うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

猫の集会、三島由紀夫「班女」

20190224@やどりぎ座 

元ネタ(能)、二次創作(三島)、二次²創作

三島の近代能楽集は、古典能のアップデートというよりは本歌取りというべきものだろう。人物や舞台設定、物語の筋書きを踏襲して、それを昭和的世界のなかにリライトする。しかしこのリライトの過程において、三島特有にひねりが加わる。新たなキャラクターが加わるばかりか、物語の結末すら書き換えられる。オリジナルの「班女」の場合、契りを交わしたのに戻ってこない男を待つあまり狂ってしまった女は、待つことの狂気をくぐり抜けて、最後には男と再会する。 

しかし三島の「班女」の場合、男は戻ってくるという叶えられない希望のうちに狂ってしまった女は、最終的に迎えに来た男がかつて自分に約束した男だと認識することができない。人物間の緊張関係はさらに複雑になっている。オリジナルでは男と女の二項対立であったものが、三島においては男(吉雄)と女(戻ってこない男を待つ女である花子)ともうひとりの女(戻ってこない男を待つ女を庇護する女である実子)の三角関係となる。

三島においては、待つ女の情念がふたつの回路を通じて描かれることになる。花子は希望を永久にあきらめることがないだろう。というのも、彼女は希望を保ち続けることができるからだ。彼女が待っていた人物であったはずの吉雄ですら、彼女の待っているものではないことが判明したいま、彼女の希望を叶えられるモノはこの世に存在しないだろう。愛しい人は帰ってくるという希望を、ほんのわずかな物質的根拠(互いに交換した扇)にして保ち続けてきた結果なのか、花子は現世を生きながら、その魂はすでに彼岸的世界にあくがれ出てしまっているかのようだ。

狂気と聖性は紙一重である。

そのように夢を夢見る花子は、現実そのもの(吉雄その人の帰還)ではなく、現実以上の何か(吉雄という名の希望の帰還)を希求していると言っていいのかもしれない。彼女にとって、現実に存在する生身の吉雄はあまりに現世すぎるかのようである。花子は無垢な愚者であり、愚かな聖者なのかもしれない。絶対に叶えられない希望だからこそ、それが成就される瞬間は決して到来することがなく、だからこそ、彼女はいつまでも待ち続けることができる。希望を希望し続けることができるのだ。

この希望を希望するというメタ的な倒錯を生きる花子に、近代における天皇制(現人神であるはずの天皇は人間である)の矛盾を象徴的かつ具体的に超克しようとした三島の苦悩を投影することはあまりに穿った見方であろうが、希望を希望する花子がイノセントな狂人であるとしたら――花子は自らが希望する不可能の構造を認識できていない――希望することを断念することを希望し、そしてそれを実際に成し遂げた実子は、自意識的な狂人であると言っていいのかもしれない。誰かが自分を愛してくれるとは信じられない女は、自分を愛してくれる男を探し求めようとはいない。その代わりに、この不可能性の構造(愛してくれる男を持ちえない自分はこれまでも/これからも愛されえないし、絶対に愛されてはならない)と類似の、しかしその不可能はまだ未決であるような構造(不実な男はいまだ帰ってこないが、いつか帰ってくるかもしれない)を生きる女を庇護し、その女を不可能性のなかに閉じこめておこう(花子が吉雄と再会してしまう可能性をことごと潰そう)とする。そうすることで、実子は、自分自身は愛されないままである――愛を受け取る存在にはなれない――としても、誰かを愛することはできる――愛を贈与する存在にはなれる――し、花子の希望の到来を遅延させるために策略を張り巡らせる(「逃げる」)ことによって、この不毛ではあるとしても依然として愛についてのものではあるこの情念の回路を保持し続ける(「待たない」)ことができる。 

ですから私は、夢みていた生活をはじめたんです。私以外の何かを心から愛している人を私の擒(とりこ)にすること。どう? 私の望みのない愛を、私に代わって、世にも美しい姿で生きてくれる人。その人の愛が報いられないあいだは、その人の心は私の心なの。

三島のテクストは、実子の狂おしいほどの策略が失敗してしまったところから始まる。男を探して毎日井の頭線某駅の改札に立ち続ける花子についての新聞記事を実子が引き裂くところから始まる。実子はその記事を読んだかもしれない吉雄が訪ねてくることを恐れ、旅に出ようとするが、花子は拒否する。そして恐れていたとおりに吉雄が訪れる。しかし、吉雄は花子に拒否される。

こうして実子の狂気の回路は完全に閉じられ、完成を迎える。実子は花子を崇めるが、それは花子が実子より上位の存在だからではなく、花子の生が実子に完全に依存しているからだ。ここにあるのは、固定的な上下関係を前提とした崇拝というよりは、流動的な上下関係(美しいのは花子だが、美しい花子を生かしているのは実子である)を前提とした共依存というべきかもしれない。実子が花子を愛することができるのは、花子が実子の望むもの(「擒」、または虜囚)だからである。テクストの終結部において、花子は実子の手をすり抜けていく――実子の策略も甲斐なく、花子は吉雄と対面してしまう――のだが、にもかかわらず、花子は実子の思惑を超えて、実子が思いもしなかった理想へと到達するのである。花子は永遠に待つ女へ(「私は諦めないわ。もっと待つわ。もっともっと待つ力が私に残っているわ。」)、そして実子はその永遠に待つ女を待つことなく持ち続けられる女へと。

フィクションにすぎないもの、一時的なものでしかなかっはずのものが、奇跡的に、現実のものになってしまうこと。それは不安の入り混じった不安定な願望から、不安が取り除かれることを意味する。純粋な希望、しかし純粋であるがゆえに恐ろしい希望。悪夢のような希望のなかで至福に至ること。これはもしかすると、パルジファルが愚者のまま世界を救済するようなものかもしれない。ワーグナーパルジファルは、何も知らない者からすべてを悟る者へと変容をとげることによって、世界を救う。しかし班女においては、パルジファル=花子は決して賢くはならず、苦悩し続けるグルネマンツ=アンフォルタス=実子が愚かなパルジファルを誘導し続ける。そして花子はその愚かさゆえに、実子の思惑を超えてしまうが、それは実子を裏切る結果にはならず、実子が予想していた以上の幸福を両者にもたらすことになる、というわけだ。

三島の「班女」もまた、かなり特殊な意味ではあるが、win‐winに終わるハッピーエンドである。花子も実子も、花子が救われないことに、希望と幸福を見出す。無垢に希望し続ける花子と、花子との希望がもはや永久に叶わないからこそ希望し続けられることを自意識的に悟っている実子。

もはや実子は花子のために策略をめぐらす必要はないだろう、もはや花子は実子によってマインド・コントロールされる必要はないだろう。花子はすでに実子の真の擒になったのだ。この精神的支配関係は、近代的個人の自由や自律を理想と見なす立場からすればディストピアというほかないが、実子と花子にしてみればユートピアかもしれない。

ここまで長々とわたしの解釈を述べてきたのは、わたしが書こうとしている批評がすべて、以上のテクスト読解から引き出されたものだからである。

 

複数的に相対化して現代化する

繰り返しになるが、三島の近代能楽集は、単なるアップデートではなく、三島本人の美意識や政治意識によって意図的に書き替えられたものであると考えるべきだろう。だから、三島の作品がオリジナルの能とどれだけ違っているかを批判することには意味がないと思う。というよりも、両者が違っていることを指摘し、それを批判するという態度は、古典に「忠実」ではない三島を咎めることと同義であると思うのだが、ここで問うべきは、なぜ古典に忠実で「なければならない」のか、という点だ。この忠誠心の要求はどこから来るのか。三島を能的に演出しすぎると、三島の独自性(オリジナリティ)よりも古典の正統性(オーセンティシティ)が表に出てしまいすぎるかもしれない。

吉見亮による演出はそのような愚は犯していなかった。吉見の戦略は、「班女」を、古典/三島という2つのレベルで比較するのではなく、2つ以上の複数のレベルから相対化することにあったように思う。こうして、幕が開く前の前口上では古典がパロディー化され、薩摩琵琶による語りが続き、その背後で影絵で能の「班女」が演じられ、その後に三島の「班女」が続くという4重構造があった。言語=発話のレベルにおいても、古典・古語的な語り/自然主義的な語り/コメディー的・現代的な語りという3つのレベルが導入されていた。

それはおそらく、古典のテクストをもとに二次創作した三島のテクストを、現代においてさらに二次創作しようというような試みであったと理解していいはずだが、それは、昭和という時代をそのうちに刻んでいる三島のテクストを平成という時代にアップデートするという単線的に直線的なやり方ではなく、古典的なもの(琵琶)や偽古典的なもの(影絵で無言で演じられる能)を経由した迂回的で曲線的なやり方だった。

 

構成の問題、観客の問題

ただし、これら多数の手段による三島の相対化=現代化という試みが演出として常にうまく機能していたかと言うと、どうだろうか。問題は、この戦略がそもそも悪手だったというのではなく、この戦略の実際の運用法がところどころであまり上手くなかった、というところにある。

三島の「班女」を単体で上演すれば、舞台は1時間も持たないだろう。オリジナルが能であること、能はテクストの音声化以外のものであること(舞や謡い、狂言という中休み)が原因なのかはわからないし、三島の近代能楽集が普通はどのように上演されるのか、わたしはまったく知らないけれど、三島の近代能楽をただひとつだけ上演するというのは、興行的に苦しい部分があるはずだ。それは一幕物のオペラが上演されにくいこととパラレルだろう。たとえばシェーンベルクの『期待』であり、上演回数が少ないわけではないが、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』も似たようなケースに相当するかもしれない。オスカー・ワイルドの同名の戯曲のオペラ化であるこの作品は100分ほどの上演時間だが、彼の他のオペラ、たとえば3時間以上はかかる『薔薇の騎士』などと比べれば、明らかに短い。しかしだからといって、『サロメ』のチケットを『薔薇の騎士』の半分にするわけにはいかない。舞台芸術のチケット価格は、上演時間で決まるわけではない。だが、購入者の心理から言えば――そしてとくに、コスパを意識しないことがほとんど不可能な現代人にとっては――比較的短いものにフルプライスを払うのを躊躇してしまう、「損をした」という感じを味わいたくないのである。

そういったそろばん勘定が劇団員らの思惑にあったのかどうかはわからないし、それは些末な問題だ。重要なのは、狂言的な前口上を入れたり、琵琶の演奏を聞かせたりという観客へのサービス精神が、パフォーマンス全体の凝集力を弱めてしまっていた点だろう。琵琶の演奏はきわめて巧みなものであった。それは間違いない。しかし、それでもやはり少々長すぎた。幕が上がってすぐ、薄暗がりのなか、耳慣れない楽器によるどれくらい続くのかもわからない演奏を、古語で書かれた謡いと組み合わせるというのは、あまりにリスキーだったと思う。もちろん、ここで観客の怠惰さを叱責することはあながち間違っていないけれど、前口上のドタバタ・コメディー調(布頭巾をかぶった男が古語で謡、女が現代語訳を朗読する)がスローで漸近的な導入であった(劇場でのマナーから始めて、つぎめなく、劇の内容に移っていくという流れ)のに、純粋な琵琶演奏への変転が急激であったことは、琵琶の唐突感を強めてしまっていたと思う。

白い不織布の裏で演じられるがゆえに観客には演者の影しか見えない情景自体は非常に美しかったし、それが醸し出す非現実感は、これから続くものがどこか非世俗的なものであることを上手く予兆していた。だが、ここでオリジナルの「班女」を演じることは、三島の「班女」が同名の能に基づいていることを観客がすでに知っているという前提に立つことである。繰り返すが、もしそれを知らない観客がいたとしたら、それは観客が責められてもしかたないところだ。しかしながら、この観客の前提知識を前提とする態度は、エンターテイナー的な立場と微妙に矛盾してはいないだろうか。なるほど、前口上が影絵芝居の先取りであったのだ、というのは確かである。だが、それは観客からすれば後知恵的なものになるだろう。観客に寄り添うのか、観客を突き放すのか、その2つの軸のあいだで吉見の演出は曖昧に揺れ動いていたように思う。

 

所作の問題、音声の問題

ここでは少なくとも3つのスタイルが混淆していた。1)能に由来するような強度の高いスローな演技(影絵、花子)、2)自然主義的だが作為的でもある――いかにも「芝居的な」――シリアスな演技(第4の壁を受け入れる実子にとって、観客は見えないばかりか、存在していないものとして扱われる)、3)非自然主義的で現代的でコメディー的な演技(小道具や上着を観客に一時的に預ける吉雄には、観客という存在が見えているし、自分と同じレベルでこの劇場空間にいる――モノに触れるし、声も出せて吉雄の呼びかけに返事できる)。

おそらく俳優たちにとってもっとも自然な身体は2)だろう。そのせいか、1)の身体はやや強度が足りないように思われた。スローであることに密度(凝縮)が伴わなければ、それはただ遅い演技になってしまう。

もちろん成功している部分もあった。影絵のふたりが扇を重ね合わせるところ――それはオリジナルの能におけるハッピーエンドの瞬間だろう――はきわめて美しかったし、そこに至るクレッシェンドも素晴らしいものだった。しかし、裏返せば、動きが少ないところほど身体がその緩やかさや静けさに耐えきれていなかったことの証左でもあると思う。もちろん近現代演劇を腫瘍フィールドとする人間が能的身体を上手く使えないのは当然のことであるし――19世紀文学を専門とする英文学者のシェイクスピア読解はシェイクスピア専門家ほど深くも正しくもないしだろうし、和食の料理人が握る寿司は寿司職人のものほど上手くないだろう、もちろん、素人がやるよりははるかに巧みではあるものの――そこを責めるのは的外れであると思うが、能的な身体の使用が演出によって要請されたことを考えると、これは俳優だけの問題ではないだろう。それから、上でも書いたが、三島の「班女」が必ずしもオリジナルの能に全面的に依拠していない以上(または、シェイクスピアがそうであるように、オリジナルが出典以上でも以下でもなく、そこから何が引かれ、何が足され、何が変えられたのかが重要である場合)、能的なものを経由させる必然性がはたして本当にあったのだろうかと思うが、この点については後述する。

個人的な好みが大いに関わってくることではあるが、2)の演技が、ときおり1)や3)への揺れ幅を持っていたことは、はたして効果的だったのだろうかと思うところがないわけではない。情念の渦巻く独白のクライマックスるにおける朗誦の濃さは見事なものだったし、そこには何のブレも見られなかった。しかし、そこへ至る助走部分の独白や掛け合いにおいて、微妙なノイズが入っていたように感じた。言葉が軽くなる瞬間、言葉の重さに所作がついてきていない瞬間があったように思う。それが細部の問題であったこと事実である。しかしまさに、こうした細部における微妙な肌理の粗さが、全体の総合的な完成度を非常に惜しいかたちで傷つけていた。

 

解釈の問題、または女たちの共同体と救済の結末

吉雄を現代的にチャラい感じにしたのは、なるほどと思わせる選択ではあったが、それをメタ的な振る舞い(観客とのやりとり)と結びつけることはまた別問題である。吉雄は明らかに共感できないキャラとして造形されていたが――これは吉見がアフタートークで強調していた点である――同時に、狂言的な息抜きとしても意図されていたと思う。それは吉雄が三島のテクストにはない言葉をしゃべるところ――バーの店主と絡むところ――において明白であった。

だが、これは当然ながら、吉雄と実子、それから、吉雄と花子という、男対女の2連続の対話を必要以上に不真面目にしてしまっていたと思う。それは結局のところ、真面目な女たちと、不真面目な男(たち、ここにバーのマスターや前口上の男を含めるなら)という対比を強化する結果になっていた。

それが必ずしも悪いわけではない。確かにこの対比は、別のレベルでも素晴らしく活かされていた。花子と実子のすれ違う会話は、物理的にもすれ違っていた。というのも、御簾のような不織布の裏にいる花子にたいして、最初のシーンのうちは、実子は決して正面から語り掛けることがなかったからである。彼女たちはいわば相手を見ることなく、言葉を相手に投げかけるのだが、このズレは、彼女たちがどちらも結局のところ自分の世界に生きており、相手をいわば手段として利用している(故意であれ、故意でないのであれ)ことの巧みな視覚化だった。

これに比べると、吉雄はつねに話し相手と真正面から向かい合う。実子であれ花子である。しかし、にもかかわらず、吉雄の言葉のほうが明らかに独りよがりだ。ついに花子と対面した吉雄は、真っ向から言葉を投げかけ、真正面から扇を拡げるのだが、それは誠実さというよりは、詐欺師的な誠実さである。演技でしかない誠実さなのだ。花子に拒絶された吉雄が、アパートを出るなりすぐにスマホを取り出し、「クーポンゲット!」と小さくつぶやくのは、彼の表面的な熱心さと内面の空虚さの秀逸な具現化である。吉雄はいわば、狂気と隣り合わせの待つことがどうしても理解できない現代人であり、わたしたちの同時代人であり、わたしたちの隣人なのだ。

女たちはすれ違うがそれでもどこか通じている。男は向き合うけれども一方通行である。

では、女たちはどこまで触れ合っているのか。吉見の演出で印象的なのは、すれ違ってきたはずの実子と花子が――ここで付け加えておきたいのが、彼女たちの距離は、御簾のような白い不織布によって物理的に区切られるばかりか、空間的な高さによっても強調されていた点だ、やや高いところに立つ花子は、まるで祭壇に置かれて見上げられる聖母マリア像のようでもあった――最後のシーンにおいてついにひとつになるところだった。それは象徴的な融和でもあれば、具体的な和合でもあった。決して侵犯されることのなかった花子とそれ以外の区別である不織布をやすやすとめくり、実子は花子の空間に入り、そして上着を脱いで手を合わせる。

救済の瞬間だった。それはもしかすると花子の聖性や神性へと実子が引き上げられる昇天の瞬間だったのかもしれない。喪服のように黒い服を着ていた実子ですら、不織布の後ろに入ると、あたかも純白の衣装をまとっているように見えてくる。黒さから白さへ。このカラー・スキームは問答無用の説得力を持っているし、それに俳優の力や照明の力が加わり、非常にパワフルな幕切れになっていたし、その意味では、崇高なまでに美しいシーンで舞台を終わらせることに成功していた。

だが、上で述べた通り、わたしは幕切れをこうは読まない。吉見の演出では、実子が救われている、花子が実子を救ってしまっている。しかしわたしの読みはちがう。花子が実子を救う、というところまでは同意するが、それは花子が実子の完全な虜囚になったからである。しかし、虜囚であるはずの花子に実子は従属するだろう。ここにはサド‐マゾ的な二重性がある。実子は花子にたいしてはサディスティックであるが、自らにたいしてはマゾヒスティックである。

端的に言えば、最後の幕切れで、どちらに焦点を当てるかという問題なのだろう。花子か実子か。わたしは実子に軍配を上げるが、吉見の演出は花子(または、花子が象徴するらしいヴェール後ろの空間、白く高い空間)に終わりを託している。これはどちらが正解という問題ではなく、まさにどちらもありうる解釈と考えるべきだと思う。しかし、だとすれば、ここで最後に問うべきは、吉見の幕切れがどこまで説得的であったか、という点になるだろう。

「班女」のラストには、女たちの共同体――シスターフッド?――の可能性がわずかながら開けているのだろう。三島は男たちの共同体の可能性(とその失敗)を『豊饒の海』4部作で探っていたように思うが(何年も前に読んだのでかなり記憶はあいまいだ)、それはとりあえず脇に置こう。ここにあるのは、恋でも愛でもない(実子は「愛」という言葉を使うけれど)、セクシュアルでも肉体的でもないエロス的なものが交換されているのではないか。

ここで実子の肉体嫌悪を思い出しておこう(「ああ、肉! 私にいやなことを思い出させないで頂戴。」)。実子にとって花子はまさにモノなのだ。「あの人は完全無欠な、誰も動かしようのない宝石なんです。狂気の宝石」(「宝石」という同じ場のなかでもう一度繰り返される)。

なるほど、吉雄を拒絶した花子を、実子はとうとう「宝石」としてだけではなく、「肉」としても受け入れるようになったという解釈は成立するだろうし、魅力的な読みだと思う。しかしこの読みを舞台で成立させるのは、三島における他者とのフィジカルな接触にたいする微妙な距離感(があるように個人的に思う、彼の切腹自殺は、究極的な意味での、自己の肉体とのフィジカルな接触である)を突き詰めて考えてみる必要があるのではないか。非接触から接触へという流れはわかりやすいし、わかりやすいからこそ説得的なのだが、それは誰のためのわかりやすさ=説得力なのだろうか。テクストにたいして? 俳優にとって? 観客にとって? それらの任意の組み合わせ?

つまるところ、そのあたりの微妙な緩さによって、さまざまな細部が全体のプランと無関係に自律してしまい、それがノイズとなってしまったのではないかと思う。完全な統合を求めるのはあまりにハイモダニズム的な見方であり、この偏執狂的な完璧主義それ自体が近代のひとつの病理であることは認めるし、わたしがそうした病理の患者であることも歓んで認めたいと思う。しかし、それでも、ランダムなカオスと、構築されたカオスは似て非なるものであるとは主張したい。わたしが問いたいのは、あれがランダムなカオスだったのか、構築されたカオスだったのか、という点である。