うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、『Scala‐夢幻階段』

20190429@静岡芸術劇場
サーカス in C
ミニマル・ミュージックにたいするサーカス・パフォーマンスの返答。とりあえずそう言い切ってしまっていいのではないか。比較的単純なテーマ群がある。左手のドアを開けて入ってくる。右手のドアを開けて出ていく。額を壁に掛ける。床を掃く。椅子に座る。椅子が崩れる。トランポリンに倒れ込んで跳ね戻る。穴に落ちる。ベッドに寝転ぶ。階段を降りる。しかし、ひとつひとつ分けて見ればとりたてて面白いわけではない所作が執拗に繰り返されると、そしてその執拗な繰り返しが微妙なズレを伴いながら集団的に繰り返されると、寄せては返す小さなさざ波が次第に大きなウェーブになるように、大きなクライマックスにたどりつく。機械的な反復に思われるものから、有機的な鼓動のよのようなものが生まれてくる。『Scala』に物語を見つけようとするのは、あまり意味がないだろう。ここにあるのはパルスの増幅だ。メッセージ内容のないメッセージであり、純粋な表現行為によるコミュニケーションだからだ。
 
とはいえ、多少の物語内容はある。チェックのシャツを着た男が左手のドアから舞台に入ってくる。上着を脱ぎ、壁にかけ、ベッドに入る。するとまた別の男がドアから入ってくる。ベッドを通してわたしたちは男の夢の世界に招き入れられるかのようだ。だからこそ、同じ服をした男たちが何人も舞台をめぐり、同じ服の女がふたり舞台に登場する。男はどうやら何か問題を抱えているらしい。女はその解決を促そうとするらしい。しかしほんのわずかな対話から、それ以上のものを読み取ることは難しいし、そもそもそれ以上を読み取ることは期待されていないだろう。夢の世界は、分身的存在の登場を正当化するための装置であり、ほとんど言い訳にすぎないだろう。重要なのは、物語内容ではなく、分身的存在のほうだ。彼女ら彼らは差異を内包する反復であり、単体としてではなく――単体としてみれば、彼ら彼女らはアノニマスな存在にすぎない――、類似個体との対称関係においてのみ存在意義を持つかのようだ。マスとしての集団でも、孤立した個でもなく、他な多の関係性による群生的パフォーマンスである。
 
スペクタクルとしての反復
反復は、やる方にしてみれば、面白いものではないのかもしれない。シジフォスの神話や賽の河原など、徒労的反復を罰と結びつける考え方は、文化的に広く見られるものかもしれない。もちろん、フロイトが観察したように、赤ん坊や幼児は同じことを何度も繰り返して欲しがるものかもしれないが、そこではすでに、反復はスペクタクルの領域に入り込んでいる。つまり、そこでは、反復を実行する者だけではなく、反復を見る者が、反復を見て面白がる者がいる。
 
そして反復が複数人で実行されると、そこには、模倣やシンクロといったレパートリーが自然と入りこむ。ふたりが同時に同じ行為をする、カノン形式のようにひとりがもうひとりの行為を後追いする。初めはランダムとしか見えなかった反復も、繰り返されるうちに、パターンとして認識できるようになる。小さなパターン群が大きなパターンへと発展していく。パターン群は流れとなり、内在的なテンポやペースを伴いながら、時とともに大きな流れとなる。それは大人数による量的な押し付けがましさでもないし、一個人の質的な見せつけでもない。複数人のフローが作り出す関係性の説得力である。そしてわたしたちもまた、その渦潮のような関係性のネットワークのなかに引きずりこまれていく。
 
 脱臼的身体、棒状身体
Scala』のなかにはおおざっぱに言って2種類の身体があった。ひとつは脱臼的な身体、タコのように優雅な身体だ。パフォーマーのまわりの空気が粘液に変わったかのように、彼ら彼女らの体はゆっくりとなだらかに曲がり、旋回する。たとえば、穴に落ちるとき――頭から穴に入り、倒立したまま、回転し、再び穴から出てくるという女性パフォーマーによる一連の所作は、身体技法と美的表象が高いレベルで結びついており、本公演の傑出した瞬間ののひとつだった――、ブリッジのまま節足動物のように動くところだ。
 
しかしこの軟体はグロテスクな身体でもある。関節が外れたような動きと言うのでは不十分だろう。骨がなくなったかのような動きなのだから。寝そべったまま背中で階段を降りてくる。崩れ落ちる椅子とともに体が崩れ落ちる。崩れ落ちる椅子から地面に倒れ込み、そこから逆再生するかのようにぐにゃりと元の姿勢に戻る。ドゥルーズガタリが使って有名になったアルトーの「器官なき身体」というフレーズがふと頭に浮かんだ。パフォーマーの体は依然としてわたしたちと変わらない人間の身体ではある、しかしそこからくりだされる運動は、解剖学的にまったくべつの身体機構によるものであるかのように見えた。
 
もうひとつは棒状の直線的な身体だ。それは一方において軟体的身体に芯を通すために使われていたが、他方においてはトランポリンと組み合わされていた。男のパフォーマーたちは――そういえばトランポリンを使っていたのはほぼ男側だけだったような気がする――上半身を固定したまま、ときには下半身まで一本の線のように固定したまま、トランポリンに身を投げ出し、そこから跳ね返ってくる。それはまたべつのかたちでの逆再生だ。ここでも、パフォーマーたちはべつの時間を身にまとう。巻き戻る時間、または振り子のように行きつ戻りつする時間である。
 
ある意味では、こちらの身体も、器官なき身体のバリエーションだったのかもしれないし、こちらの身体をこそ、関節なき身体と呼ぶべきだったかもしれない。
 
 べつの物理法則、べつの身体原理、または反復が正統化するもの
Scala』の身体はべつの解剖学的構造を演じているかのようであったけれど、それが奇妙さにとどまらない説得力を持ちえたのは、反復のおかげだろう。部隊のパフォーマーがみな、まるで歩くときは片足に両手を添えて動かしてやらなければならないとでもいうかのような動きをするとき、まるで階段を降りるときは膝をそろえて右手をついて尻を滑らせてから手を膝のうえで組んで首を垂れなければいけないとでもいうかのような動きをするとき、そこでは、それ以外の動きがありえないような、それ以外の動きのほうが異常であるかのような、異常な雰囲気を作り出す。反復されるものは、反復されることによって、それしかありえないという幻想を作り出すことができる。
 
しかしこの奇妙に説得的な、それ自体としてはまるで説得的でないにもかかわらずプレゼンテーションの仕方によって説得的であるとしか思えないものになるこの身体は、きわめて受動的で反作用的であったようにも思う。パフォーマーの体が、まるで骨が抜け落ちたように、ぐにゃりと崩れ落ちるとき、その引き金を引くのはパフォーマーの意志ではなく、パフォーマーが腰かけている椅子である。パフォーマーの体が、まるでタコのように薄く柔らかくなってずり落ちていくのは、そこに穴があるからである。パフォーマーの体が、逆再生のように元に戻るのは、椅子が元に戻るからであり、トランポリンが跳ね返すからだ。パフォーマーはトランポリンを使って跳ね上がるのではない。トランポリンがパフォーマーの体を飛び上がらせる。
(書きかけ)