うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。無意識のうちにやっていることを意識化するための手がかりを。

特任講師観察記断章。なぜ情報処理の効率が悪いのだろうか、と考えてしまうことがある。そしてそれに続いてこうも考える。いや、なぜわたしはこの手の情報処理がそれなりに効率よくできるのだろうか、と。ここにはいくつかのステップがある。情報の配置=レイアウトという全体像の把握、情報の配置のされ方の原理(情報の関係づけられ方)の把握、そして、これらを踏まえ、どのような検索の仕方が自分の求める情報に最短でたどりつけるのか推測する力。

これは果たして「科目」として教えるものだろうか。プログラミングでもやっていれば、または、中学受験のようなものをくぐりぬけていれば、ある程度はシステマティックに身につけているものなのかもしれない。しかし、地方公立でずっと学んだ身からすると、この手の思考法は、学校の「なか」で学んだかもしれないし、学校の宿題を「とおして」身につけたかもしれないけれども、授業がそれを直接的に教えてくれたかというと、かなり考えてしまう。

公立教育非難はとりあえず脇に置こう。探している情報を素早く見つけだすために、問題解決型の思考法が必要なのはいうまでもない。そしてその手の方法論は教育可能だろうし、その教育はそこまで困難ではない。しかしそれにもまして重要なのは、「クセ」とか「カン」に近いような身体の使い方だと思う。目の動かし方、手の使い方。視界の広さ狭さの調整、フォーカスの合わせ方ボヤかし方。認知のリズムやスピードと、身体の動きの呼応。五感情報と身体連動をシンクロさせること、一方によって他方を加速させたり拡大したりすること。

このほとんど生理的なレベルで大学生を教える/教え直すことは可能なのだろうか。自然化してきたものをときほぐし/unlearnし、もういちど編み直す/変えることは可能なのだろうか。学生たちをよく見れば見るほど、本当に小さな小さなミクロなところを少しずつ手入れしていく手仕事をするしかないのだろうか、という気がしてきた。学生たちを効率的なマシーンにしたいわけではない。無意識のうちにやっていることを意識化するための手がかりや取っかかりを与えたいと思う。