うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

圧縮の解凍による饒舌な翻訳的再創造:岡田利規の『能・狂言』(池澤夏樹=個人編集『日本文学全集』10巻、河出書房新社、2016年)

岡田利規訳の能・狂言はもう猛烈に面白い。言葉の疾走感が違う。

高密度に圧縮されてる能の言葉を現代ヴァージョンで解凍する、勢いとヴァイヴレーションで押し切る狂言の言葉の質を現代のそれに置換する。上演のためのテキストとして」とは岡田の言葉であるが、ここに堅苦しさは微塵もない。お笑いのコントのように聞こえてくる。

はい、こうして登場したのが誰かと言いますと、金津という所に住んでる人です。自分はこう見えてですね、非常に信心深い人間なんですが、それで今回、大きさで言うと一間四方のお堂を建立したわけなんですね。それでですね、まあなんとかしてそこにお地蔵さまでも置けたりしないものかと思ってるわけなんですけれども、いかんせんここ田舎なものですからちゃんとした彫刻のテクニック持ってる仏師なんてのはいないんですね、というわけで今回上京してですね、京都には立派な仏師の方もいるだろうということで、その方に頼んでお地蔵様を造ってもらえたらなと、こういうふうに思っているんですけれども、そういうわけでさっそくですね、急いで出発しようと思います。(舞台をひとまわりしながら) いやはや、自分も京都に行くのは初めてのことなんでね、これはせっかくのいいチャンスだからあれも見ておきたいしこれも見ておきたいし、いろいろゆっくり見てまわりたいなと思ってるんだよね、おっ、京都が近づいてきたのかな、人々の行き交いが賑やかになってきたぞ、という感じでサクッと京都に到着だよ……あっ! 超まずった、何俺バカなことしてるんだか。京都に行けるっていうんで浮かれ過ぎちゃって仏師さんがどこに住んでるとかそういう情報全然把握してない状態のままここ来ちゃったよ。かと言ってはるばるここまで来ちゃったのを調べに戻るわけにもいかないし、参ったぞ、どうしようかな(「金津」61頁)

もちろんこの饒舌っぷりは、原文のものというよりは、岡田のテイストだろう。にもかかわらず、ここで岡田がしているのは、あくまで翻訳であって、翻案ではない。言葉遣いは現代的だが、岡田は能や狂言のテクストにある慣習をきちんと踏襲している。

だから、能の決まり事として、舞台をひとまわりすると、それだけで長い距離を旅したことになるという自然主義的にはありえないことがここでは起こるわけだけれども、この言葉の洪水のなかでこのお約束を持ち出されると、リアリズム的には荒唐無稽でしかなかったはずのものが、なぜか不思議な説得力を持ってせりだしてくる。まるで心の声が漏れ聞こえているかのように響くのだ。言葉が過剰にあふれだし、まるで告白すべきでもないことを告白しないではいられないかのように。

そういうわけでさっそくですね、急いで出発しようと思います。(舞台をひとまわりしながら) いやはや、自分も京都に行くのは初めてのことなんでね、これはせっかくのいいチャンスだからあれも見ておきたいしこれも見ておきたいし、いろいろゆっくり見てまわりたいなと思ってるんだよね、おっ、京都が近づいてきたのかな、人々の行き交いが賑やかになってきたぞ、という感じでサクッと京都に到着だよ 

このように訳されると、セリフの反復がそれ自体としてのリズムを作り出していく。そしてその言葉のリズムが、内容とはまったく関係なしに、読み手を先へ先へと引っ張っていく。岡田の訳で読むと、能の冗長さとか迂遠さが、恐ろしく卑近なものに思われてくる。

それはたしかに、深遠で幽玄に思われる能のテクストを、なんともいえないチャラさに還元することではあるのかもしれないのだけれど、そのチャラさが、逆説的にも、謡曲の根底にある主題をあぶりだす。三島由紀夫による『近代能楽集』という翻案は、世俗化された近代においては不可能になってしまった「絶対」への憧れを、前近代的なものに投影することでもういちど現代によみがえらせようとする倒錯的な試みであったと思うのだけれど、岡田はそれとはまったくべつのアプローチで、能のなかにある普遍的なものを現代のほうにストレートに引き寄せる。

愛であるとか、愛した相手のつれなさとか、愛に裏切られての死であるとか、能に頻出する主題は確かにある意味ではとても普遍的で超時代的ではあるけれども、卑俗な見方をすれば、なんともくだらないものだ。J-POP的ですらある。岡田の訳はいわばそうした歌謡曲性を戦略的に前景化する。実際岡田は「訳者あとがき」で「現代の日本のポップ・ミュージック」にインスパイアされたことを率直に認めている(779頁)。

そうすることで、能や狂が「音楽劇」であることがはっきりしてくるし、岡田の翻訳は、原文が和歌や漢詩といった「古典テキストたちとの織り交ざり」のなかにあるのと同じように、「オリジナルのテキストたちが持っているコンテキストとは異なる新しい現代のコンテキストの中に織り交ざっているようなもの」になっていく(779頁)。それが岡田の「夢見」たものであるという。

 

隠遁生活してるといっても 住まいは山に入ったすぐのとこなんです 

隠遁生活してるといっても 住まいは山に入ったすぐのとこなんです

でも精神だけは 深遠なゾーンにいるんです(「卒塔婆小町」28頁) 

だからこれは、翻訳でありながら、再創造と呼んでいい代物なのではないかと思う。圧縮されているオリジナルを解凍してひらいていくという作業によって、そこに現代が織り込まれたのだから。

もちろん、この言葉の疾走感は、岡田利規の演劇の動きを知ってる前提で読まないと、いまいちピンとこないスピードではあるのだけれど、にもかかわらずこの「上演のためのテキスト」は、それだけで自律する強度と速度を備えているように思う。