うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

オバマ大統領の演説の日本語訳(ハフィントン・ポスト、日経、産経)についてのメモ

オバマ大統領の演説の日本語訳(ハフィントン・ポスト、日経、産経)についてのメモ。朝日は登録しないと見れないのでチェックしてない。読売は見つからなかった。

Mere words cannot give voice to such suffering, but we have a shared responsibility to look into the eye of history and ask what we must do differently to curb such suffering again.(Huffington Post) 言葉だけで、そのような苦しみに声を与えるものではありません。しかし私たちには共有の責任があります。私たちは、歴史を真っ向から見据えなけれなりません。そして、尋ねるのです。我々は、一体これから何を変えなければならないのか。そのような苦しみを繰り返さないためにはどうしたらいいのかを自問しなくてはなりません。(Nikkei)  言葉だけではそのような苦しみに声を与えることはできない。歴史を真っすぐに見つめ、再び苦しみを生まないために何を変えなければいけないのかを問う共通の責任がある。(Sankei) 単なる言葉でその苦しみを表すことはできない。しかし、われわれは歴史を直視し、そのような苦しみを繰り返さないために何をしなければならないかを問う共通の責任がある。

どの翻訳もいまいちだ。Hの「共有の責任」はすこしおかしな表現だと思うが、「共通の責任」がいいのかというと、少し考えてしまう。「歴史を直視し、…尋ねるという責任」を「シェアしている、共に背負っている」ということなだから、Hのほうが訳としては正確かもしれない。しかしHの一文目はあまりに直訳すぎるだろう。NはButを省いたせいで英語とニュアンスがずれている(「言葉だけでは充分ではない、しかし私たちは[言葉で語る以上にできることがある、それは]…というシェアされた責任である」)。what we must do differentlyという単純なフレーズをどこも微妙に変なふうに訳しているのが不思議でしかたない。「[これまでやってきたのとは]別のやり方でやらなければならないこと」。ここで力点が置かれているのは、対象(何を変えるか)というよりは、やり方(何を別のやり方でやらねばならないのか)のほうだと思うのだが。

 

We may not be able to eliminate man’s capacity to do evil, so nations and the alliances we have formed must possess the means to defend ourselves.(HP) 私たちは、人類が悪事をおこなう能力を廃絶することはできないかもしれません。私たちは、自分自身を守るための道具を持たなければならないからです。(Nikkei) 人間が悪を働く力をなくすことは難しく、国家や同盟は自分自身を守る手段を保持しなければならない。(Sankei)  われわれは人類が悪事を働く能力を除去することはできないかもしれないし、われわれが同盟を組んでいる国々は自らを守る手段を持たなければならない。

この部分は不正確というより、各社のイデオロギーによる意図的な曲解という気がする。直訳すれば、「私たちは人間の悪いことをする力を取り除くことはできないかもしれない、だから国民や、私たちが築いてきた同盟は、自衛のための手段を保持しなければならない」。HPはなぜかSo以下をBecauseのように訳している。Nは廃絶の可能性を低く見積もったペシミスティックな調子に変えている。SはSoにある「だから」(論理的に弱いつなぎではあるが)をAndのようにしてしまっている。論理としては、1)人は悪を成すことができるし(能力)、悪を成してきた(歴史的事実)、2)これに対処しようという歴史的な動きがあった(同盟関係)、3)しかしながら、そうした努力にもかかわらず、人を完全に善な存在にすることはできないかもしれない(性悪説の受け入れ)、4)悪がなされる可能性がある以上、自衛手段は必要だろう(性悪説にもとづく予防論としての自衛の必要性)。

 

We must change our mindset about war itself to prevent conflict through diplomacy and strive to end conflicts after they’ve begun. To see our growing interdependence as a cause for peaceful cooperation and not violent competition, to define our nations not by our capacity to destroy but by what we build./ And perhaps above all we must re-imagine our connection to one another as members of one human race./ For this too is what makes our species unique.(HP) 戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。/ 平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。(Nikkei)  我々は戦争そのものへの考え方を変えなければならない。外交の力で紛争を防ぎ、紛争が起きたら終わらせようと努力をすべきだ。国と国が相互依存関係を深めるのは、平和的な協力のためで、暴力的な競争のためではない。軍事力によってではなく、何を築き上げるかで国家を評価すべきだ。そして何にも増して、同じ人類として、互いのつながりを再び考えるべきだ。それが、人間が人間たるゆえんだ。(Sankei) われわれは戦争そのものに対する考え方を変えなければならない。外交を通じて紛争を予防し、始まってしまった紛争を終わらせる努力するために。増大していくわれわれの相互依存関係を、暴力的な競争でなく、平和的な協力の理由として理解するために。破壊する能力によってではなく、築くものによってわれわれの国家を定義するために。そして何よりも、われわれは一つの人類として、お互いの関係を再び認識しなければならない。このことこそが、われわれ人類を独自なものにするのだ。

ここも問題含みだ。HPはpreventの箇所を読み違えている。ここのロジックは、紛争が始まる前は外交手段でどうにか回避すべきだし、始まってしまったら(おそらく外交手段だけではなく軍事的手段を視野に入れて)紛争を終わらせるための努力をすべきだ、であるはずだが、HPだとそれがまったく見えない。NとSは正確に訳している。次の文章も、HPは意訳しすぎだろう。NがDefineを「評価」としているのは腑に落ちにない。実際の演説を聞いていないので確信しているわけではないが、Japan Timesのトランスクリプトによれば、For this tooは次のパラグラフの冒頭なのだが、なぜか三社ともここに組み込んでしまっている。そのせいでここが妙に人道的、ヒューマニスティックな感じになっているし、妙に盛り上がった感じになってしまっている。各社ともにPerhapsによる留保を訳していない点で足並みが揃っているのが面白い。ともあれ、どれも訳としては及第だが完璧ではない、という感じだろうか。意味としては「我々はみな人間というひとつの種族の成員であり(つまり人種的に別々の存在ではない、白人だろうと黒人だろうとなんだろうと誰もがみな「Human race」という一つのカテゴリーに入る)、そういう存在として私たちの相互の繋がりを想像しなおさなければならない」。imagineは単純に「想像する」でいいと思うのだが(これはベネディクト・アンダーソン的な想像の共同体でもいいし、ジョン・レノンのイマジンでもいい)、なぜか各社ともに堅苦しくしている(認識、確認、考える)。

 

Realizing that ideal has never been easy, even within our own borders, even among our own citizens. But staying true to that story is worth the effort. It is an ideal to be strived for, an ideal that extends across continents and across oceans, the irreducible worth of every person, the insistence that every life is precious, the radical and necessary notion that we are part of a single human family. That is the story that we all must tell.(HP) しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。/ しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。(Nikkei) この理想を実現することは米国内の米国市民であっても、決して簡単なことではない。しかし、この物語を実現することは、努力に値する。それは努力して、世界中に広められるべき理想の物語だ。/ 我々全員は、すべての人間が持つ豊かな価値やあらゆる生命が貴重であるという主張、我々が人類という一つの家族の一員だという、極端だが必要な観念を語っていかなければならない。(Sankei) 理想は、自分たちの国内においてさえ、自国の市民の間においてさえ、決して容易ではない。しかし誠実であることには、努力に値する。追求すべき理想であり、大陸と海をまたぐ理想だ。/ 全ての人にとってかけがえのない価値、全ての命が大切であるという主張、われわれは人類という一つの家族の仲間であるという根本的で必要な概念。われわれはこれら全ての話を伝えなければならない。

HPはStaying true toを完全に誤訳している。Nikkeiも怪しい。Sankeiもちょっと違う。これはfaithfulの意味だろうから、「アメリカの理想の物語に忠実であること」でいいと思う。across continents and across oceansを直訳することでSはちょっと変なことになっている。ここはNとHPのほうがいい。 the radical and necessary notionは日本語にしにくいフレーズだが、それでもNの「極端だが必要な観念」はいただけない。Sの「根本的で必要な概念」のほうがましだろう。HPは意訳しているようでもあるし、訳してないようでもある。ここのNecessaryはIndispensableのように解したほうがいいだろう。Radicalは「根本的」でもいいが、「極端」のほうが意図したところに近いと思う。というのも、人類がひとつの家族であるという考え方は、やはり依然として「極端」(ないしは極論)に響くだろうから。しかし平和な世界の構築のためには、こうしたマインドセットの変更が「必要不可欠」である。

 

That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.(HP) この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。(Nikkei)  それが我々が選びうる未来だ。そして、その未来の中で広島と長崎は、核戦争の夜明けとしてではなく、我々の道義的な目覚めの始まりとして記憶されるだろう。(Sankei) 広島と長崎の将来は、核戦争の夜明けとしてでなく、道徳的な目覚めの契機の場として知られるようになるだろう。そうした未来をわれわれは選び取る。

ここはCanを訳したほうがいいだろう。「(いろいろありえる複数の未来のなかから)私たちが選ぶことのできる未来」。Sは少々勇み足という気がするが、締めくくりのレトリックとしてはありか。ニュアンス的にはNが一番正しく構文を理解している。HPはその点すこし怪しく、Sはおそらく意図的に順序を変えてしまっている。

 

1)人称の問題

オバマ大統領のアメリカ国民向けの演説のWeはつねに「我々アメリカ」で、Inclusiveなものだが、ここではそうではない。ここでの「我々」は広島にとっての他者、広島を訪れる人々のことである。そしてこれは必ずしもいわゆる「外国人」だけを意味しないだろう。この意味で、オバマアメリカ人としてというよりも、広島への訪問者として語っているといっていい。

2)曖昧さの問題

話者の主体はアメリカ(人)では必ずしもない。ここには意図的な曖昧さがある。そして問題のスケールが意図的にずらされている。問題はアメリカと日本ではなく、「人類の核心にある矛盾humanity’s core contradiction」がクローズアップされる。創造的であるはずの我々人類は、なぜこれほどの破壊力をも備えているのか。文明や科学技術の進歩はつねに両面的であり、裏を返してみればそこに暴力が潜んでいる。こうして話のスケールが大きくなり、抽象度が上がるにつれて、話者の具体的なアイデンティティアメリカ大統領)は逆に希薄になる。なぜならこの話は特にアメリカ大統領ではなくとも語れるものだから。「Technological progress without an equivalent progress in human institutions can doom us. The scientific revolution that led to the splitting of an atom requires a moral revolution as well.」そのとおり。しかしこれは科学者でも、哲学者でも同じように口にすることができるし、おそらくアメリカ大統領よりも説得力を持って語ることができる言葉だろう。

3)反省すること、思いを巡らすことの問題

こうしてオバマ大統領の口にする「我々」が「爆弾の落ちた瞬間を想像する」とき、そこではもはやどの国がどの国にとか、なぜという具体的かつ直接的な問い、戦略的かつ戦術的な問題は捨象されている。我々はただこの原爆の落とされた地を訪れた者として、その地で過去に起こった恐ろしい出来事を想像しようとする。しかしそうして広島の事柄を考えるやいなや、想像のスケールは飛躍し、「我々は声なき叫びに耳を傾け」、第二次大戦だけではなく、それ以前それ以後の戦争の「あらゆる無辜の犠牲者 all the innocents」を思い返すことになる。

4)広島の有用性の問題

またはこれからの世のなか=未来における道徳的想像力の起爆剤としての価値。すでに述べたように、ここでの問題はすでに、アメリカが日本に原爆を落としたことの是非ではない。そうではなく、科学の功罪の問題であり、人類の暴力性の問題である。それゆえ広島の意義は、アメリカの罪の証ではなく、文明史における教訓のようなものとなる。

5)具体的な国家関係の問題

こうして人類史的なスケールで話を引っ張って、半分くらいまできてやっと「合衆国と日本」という言葉が口にされるが、そこで強調されるのは「同盟」であり「友情関係friendship」だ(この部分のour peopleが具体的に誰を指しているのか今ひとつピンとこない、アメリカ人を指しているようでもある、私たち皆を意図しているようでもある)。しかしこの具体性はすぐさま比較にさらされ(ヨーロッパ諸国)、そして「国際的コミュニティ」にまで話がふくらんでいく。ここで話は具体的だが、主語は仮想的であり、抽象的でもある(every act of aggression between nations, every act of terror and corruption and cruelty and oppression that we see around the world)。そしてここのWeはもはや広島への訪問者にとどまらず、この世界に暮らすあらゆる人々を含むだろう。広島を訪れたことがあろうがなかろうが、破壊行為は遍在的である。たしかに「恐怖の論理から逃れ核兵器のない世界を追求するための勇気」を持つことは、「私の国」のように核兵器を持っている国々nationsが率先して持つべきものではあるが、それは核兵器を保持する国だけの事柄ではないだろう。

6)心性の問題

しかし核兵器の拡散を止めるだけでは充分ではない。戦争にたいする考え方そのものを変えなければならない。つまり戦争を必要悪として許容するのではなく、破壊力をなくしていこうという考え方だ。もちろんこれは必ずしも、「人間を天使のようにしよう、性善なる存在に変えよう」というユートピア的な空理空論だとか実現不可能な絵空事を望むことではない。ここでオバマ大統領が述べるのは、平和的協力peaceful cooperationを暴力的な競争violent competitionより尊び、建設する力を破壊する力よりも高く評価するような新しい価値体系の構築だろう。つまり重要なのは人間性を変えることではなく、我々の価値判断を転換することである。だから想像力を鍛え直すことが大きな問題となる。

7)教育の問題

それゆえ、ここで強調されているのは、教育の問題であるといっていいのかもしれない。動物としての人間は暴力的かもしれない。我々の遺伝子に暴力的なものが書き込まれていて、暴力的な行為を繰り返すように自然に仕向けられているのかもしれない。しかし人間は生来的なものの奴隷ではなく、「私たちは学ぶことができる。私たちは選ぶことができる。」この教育という契機があるからこそ、後世に語ることが意味をもつのだ。しかしその場合、語られるべきは、必ずしも悲惨さの記憶ではないらしい。それは「別の物語a different story」であり、人類を結びつけるような物語(one that describes a common humanity)、価値転換のための物語(one that makes war less likely and cruelty less easily accepted)である。すでに述べたように、ここでも問題は意図的に曖昧にされている。いや、具体的な問題が意図的に普遍的なものへと引き上げらているというべきだろうか。サイードは知識人論のなかで、知識人の役割はローカルな事柄を普遍的問題に結びつけることで、特殊的なものを全体の問題として扱うための筋道を開くことにある、というようなことを述べていたと思うが、この演説はそういう路線に則っているといっていいのではないかと思う。

8)赦しの物語

この意味で、オバマ大統領が具体的に言及する「ヒバクシャ」の物語が「赦し」の物語であるのは象徴的だろう。ここではすでに加害者被害者の単純な二項対立が乗り越えられている。なぜなら責任の所在は爆弾を投下したパイロットにだけ帰せられるものではないからだ。もちろんこうした責任は誰/どこにあるのかをキャンディード的なバカバカしいやり方で遡っていけば、悪いのは武器を作った科学文明だというような結論にたどり着いてしまうわけだが、ここではそうした不毛な後退は起こらない。憎むべきは戦争そのものである、とあるヒバクシャの女性は言う、とオバマ大統領は語る。

9)私自身の国の物語

そしてやっと大っぴらに「私自身の国の物語」が語られる。ここでオバマ大統領は明らかに「アメリカ人」として語ることになる。しかしそこで語られる価値は必ずしもアメリカ特殊というわけではない。なぜなら「人は平等に創られ、ある権利を与えられている」という宣言は、西洋近代の最も崇高なる建前だからだ。もちろんこれを「物語」とすることで、ここにはこの啓蒙の理想がアメリカンドリームのバリエーションであるかのように響くわけだが、それは経済的成功という世俗的なものとは一線を画するだろう。というのも、ここで問題となるのは個々人の物質的幸福というよりは、すべての人間が尊重されるべきだという倫理だからだ(The irreducible worth of every person, the insistence that every life is preciousのEveryに注目しよう)。

10)Weふたたび

そして演説は再び「訪問者」としての「私たち」に戻る。だが、そこで喚起されるイメージは、再び、具体的ではあるが特殊的ではない。「私たちが愛する人々」、「朝一番の子どもたちの笑顔」、「テーブル越しの配偶者との優しい触れ合い」、「安らかな気持ちにしてくれる親の抱擁」。特殊性を取り払えば、我々はみな同じ人間であり、同じような感情を抱き、同じような希望を抱いて生きているだろう。だから我々は死者のようであり、死者は我々のようであるのだ(Those who died, they are like us.)。この市井の知恵が演説の結論なのだと思う。

Ordinary people understand this, I think. They do not want more war. They would rather that the wonders of science be focused on improving life and not eliminating it. When the choices made by nations, when the choices made by leaders, reflect this simple wisdom, then the lesson of Hiroshima is done.