーロッパ室内管とのシュトラウスの録音か、そうでなければ、南西ドイツ放送響とのワーグナー(ヘンスラーから出ている指環編曲とパルジファル編曲)だろう。職人芸の極致がそこにある。

 

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