うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

宮城聡演出、レオノーラ・ミラノ『顕れ』

20190127 @静岡芸術劇場

神話的構造

アフリカにおける奴隷貿易という負の歴史をめぐる物語ではあるが、劇自体は神話的構造を持っている。すべての生命の母であるイニイエのもとに、輪廻のサイクルを繰り返す魂であるマイブイエと、輪廻のサイクルから切り離れされてさまよえう魂であるウブントゥ(奴隷貿易の犠牲者たち)が集い、そこで、1000年の幽閉に処せられている灰色の谷の罪人(奴隷貿易と共犯関係にあった者たち)が召喚され、自分たちの犯した罪を語る。それは裁判のようでもあれば、告白の場のようでもある。断罪のためのようでもあれば、真実究明のためのようでもある。

これは「世の理」に反する集いだ。この神話的世界において、それぞれの存在は互いを知ることを許されていない。マイブイエという無垢な存在はウブントゥと切り離されているし、灰色の谷はその臭気(?)ゆえに神々すら足を踏み入れない。にもかかわらず、ウブントゥの訴えはマイブイエに届く。マイブイエとウブントゥは同胞なのだ。ウブントゥのようにさまよえる存在(輪廻から零れ落ちてしまう存在)となりうる運命に気がついたマイブイエは、生まれることを拒否するというストライキ行為によって、イニイエに世の理を曲げることを要求する。

それゆえ、劇において描き出されるのは、例外状態にほかならないと言っていいだろう。本来なら繋がらないはずのものが繋げられた状態である。だがこの「タガが外れた」(ハムレットならTime is out of joinというところだろう)状態は、和解に落ち着かない。普通なら回復される秩序が、最後に至っても微妙に解決されていないのだ。出会えないはずの者たちが出会い、歴史の真実が開示される。奴隷貿易に加担した権力者たちは、真実を語るだろう(女神のまえで嘘をつくことはできない)。ウブントゥもマイブイエもそれを聞くだろう。

しかしそれで、誰が救われるのか。ある意味では誰も救われはしない。

イニイエの裁きは慈悲的ではない。というより、神話的に考えて、生命の母神が同時に裁きの神であるというのは、かなり特殊なケースのような気がするのだが、どうだろう。さらにいえば、イニイエが人格神なのか抽象的存在なのか、いまひとつよくわからない。ここでの神話構造によれば、イニイエは絶対神ではなく、生命そのものであるような至高の存在のひとつの具現化でしかないので、彼女もまた、何かに従属する存在と言っていいのかもしれないが、イニイエ自身が何らかの感情や情動を備えているのかは、最後までよくわからなかった。

ともあれ、イニイエの最後の判決は、復讐的ではないものの、きわめて冷酷でもあるだろう。正直に言えば、ここで前提とされている神話的秩序がよくわからない。キリスト教的な世界観に従えば、地獄落ちは未来永劫のものであり、そこから解放されることはないだろう。だからこそ、ダンテの『神曲』にあるように、キリスト教における地獄から天国への道程は引き返しなしの一本道でしかない。ここには円環的構造はありえないし、頂点にいる存在こそが神である。仏教的な世界観によれば、地獄から極楽に至る可能性は否定されていないはずだ。つまりここでは、地獄を耐え抜けばまた輪廻の輪に戻り、次の生では極楽に行けるかもしれないわけで、解脱はいつでも万人に開かれているだろう。善と悪の二分法は絶対ではない。

こう考えていくと、ここでミラノが前提としている世界観は仏教的なそれに近い。生命は輪廻するからだ。しかし、それでいて、絶対に輪廻には戻れない魂もいる。この断罪の厳しさにはどこかキリスト教的な(一神教的な?)ものを感じる。

もちろん最後を大団円に持っていけば、それは歴史的にも政治的にも不誠実なものになるほかない。だから、最後に厳しいトーンが残るのは、当然といえば当然なのだが、どうもここがうまく昇華されていないような気がした。別の言い方をすれば、イニイエのキャラクター造形が希薄であるがゆえに、彼女がそのような裁きを下すにいたったプロセスがよくわからないのだ。この劇には「女神イニイエの涙」という副題がついているが、彼女は泣いているのか、泣いているとしたら誰/何のための涙なのか。 

 

カノンとフーガとユニゾン

宮城の声の扱いは独特だ。セリフの意味は大胆なまでに軽視される。セリフが適当に扱われているというのではない。セリフの意味と音が故意に分断されており、あえてシンクロしないように注意が払われているのだ。

宮城演出においては、セリフがつねに異化されていると言ってもいい。イントネーションは「不自然」(普通なら下降調(だ↓から)になるのが「だ↑か↓ら」と「か」に頂点がくるような感じ)になり、擬古典調の言い回し(「ござる」、男側の狂言回しであるカルンガ)が入る。女側の狂言回し的役割であるオフィリスは関西弁を使っていた。単語は文字に分解され(「人間」が「ニ・ン・ゲ・ン」になり)、1文字ずつリレーされる。意味が聞き取れないということはない。しかし、「自然な」聴取はつねに阻まれる。観客は分断された音をもういちど繋ぎ直し、意味を再構成しなければならない。観客はアクティヴな参加を要求される。

おそらくここで切断されているのは、意味と音だけではないだろう。意味(セリフの内容)と感情(俳優の演技)も分断されている。つまり、怒りのセリフは必ずしも怒った口調にはならない、ということだ。自然主義的な演技が完全に否定されるわけではないが、自然主義は選択肢のひとつに格下げされている。

その代わりに台頭してくるのは、声の物理的なインパクトであるように思う。カノンやフーガやユニゾン的な声の扱いは、感情レベルではなく、音響的なレベルにおいて、セリフを観客に伝播する。それはある意味、「言っていることはわからないけれど、何となくわかる」というような状況を作り出すのかもしれない。

宮城演出を見るのはこれが4作目だが、正直なところ、宮城がどういう原理にのっとってこうした声の扱いをしているのかがよくわからない。カノンやユニゾンで言われれば、の単語やフレーズは確実に強調されているように聞こえるけれど、果たしてそれが劇の進行のために必須のパートであるかというと、そうでないように感じられるときが多い。場当たり的ということはない。しかし、確固たるルールがあるわけでもなさそうな感じもする。様式の内部にはルールがあるのだが、様式をどこに使うかはルール的ではない、という感じなのだろうか。 

 

滑稽味

宮城演出の声や所作が非自然主義的であるとしたら、滑稽味の扱いにおいて、彼の演出は非古典的というか前近代的だろう。伝統芸能的と言ってもいい。アウエルバッハの『ミメーシス』によれば、西洋文学の基本にあるのは、主題とスタイルの連環である。悲劇ではやんごとなき人々が荘厳に語る、喜劇では庶民がざっくばらんに語る。たとえばラシーヌなどは、このスタイル・ルールにのっとっている。その一方で、シェイクスピアはこれに該当しない部分が多いだろう。そして、非西洋的な伝統芸能においては、真面目と不真面目の分断は、ルールというよりは例外かもしれない。

宮城は真面目なところにあえて笑いを持ってくる。だから、罪人の世界と女神の世界、魂たちの世界を繋ぐという稀有な能力を備えているカルンガは過剰なまでに滑稽である。これはもっとも罪深い存在らしい(というのも彼女は最後のイニイエの裁きにおいてまるで許されることがないから)オフィリスは漫才的なトーンを残している。イニイエですら、カルンガを真似るかのように、あっかんべーと舌を出して回転のダンスを踊るシーンがある。

高いものと低いもの、重いものと軽いもの、真剣なものとくだらないこと、それをシステマティックに混淆させることが、宮城の演出プランのひとつのであると言っていいだろう。

 

神話性

宮城の演出は、伝統芸能的なスタイル(スタイルの混淆)に、ブレヒト的な異化(自然な聴取の意図的な阻害)を接ぎ木している。しかし、興味深いことに、その最終的な帰結は、ブレヒト的な「考えさせる劇」(現実認識の深化)ではないように思う。

彼の演劇は、その意味で、非歴史的である。歴史や現実を軽視しているというのではない。まちがいなく彼の演出は歴史や現実を深く考えた所産である。だが、宮城演出において最終的に前景化されるのは、歴史的具体性ではなく、人間的なもの(罪、記憶、赦し)である。

批判的な言い方をすれば、宮城は演出する劇を神話化しすぎてしまうきらいがあるような気がする。普遍化は昇華かもしれないが、同時に、歴史的具体性の軽視にもつながりかねない。歴史的具体性よりも、普遍性を上位に置いてしまう、と言ってもいい(というのも、彼に歴史的具体性を否定しようというような意志は微塵もないだろうから)。 

 

音楽

アフリカ的(というとあまりにクリシェすぎるが)なポリリズムな音楽はうまくフィットしていたと思う。ただし、ところどころで、マハーバーラタで聞かれたようなリズムがあり、しかもそれが滑稽に場面転換するさいの決め台詞的な追い込みのパッセージで使われていたので(ダン、ダン、ダン、ダン、ダダダダダダダン、みたいな)、途中でマハーバーラタが想起されてしまった。

おそらく宮城の非自然主義的演出において、舞台の強度を保っているのは、俳優の演技ではないのだろう。いや、もちろん、俳優の演技の強度はあるし、それはきわめて高度なレベルにある。だが、究極的なところで、宮城の演劇は俳優のセリフだとかジェスチャーだとか表情という「ひとつ」の要素を前景化することをしないように思う。

彼の演出では、最後の「決め」はつねにマルチメディア的だ。たとえばイニイエの最後の退場。ややスモークがかった照明、俳優の優美にスローな所作、音が重層的に膨れ上がりテンポ的にもガンガン追い込んでいく音楽がある。

それは観客に集中と散漫の両方を同時に要求する。観客は忙しくなる。というのも、マルチメディア的な効果は観客の内部において統合されなければならないからだ。もちろん、高揚する音楽だけに身を任せてもクライマックスにはたどり着けるし、宮城演出の音楽(とくに幕切れの追い込み)はきわめてエンターテイメント的なところがある。

けれども、このある意味でとても「素直な」盛り上がり、ほとんど麻薬的とでも言いたくなるような、パーカッシヴなアップテンポのビートは、彼の演劇にあるブレヒト的異化と不協和音的な関係にあるようにも思うのだが、どうなのだろう。ブレヒトにおいては音楽すら異化するものであったけれど、宮城においては音楽に異化作用が希薄である、ということになるだろうか。