うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ビジネス的なセンス:静岡市美術館「ピーターラビット展」

20221022@静岡市美術館「ピーターラビット展」

そこまで興味があるわけではないけれど、とりあえず足を運ぶ。わりと発見はあった。

ビアトリクス・ポター博物学的な素養を身に着けており、キノコや菌類について論文を書いたほどだが、当時の学会の女性軽視の傾向ゆえに科学者というキャリアを断念していたことや、湖水地方の自然保護に熱心でナショナル・トラストを支持していたことは知っていたが、みずからピーターラビットのぬいぐるみを作って特許を申請したり、塗り絵やボードゲームを考案したりと、自身が生み出した物語やキャラクターのライセンス権を巧みに管理していたというのは知らなかった。

ポターは1866年生まれ(1943年没)、アフ・クリント1864年生まれ(1944年没)。どちらも女性として、当時の性差別構造にキャリアを阻まれていることを思い出さずにはいられない。

ポターは物語作者であり、挿絵画家だったけれど、同時に、優れたビジネスパーソンでもあり、読者のニーズというものをよく理解していたようだ。子どもが手に取りやすいように本の判型を小さくする(手帳サイズ)、塗り絵をバラ売りするというセンスは、子供心をわかっているでは片付けられない商売感覚ではないだろうか。

ピーターラビットを動物の擬人化物語と読んでいいかは、なかなか難しいラインだろう。一作目には、母の言いつけを守るいい子の3姉妹と、いたずら naughty なピーターという対比がある。マグレガーさんの家に忍び込んで盗み食いして追いかけられて、命からがら逃げ出すという冒険、そのせいで寝込んでしまい母親にカモミールの煎じ薬を飲まされる(姉妹たちは摘んできたブラックベリーを楽しむ)という結末。大筋ではエンタメ的で、最後は教訓的。すくなくとも、物語としてはそういう作りになっている。古くからよくある動物教訓物。

しかし、挿絵はかならずしも擬人的ではない。ピーターは青いジャケットに革のシューズだが、顔はウサギそのもの。人懐っこい表情だったり、美味しそうに盗み食いする表情はあるけれど、それは緻密な動物観察にもとづく写実的な描写で、そこにデフォルメはない(そこがディック・ブルーナ(1927-2017)のミッフィーのようなキャラクターと大きく異なるところだ)。デフォルメされるのは、ウサギたちが人間の洋服をまとっているときだけ。そのときだけ、前足の位置が人間のそれになる。けれども、ズボンは履かせないから、下半身はウサギそのものである。そして、上着が脱げると、キャラクターの身体はふたたびウサギの身体に戻る。

スケールにしても、実際のウサギを逸脱しない。その意味では、かなりリアルであり、だからこそ、読者に、実際に見かけるウサギがピーターたちのように振る舞うかもと夢見させてくれるのかもしれない。

わりとブラックユーモアな話でもある。ピーターの父はマグレガーに捕まってウサギパイにされて食べられてしまったようだ。ピーターが逃走中に脱ぎ捨てていった洋服をマクレガーは案山子に流用する。ここにはお伽噺につきものの残酷さがある。

来場者層がいつもの展覧会と大きく異なるように感じた。子連れ家族が多い。

巻物という特異なメディアのパノラマ性:静岡県立美術館「絶景を描く——江戸時代の風景表現」

20221021@静岡県立美術館「絶景を描く——江戸時代の風景表現」

無料鑑賞券を手に入れていたので、無駄にするのもよくないと思い、今週末には終わるこの展覧会に行ってきたわけだけれど、いまひとつピンとこない展示だった。ざっと流し見た自分が悪いのは承知でそう言っておこう。

風景画を収集に力を入れる美術館のお得意の展覧会なのだとは思う。富士山の表象が大きなテーマだが、富士山そのものはむしろ風景のひとつというか、風景表象の確固たる参照点であり、そこにそれ以外になにをフレームに収めるのかということが問題になっているように感じた。

巻物の特異なメディア性を意識させられた。巻物は横に横にと広がっていくものであり、だからこそ、いまでいうパノラマ的な表現が可能になる。西欧的な額縁のある絵はもちろんのこと、掛け軸でも不可能な、とんでもなく横長の空間表象を行うことができるようになる。巻物の際限のない広がりは、浮世絵のような限定されたスペースのなかでのデフォルメ的構成とは真逆にあるようにも思われた。

しかし、それほど真逆ではないのかもしれない。巻物は、空間表象(構図)という意味ではきわめて写実的と言えるかもしれないが、そのように捉えられた輪郭の内側をどのように表象するのかとなると、かならずしも写実的ではない。司馬江漢のような洋画的技法を知っていた画家になると、山水画的な理想化された具体性ではなく、見たままの風景をそのまま描いてはいるように見えるが、風景の細部の描写となると、かならずしも写実的ではないようにも感じた。

それにしても、ここまで横に長い、何メートルもありそうなものを、当時はどのように鑑賞したのだろうか。

県立美術館は2階が特別展と常設展のスペースで、1階が貸出スペース(と言っていいのかわからないが)のようになっており、県民団体の展示が開かれていたりするのだけれど、いまは「富士山をのぞむ人類の登場と縄文芸術」が開かれている。展示品は静岡だけではなく長野のものがあり、山梨のものもあったと思う。

日本では「美術館」と「博物館」は分業されがちではないか。アメリカでは両者がミックスされたもののほうがむしろ一般的だったような気もする。たとえば超巨大な LACMA がそうであったし、オレンジカウンティにあった小規模な Bowers Museusm もそうだった。というわけで、このような考古学的な展示が「美術館」で開かれていることにすこし驚いた(「縄文芸術」と銘打たれていたから、あくまで「芸術」としての出土品ということなのだとは思うけれど)。

縄文土器をあらためて見ると、その力強さがなんとも味わい深い。表面の文様もさることながら、かたち自体の異形さに惹きつけられる。おどろおどろしい感じはするが、どこかユーモラスでもあり、存在感が濃い。

3000年前の木船の一部が展示されている。雑に眺めただけだと、朽ちた木材のようにしか見えない。しかしこれが、3000年前、水に浮かび、人々の生活を支えていたのかと思うと、不思議な気持ちになる。3000年前の人々はもうここにいない。しかしその痕跡は、こんなにも生々しく、しかし、こんなにも普通の顔をして、ひょいとそこにある。あまりにも何気ないので、思わず手を触れてみたくなるほどに。

黒曜石の塊はよくよく見るときわめて美しい。すこし透き通るような黒で、その表面は、ガラスのように硬い(しかし、どこかひんやりとして、脆くもあるような)テクスチャーに見えた。

2階を見てから1階の展示を見たので、正直な話、こちらのほうが印象に残ってしまった。わりとお勧めです。

「暗い情念の流動体」:ダレル『アレクサンドリア四重奏』(河出書房新社、2007)

なぜなら人間とは土地の精神の延長にほかならないからだ。(『ジュスティーヌ』219頁)

相対性原理の理論は、抽象画や、無調音楽や、無定形(あるいはとにかく循環形式しかない)文学に対して直接の責任がある . . . (『バルタザール』171頁)

わたしたちアレクサンドリア人は、うわべに固い殻をかぶっているけれど、ほんとうはセンティメンタルな人間で、自分たちの友人が人生を楽しんでくれるようにと願っています。(『マウントオリーヴ』195頁)

私らは私らが夢みるものになるのだ . . . (『クレア』75頁)

 

ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』は不思議な連作だ。『ジュスティーヌ』(1957)、『バルタザール』(1958)、『マウントオリーヴ』(1958)、『クレア』(1960)は、時系列に進んでいかない。『ジュスティーヌ』の物語は、『バルタザール』において別の視点から語り直されることで、まったく別の物語になる。『マウントオリーヴ』は前2巻より過去の物語を、前2巻の主要人物ではない人物の視点から語り起こすことで、前2巻の物語の社会的な歴史的な背景が浮かび上がってくる。最終巻の『クレア』は、前3巻を時系列的にも物語的にも引き継ぐ総集編ではあるけれど、大団円をもたらすものではない。

いや、真面目な話をすれば、もしきみが――独創的で、とは言わない、ただ単に現代的で――あることを望むなら、小説のかたちで四枚のカードのトリックをやってみてもいいのじゃないか。いわば四つの物語に一本の軸を刺し通し、そのおのおのを天の四風に捧げるのさ。じつのところ、これが、見出された時(タン・ルトゥルヴェ)ではなく、解き放たれた時(タン・デリヴレ)を体現するひとつの連続体なんだ。空間の彎曲自体が立体的な物語を与えてくれる。一方、連続体を通してみた人間の個性は、おそらく、プリズムを通したように分解するのじゃないかな? (『クレア』171頁)

ダレルが目指すのは単一的な統合ではなく、複数的な相対化。そのような相対化をこそ原理として抱擁しているアレクサンドリアという街。

ぼくたちはこの風景の子供らだ。この風景が行動を、思考さえも支持する。ぼくらが風景に反応する度合に応じて。ぼくはこれほど確かな身元証明を思いつくことができない。(『ジュスティーヌ』49頁)

そのころすでに、彼はこれまでのように幼年時代の夢にひたるのではなく、巨大な物語群を形成する歴史の夢を体験しはじめていた。そしていまこの夢のなかに都会がみずからを投じた――まるでおのれの文化の底流にある集合的欲望や、集合的願望を表現するための敏感な媒体をやっと見つけだしたとでもいうふうに。彼は目覚めると、埃の粉を刷(は)いたような疲弊した空に刻印される塔や尖塔(ミナレット)をながめ、その上にモンタージュをかけたかのように、歴史の記憶の巨大な足跡が映るのを見るのだ。そういう記憶は個人のさまざまな回想の背後に存在していて、その導き手となり、案内人となり、発明者とさえなる。なぜなら人間とは土地の精神の延長にほかならないからだ。(『ジュスティーヌ』219頁)

その街をその複数性のうちに生きたのかもしれないカヴァフィスは、この小説のキャラクターとして登場することは絶えてないけれど、彼の詩のアンビヴァレントな響きは通奏低音として常に聞こえてくる。呪いのような、逃れようとして憧れてしまうような、アレクサンドリアという重層的な街の魅力。その魔力。

ぼくは老詩人の詩の一節を思い出していた。「あの古めかしいのろまの家具どもは、まだどこかをうろつき歩いているにちがいない」記憶とはなんとしぶというものだろう。なんとつらそうに日々の仕事の生の素材にすがりつくのだろう。(『ジュスティーヌ』215頁)

アレクサンドリアでは夜明けまえによく雨が降る。空気を冷やし、市立公園の棕梠のかさかさと鳴る固い葉を洗い流し、銀行の鉄柵を洗い、舗道を洗う。アラブ地区の土の道路は掘り上げたばかりの墓穴のように匂っているだろう。花売りたちが花束を外に出して新鮮な風に当てようとしているだろう。「カーネーション、娘っ子の溜息みたいにに甘いカーネーション!」という呼び声をぼくは思い出した。港のタールや魚や塩に浸かった網の匂いが、人影のない街路沿いに押し寄せ、砂漠特有の無臭の空気の溜りとぶつかり合う。いずれ日が昇れば、この空気は東から町なかにはいりこんで、湿ったファサードを干すだろう。どこかで、眠たげなマンドリンの疼きが強い雨音に突き刺さり、物思わしげでメランコリックな小曲を刻みつける。(『クレア』120‐21頁)

アレクサンドリア四重奏』の「形式」は、プルーストの『失われた時を求めて』と比較できる。この物語の主要な語り手であり、友人からは「ダーリー」と呼ばれる男は、作者「ローレンス・ダレル」その人のようでもあれば、分身のようでもあり、まったくの創作のようでもある。作者「マルセル・プルースト」と、物語の語り手「マルセル」が、同一人物のようでありながら決してそうとは確定できないように、「ダレル」と「ダーリー」の関係も意図的な未決状態に置かれたままである。

しかしそれ以上に決定的なことがふたつある。

ひとつは、『マウントオリーヴ』が『スワンの恋』のように、『新約聖書』に先行する『旧約聖書』のように、物語の雛形――報われることのない愛に惹きつけられてしまうこと――を提示しているところ(もちろん、プルーストでは『スワンの恋』が「マルセル」の恋愛に、時系列的にも物語的にも先行するが、ダレルでは、「ダーリー」の恋愛がすでに2度も――『ジュスティーヌ』では彼自身の口から、『バルタザール』では医師にしてカバラ主義者の友人の視点から――語られた後に、遡及的に、それに先行する祖型のようなものとして『マウントオリーヴ』というテクストがあるという違いはあるのだけれど)。

もうひとつは、『クレア』が『見出された時』のように、戦争によって隔てられるとともに、戦争というリアルが、プライヴェートな空間に侵入してくるところ(とはいえ、『見出された時』が「マルセル」による作家という天命の発見というクライマックスで幕を閉じ、あたかも「マルセル」がそこから『失われた時を求めて』という長編小説を書き始めることを予感させるのとは裏腹に、『アレクサンドリア四重奏』にはそのような大団円はなく、物語は決して大きなクレッシェンドを描いて終わることがない)。

 

愛がこの小説群の根幹にあるというのに、それはほとんど不毛に終わる。本当に愛すべき人を愛すことができない悲喜劇が繰り返される。ダーリーはジュスティーヌを愛していると思い、メリッサを見捨てるが、ジュスティーヌは本当の愛を隠すためにダーリーを利用したにすぎなかったことが、バルタザールの語りによって明らかになる。しかし、後の巻で明らかになるのは、そもそもジュスティーヌとネッシムの婚姻自体が、ユダヤ人とコプト人の戦略的な盟約にすぎなかったことである。『アレクサンドリア四重奏』をとおして加速度的に明らかになっていくのは、アレクサンドリアという街の歴史的人種的重層性――コプト人、アラブ人、ユダヤ人、ヨーロッパ人(イギリスとフランス)――であり、そのあいだの権力関係にほかならない。サドに触発されたカップリングの試験的な組み換えの物語と思われたものが、巻が進むほどに、現実の歴史の力学にますます巻き込まれていく。

にもかかわらず、ダレルは決してアレクサンドリアの歴史を正面切って自身の小説に書き込むことはない。

たしかに次のような記述はある。

エジプトにとっては、アレクサンドリア人自体が他国者であり追放者なのだ。エジプトは彼らの輝かしい夢の底辺に存在している。熱い砂漠に包囲され、世俗の快楽を拒否する厳しい信仰の風に吹きさらされている。エジプトは襤褸と宿業の国であり美と絶望の国だ。アレクサンドリアはまだしもヨーロッパだ――もしそんなものがあるとすれば、アジア・ヨーロッパの首都だ。カイロとは似ても似つかない。あそこにいれば彼の全生活がエジプトの鋳型にはめこまれる。彼はふんだんにアラビア語を喋る。ここでは、フランス語、イタリア語、ギリシア語が支配する。環境、社会的風習、あらゆるものが異なっている。すべてがヨーロッパの鋳型にはめこまれていて、駱駝や棕梠の木や寛衣をまとった土着民は、なにか、きらびやかに彩りした装飾帯(フリーズ)として存在しているにすぎない。さまざまな起源に分れる生活の背景にすぎない。(『マウントオリーブ』191頁)

しかし、大きく見れば、アレクサンドリアという街を、描写のために描写することはあまりない。街がすべての主要登場人物の源泉であるにもかかわらず、第一原因とも言うべき街は間接的に表象されるばかりである。

その意味で、『アレクサンドリア四重奏』は『ユリシーズ』に似ていなくもない。街はすべての背景であり、すべての地である。しかし、あまりにそうであるからこそ、街自体が表に迫り出してくることはない。街は後景において圧倒的なプレゼンスを放つのみである。

 

ダレルが試みるのは、客観的な歴史ではなく、キャラクターたちの生きられた経験であり、さらにいえば、キャラクターたちによる回想である。彼ら彼女らは、振り返ることによって、書き起こすことによって、過去を記憶としてとらえ直す。だからこそそれは時系列にはならないし、かならずしも順序だったものでもない。思い出されるままに、新たな視点が導入されるたびに、足し算的に付け加わっていく。

(ぼくにとってもっとも必要なことは、自分の経験をはじめから順序立てて記録することではない――それは歴史の仕事だ――経験がぼくにとって意味を持ちはじめた順に記録していくことだ)(『ジュスティーヌ』145頁)

芸術家や大衆は地震計とか電磁荷みたいなもので、ただ記録するだけだ。もっともらしい理屈はつけない。真実であれ偽りであれ、成功しようと失敗しようと、偶然にまかせて、ある種の伝達が行われることを知っているだけ。そいつをさまざまに分類して嗅ぎまわしても――結論が出るわけはない(こんなふうに芸術に近づくのは、すべて芸術に身をゆだねることのできない連中の通弊ではないのかな)。(『マウントオリーヴ』147頁)

アレクサンドリア四重奏』はメタ小説的でもある。というのも、「ダーリー」自身が作家になろうとしている主人公だからで、そこに、すでに作家として名をはせているパースウォーデン――ウィンダム・ルイスがモデルらしい——がおり、彼らに先行するとともに、すべてのもうひとつの原型ともいうべき『風俗(ムール)』(「女性情狂と心理的不能に関する激烈で荘重な研究」(『マウントオリーヴ』141頁)いう小説を書いたアルバニア出身の作家にして、ジュスティーヌの先夫であったアルノーティがいる。

ぼくたちは神話的な都会に委託された三人の作家だ。ここで養われ、ここで自分の才能を確認する。アルノーティ、パースウォーデン、ダーリー――まるで、過去形、現在形、未来形みたいに! そうして、ぼく自身の生活のなかでは(「時」の横腹の傷口からとどまることを知らずあふれ出る流れ!)、三人の女が「愛する」という偉大な同士の叙法を代表するかのように並んでいる。メリッサ、ジュスティーヌ、そしてクレア。(『クレア』229頁)

バルタザールは医師だが、彼もまた書く人間であり、クレアは画家である。『アレクサンドリア四重奏』は芸術家小説でもあり、プルーストの『失われた時を求めて』と同じように、芸術家にならんとする主人公のビルドゥングスロマンであるとも言える。「あらゆる世代にわたって芸術家が生まれるという事実  」(『クレア』177頁)をこの小説群が描き出そうとしていることはまちがいない。

人間の五感のそれぞれが芸術をかかえている。[Each of our five senses contains an art.](『バルタザール』133頁)

芸術家は死んだ者たちとまだ生まれていない者たちに真の友を求める . . . (『マウントオリーヴ』75頁)

多数的な声が響いているとも言えるし、最終的にはダーリーという一人称の語りが支配的であるとも言える。ダーリーの想起は、別の視点からの語り――それを彼は、手記や手紙、彼の原稿の余白にたいする書き込みといったかたちで受け取るだろう――によって問い質され、ひっくり返される。それは、ダーリーとは異なる小説原理を提出するだろう。たとえば、パースウォーデンは次のように述べる。

ぼくはひとつの調子を……肯定の音調を響かせたいと思っている――だが哲学や宗教の用語を使ってではない。これには抱擁の曲率を、つまり言葉を越える恋人の伝達法を手に入れねばならない。ぼくたちが生きている世界は、宇宙の法則などという煩雑な説明では伝えがたい単純な何かを基盤にしているのだという感覚を――たとえば、柔らかな行為、動物と植物、雨と土、種子と木々、人間と神など、原始的な関係のなかにひそんでいる素朴で柔らかな行為、そういうわかりやすい何かに基づいているのだという感覚を伝えねばならない……ぼくはこの最後の本で、単純な掟という領域のなかに人間の希望があり、このなかに人間の展望があるということを主張しなければならない。人類は理性によってではなく、もっぱら注意力を研ぎ澄ますことによって、しだいに必要な知識をわがものにしてゆく。それがまるで目に見えるようだ。そしていつかは人々がこういう考え方のもとで生きる日も来るだろう . . .(ダレル『バルタザール』292‐94頁)

テクストには、ほかのテクストからの――パースウォーデンやアルノーティのような仮構のものから、カヴァフィスのような実在のものまで――引用があふれている。しかし、それらを最終的に統合している(とまでは言えないとしても、すべてを包摂する受け皿ではある)。その意味では、多数性が最終的には単数性に回収されているとも言える。

 

とはいえ、そのような全体的な構想よりも、細部の観察や洞察にこそ、心理的な解剖にこそ、ダレルの小説家としての繊細さや鋭敏さを見出すほうがいいのかもしれない。

苦痛はあまりに長くつづくと、ある一器官から身体と精神の全領域に押し広がっていくものだから。(『ジュスティーヌ』228頁)

長いこと反逆者でいれば誰でも独裁者になりますよ。(『バルタザール』133頁)

どこに弁明を求めるべきか? ただ事実そのものにのみ、とぼくは思う。なぜなら、事実こそ、この「愛」という謎の中軸をなす心理の内部をすこしでもかいま見せてくれるのだから。ぼくは、愛のイメージが海の浪のように果てしなく連なりうねりながら引き退いて行くのを見る。あるいは、ぼくが織りなした夢や幻想の上に、死んだ月よりもなお冷たく昇るのを――しかし、それは本物の月と同じように、いつも真理の一面をぼくから隠している。美しい死んだ星の裏の世界を隠している . . . この名詞を修飾するにはありとあらゆる形容詞が必要だ――なぜなら、このうちのどの愛を取ってみても同じ属性を所有してはいないのだから。しかも、そのすべてが、ひとつの定義しがたい資質を、裏切りというひとつの共通する未知数を持っている。ぼくたちの一人ひとりが月のように暗い面を持っている――ほんとうにぼくたちを愛し、ぼくたちを必要としている人間に「非愛」という偽りの顔を向けることができる。(『バルタザール』154‐55頁)

話したいことが体のなかに積み重なったまま、店ざらしになっている感じ。ひとり暮しでほんとうに困るのは、たぶん、これぐらい。友人の思考という調整力がそばにあれば、自分の思考と比較できるのに! 孤独な人間はどうしても独裁的になります。その判断が不可謬の権威(エクス・カテドラ)を帯びるのは当然のなりゆきです。たぶん、これは仕事にとって必ずしも良いことではない。(ダレル『バルタザール』295頁)

(初期の宗教はすべて、独房の型になぞらえて築かれたことを知っていますか。どんな生物学的法則を真似たのかは知らないが……)。(『マウントオリーヴ』157頁)

いつも自分の国と確かな繋がりを持ち、帰国を確信し続けているのはなんとすばらしいことか。だが、それを考えるだけで、彼の胸はむかついてくる。それと同時に、むかついたことに苦しみと後悔を覚える(彼女が言った。「わたしはとてもゆっくり本を読んでいます。点字ではまだ早く読めないからではありません。ひとつひとつの言葉の力に、その残酷さと弱さに身をまかせたいと思うから。思考の核心にたどりつきたいと思うから」)。(『マウントオリーヴ』211頁)

人の心を所有したい――この病に効く薬はない。(『マウントオリーヴ』216頁)

音楽は人間の孤独を確かめるために発明された . . .(『クレア』76頁)

おのれの絶望の質を充分に楽しむならばいつでも僅かな希望はある。そうだ。そうして信念があればつねに懐疑があることを覚えておけ。(『クレア』375頁)

 

読みとおすのは骨が折れた。つまらない小説だからではなく、よくわからない小説だったからだ。

読みとおして、こうしてまとめてみたものの、やはりまだよくわからないでいる。

 

訳者の高松雄一は、これらの連作を出版後すぐに翻訳し、それから四半世紀をへて改訳した。彼はその作業を評して、「若者の熱気と老人の分別がうまく融け合ってくれればいいが、と願っているが、私の感じを言えば、分別のほうが少し優位に立ちすぎたような気がする」(『クレア』392頁)と述べている。その意見には同意したい気になる。旧訳は見ていないけれど、たしかにこの訳文はやや落ちつきすぎているような気はする。

 

これらの作品を50年代末に立て続けに出版したとき、1912年生まれのダレルは40歳代後半であった。時代の熱気――メタフィクション的な作風が流行する前夜――もあったと思う。また、高松が述べているように、イギリス本国では労働階級の生活をクローズアップしたような作品が台頭してくるなか、そのまったくの外部から(しかし、外部とはいえ、大英帝国の支配権ではあり、かといって、完全な植民地というわけでもなかった外部から)やってきたダレルのモダニズム的な高踏趣味が放っていたはずの特異性をこの翻訳から感じるのは難しいだろう。

しかし、高松がいみじくも述べているとおり、この小説群が「暗い情念の流動体」(397頁)をめぐるものであるというのは、大いに賛成する。そういう小説なのだ。流動的な構成、相対化を繰り返す視点。唯一的な客観的真実ではなく、情念の強度のリズムを味わうべき小説なのだ。

 

 

ごく私的な主要登場人物の記述

男たち

ダーリー 本作の主人公。うだつのあがらない教師。作家志望。

バルタザール 医師。カバラ主義者。

ポンバル フランス下級領事館員。ダーリーのルームメイト。

スコービー 元水夫で、いまはスパイの真似事をやっている老いた白人。女装趣味。密造酒を自作して販売したり、割礼に反対してもめ事を起こすなど、いかがわしい人物だが、アラブ街の近隣住民からは慕われている。

パースウォーデン イギリス外交官。作家。ネッシムの友人であり、彼の無実――パレスチナとの陰謀――を主張するが、ネッシムが実際にそのような陰謀にかかわっていたことを知り、自ら命を絶つ。

マウントオリーヴ イギリスのエリート外交官。アラビア語を堪能に操る。ネッシムとは長年の付き合い。ネッシムの陰謀に困惑させられるが、外交官としてしたたかに生き延びる。

 

ネッシム 名家の長男。大富豪。文明とその退廃の象徴。メリッサと子をなす。

ナルーズ ネッシムの弟。兎口。インテリな兄を尊敬している。野生とその勢力の象徴。クレアを愛しているが、報われない。

 

女たち

メリッサ 踊り子。ダーリーと恋愛関係になるが、ダーリーがジュスティーヌと関係を深めるにつれて、関係はぎくしゃくしだす。海外の病院で死去。

ジュスティーヌ 『アレクサンドリア四重奏』の世界の中心をなす女性。多面的な自我の持ち主。

クレア すべての登場人物の友人ともいうべき女性画家。語り手ダーリーの対位法的な対称点。物語の参加者にして傍観者。ダーリーよりも多くを見通している観察者。

レイラ ネッシムとナルーズの母。ヨーロッパ的な教養を持ちながら、エジプト社会にとどまることを余儀なくされた女性。マウントオリーヴと恋愛関係になり、その後も、文通相手として関係を持ち続ける。マウントオリーヴとレイラの関係と、ダーリーとジュスティーヌの関係は、プルーストにおける、スワンとオデットの関係と、マルセルとアルベルチーヌの関係を祖型としているようにも感じられる。

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析7:1952年フラグスタート

1936年のコヴェントガーデンでの伝説的な公演記録から16年が過ぎている。フラグスタートはもう60手前。引退を考えるとまではいかないとしても、最盛期のころのレパートリーを最盛期のように歌うことは、肉体的に厳しくなってきている。

声が重く、暗い。輪郭がぼやける。反応が鈍い。高い音が出るまでのタメが長くなっている。wie er leuchtet の leu の音が一発で出ない。老いの衰えは否定できない。

しかし、フルトヴェングラーのサポートは見事だ。ライナーの楷書的な折り目正しさは、いわば、歌唱と器楽を分担したうえでアンサンブルにしていたけれど、フルトヴェングラーは歌を包み込むように、歌をオーケストラという衣装で引き立てるように、献身的に(しかし、きわめて意図的かつ積極的なかたちで控えめに)、歌を盛り立てていく。

フルトヴェングラーは決して歌劇場の人間ではなかったはずだが、彼の寄り添い方は比類ない。それはもしかすると、彼が歌手に迎合しているからではなく、歌手も奏者も含めた全員を俯瞰する高みから音楽を作っているからかもしれない。歌手は器楽にたいする付け足しではなく、両者でひとつの有機的な音楽を作り上げている。

オーケストラ指揮者としてのフルトヴェングラーは、熱情的なアッチェレランドとクレッシェンドをする。音楽の形式的なかたちが崩れることもいとわず、パッションを表出させているような印象がある。しかし、オペラを振るフルトヴェングラーは、ドイツ語のリズムをとても大事にしているし、そこから音楽を立ち上げている。だから、フラグスタートの歌には、歌い崩しがほとんどない。衰えはないとはいえないにもかかわらず。

器楽が音を圧倒することがない。器楽はつねに歌唱を後押しする。

あたりまえのことではある。しかし、それは、このレベルで成し遂げている録音はほとんどない。だからこそ、フルトヴェングラーの録音はいまだに金字塔なのだ。

フラグスタートの歌詞の理解力が、1936年と比べて特筆すべきほどに向上しているのかは、正直、疑わしい。しかし、フルトヴェングラーはまちがいなく言葉の意味を深く理解しているのだろう。言葉と音楽の深い関係を理解しきっているのだろう。

だから、ここでは、Welt-Atemsがクライマックスになってしまわない。歌で終わるのではなく、後奏で音楽が終わることが、計算しつくされている。その意味で、やはりこの録音は、唯一無二の高みに達しているのである。

 

youtu.be

 

Mild und leise        なんと穏やかに、静かに、
wie er lächelt,         彼は笑っていることか。
wie das Auge         なんと優し気にあの人は
hold er öffnet ---         目を開いていることか——
seht ihr's Freunde?         見えるでしょう、あなたたちにも? 
Seht ihr's nicht?        見えないのですか?
Immer lichter          ますます明るく
wie er leuchtet,                            なんと光り輝いて、
stern-umstrahlet                          星の光に包まれて
hoch sich hebt?                            高く昇っていくのでしょう?
Seht ihr's nicht?                            あなたたちには見えないのですか?
Wie das Herz ihm        あの人の心は
mutig schwillt,           なんと勇ましくふくらみ、
voll und hehr                               充ち満ちて気高く
im Busen ihm quillt?       胸からあふれだしているでしょう?       
Wie den Lippen,                           その唇からは
wonnig mild,                                愛らしく穏やかに、
süsser Atem            甘やかな息がなんと
sanft entweht ---          柔らかくもれていることか——
Freunde! Seht!                             そうでしょう、ほら! 見てごらんなさい!
Fühlt und seht ihr's nicht?           感じられないのですか、見えないのですか?
Hör ich nur                                   わたしだけが聞いているの
diese Weise,                                 この旋律を
die so wunder-                             とても素晴ら
voll und leise,          しく静かな旋律を
Wonne klagend,                           至上の喜びを嘆く
alles sagend,                                 すべてを言って
mild versöhnend        穏やかに調和させる
aus ihm tönend,         あの人から響いてくる旋律
in mich dringet,                          わたしのなかに入り込み
auf sich schwinget,        あの人のうえで揺れ動き
hold erhallend          穏やかに鳴り響いて
um mich klinget?        わたしの周りで響いているこの旋律を?
Heller schallend,         ずっと明るく響いて、
mich umwallend,         わたしを包むように沸き立っている、
sind es Wellen                                それは波のように寄せては返す
sanfter Lüfte?         柔らかな吐息だろうか?
Sind es Wogen         波/雲のような
wonniger Düfte?         至福の芳香だろうか?
Wie sie schwellen,         それがなんとふくれあがり、
mich umrauschen,         わたしを包んでざわめいていることか、
soll ich atmen,          わたしは息をしているのか、
soll ich lauschen?           わたしは聞いているのか?
Soll ich schlürfen,                   滴りを飲み込んでいるのだろうか、
untertauchen?           わたしが沈んでいるのだろうか?
Süss in Düften           甘く香りに包まれて
mich verhauchen?        自分が消えてしまえばいいのか?
In dem wogenden Schwall,    波打つ大波のなかで、
in dem tönenden Schall,      響き渡る響きのこだまのなかで、
in des Welt-Atems       放たれる息吹で
wehendem All ---        充たされる宇宙のなかで——
ertrinken,             溺れて、
versinken ---          沈んで——
unbewusst ---           意識の彼方で——
höchste Lust!                  このうえないよろこび!

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析7:1936年フラグスタート

1936年のコヴェントガーデンでの伝説的な公演記録で歌うキルステン・フラグスタートの声はいまだに若い。1895年生まれだから、まだ40歳前半で、キャリア的には最盛期にあると言っていいだろうか。フリッツ・ライナーの折り目正しい楷書体の指揮と相まって、きわめて古典的な演奏になっている。

しかし、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウによる生真面目すぎるディクションを知っている身からすると、フラグスタートの発音はやや甘いようにも感じるし、語末の r の発声がイタリア的というか、巻き舌的。たとえば、immer lichter の箇所はとくにそうであるし、 leuchtet の語末の子音をはっきりと響かせようという意識は薄い。

とはいえ、あらためて丁寧に聞いてみると、フラグスタートには歌い崩しがほとんどないことにも気づかされる。それはもちろん、ライナーが楷書的に追い立てているせいもあるとは思うけれど、そのような指揮者の要求に応えつつ、自らの表現を犠牲にしているわけではない。後半に向かってアッチェレランドがかかるけれど、そこでも、音程やリズムの正確さが揺るぐことはほとんどないし、技術的な難点をクリアするために全神経が費やされているわけではない。

シンコペーション的に、頭拍ではなく裏拍で入ってくるような箇所での音の入りがきわめて巧みだ。器楽的な音楽の流れにスッと飛び乗るようにして、オーケストラの加速する盛り上がりにブレーキをかけることなく、さりとて、オーケストラの加速をいたずらに加速させるわけでもなく、まさにここというジャストな瞬間に合流してくる。その合わせの正確さが素晴らしい。フリーハンド的な感じなのに(ピタりと合わせようと慎重になりすぎていないのに)、気持ちよくシンクロしている。

最後の In des Welt-Atem の We の音をクライマックスにするかのように、声もオーケストラも音をぶつけてくる。そしてそこが見事にハマっている。

その一方で、フラグスタートはどこまで言葉を音化しようとしているのかという疑問もある。ノルウェー人である彼女にとって、そして、イゾルデを限りないほど歌った彼女が、歌詞の意味内容を理解していないということはありえないようにも思うのだけれど、この録音を聞くかぎり、フラグスタートは言葉に特段の注意を払っていなかったのではないかという疑いを抱かざるをえない。彼女は旋律を歌ってはいるけれど、意味を歌っているという感じはあまりしない。

器楽的に聞くなら、おそらくこれはもっともすぐれた演奏のひとつになるとは思う。声には過剰なビブラートがなく、清潔な節回し。フラグスタートの声には適度な潤いと憂いがある。オーケストラは素直に、直線的に盛り上がる。時代的な制約として、音質的な乏しさはあるが、30年代後半としては破格の高音質である(しかもライブ録音なのだから)。しかし、ここには、陶酔的なニュアンスは乏しい。いわば、あまりにも明るすぎる。夜というよりも昼に近く、死というよりも生に近い。

それはそれで面白いが、だからこそ、これをレファレンス録音と捉えるわけにはいかない。

youtu.be

 

Mild und leise        なんと穏やかに、静かに、
wie er lächelt,         彼は笑っていることか。
wie das Auge         なんと優し気にあの人は
hold er öffnet ---         目を開いていることか——
seht ihr's Freunde?         見えるでしょう、あなたたちにも? 
Seht ihr's nicht?        見えないのですか?
Immer lichter          ますます明るく
wie er leuchtet,                            なんと光り輝いて、
stern-umstrahlet                          星の光に包まれて
hoch sich hebt?                            高く昇っていくのでしょう?
Seht ihr's nicht?                            あなたたちには見えないのですか?
Wie das Herz ihm        あの人の心は
mutig schwillt,           なんと勇ましくふくらみ、
voll und hehr                               充ち満ちて気高く
im Busen ihm quillt?       胸からあふれだしているでしょう?       
Wie den Lippen,                           その唇からは
wonnig mild,                                愛らしく穏やかに、
süsser Atem            甘やかな息がなんと
sanft entweht ---          柔らかくもれていることか——
Freunde! Seht!                             そうでしょう、ほら! 見てごらんなさい!
Fühlt und seht ihr's nicht?           感じられないのですか、見えないのですか?
Hör ich nur                                   わたしだけが聞いているの
diese Weise,                                 この旋律を
die so wunder-                             とても素晴ら
voll und leise,          しく静かな旋律を
Wonne klagend,                           至上の喜びを嘆く
alles sagend,                                 すべてを言って
mild versöhnend        穏やかに調和させる
aus ihm tönend,         あの人から響いてくる旋律
in mich dringet,                          わたしのなかに入り込み
auf sich schwinget,        あの人のうえで揺れ動き
hold erhallend          穏やかに鳴り響いて
um mich klinget?        わたしの周りで響いているこの旋律を?
Heller schallend,         ずっと明るく響いて、
mich umwallend,         わたしを包むように沸き立っている、
sind es Wellen                                それは波のように寄せては返す
sanfter Lüfte?         柔らかな吐息だろうか?
Sind es Wogen         波/雲のような
wonniger Düfte?         至福の芳香だろうか?
Wie sie schwellen,         それがなんとふくれあがり、
mich umrauschen,         わたしを包んでざわめいていることか、
soll ich atmen,          わたしは息をしているのか、
soll ich lauschen?           わたしは聞いているのか?
Soll ich schlürfen,                   滴りを飲み込んでいるのだろうか、
untertauchen?           わたしが沈んでいるのだろうか?
Süss in Düften           甘く香りに包まれて
mich verhauchen?        自分が消えてしまえばいいのか?
In dem wogenden Schwall,    波打つ大波のなかで、
in dem tönenden Schall,      響き渡る響きのこだまのなかで、
in des Welt-Atems       放たれる息吹で
wehendem All ---        充たされる宇宙のなかで——
ertrinken,             溺れて、
versinken ---          沈んで——
unbewusst ---           意識の彼方で——
höchste Lust!                  このうえないよろこび!

チルギルチンの公演を聞いていくつか考えたこと

昨日の チルギルチンの公演を聞いていくつか考えたこと(YouTube で Chirgilchin 検索するといろいろと音源が出てくる)。

*ユニゾンは斉唱の第一歩なのか
司会の巻上によれば、チルギルチンは伝統的なものを引き継ぐ一方で、現代的なアレンジも加えているという。そのようなアレンジのなかに、いわゆる「ハモリ」のようなもの、和声的な斉唱があったのだけれど、それがひじょうに突出して聞こえた。昨日演奏されたすべての曲のなかで、その瞬間が、あきらかに異質なものに聞こえた。


*音階は世界の音楽に普遍的に存在するのか
どの音をいくつの使ってひとつの音階とするかは異なるものの、一連の音列をひとつのユニットとして捉えるというのは、音楽システムとしてかなり普遍性が高いような気はする。その意味では、旋律であれリズムであれ、ある程度の長さをひとつのユニットとして捉え、それを反復するのも、かなり普遍的な特徴であるような気はする。何小節でひとかたまりというような形式感。別の言い方をすれば、完全にランダムな、まったく反復を含まない音楽(形式的にも内容的にも反復を排除する音楽)は、相当に自意識的な、まさに人工的な音楽ということになるのではないか。


*和声や和音はどこまで普遍的なのか
昨日の演奏ではアルペジオはよく使われていたけれど、ギターによくある、コードをかき鳴らすという動作はほとんどなかったと思う。音階から和声は一息という感じもするのだけれど、意外とそうではないのかもしれない。


*和声的な斉唱のハードルの高さ
ニゾンが原初的な、もしかすると自然発生的な斉唱の技法だとすると、そこから和声的な斉唱までは、かなりの技術的飛躍が必要になるのかもしれない。


*または、和声的な厚みとは別の厚み
というよりも、音高の違いを本質的な差異とする複数の音を重ねることで作り出される厚みとは別の厚みが、追求されているというべきかもしれない。つまり、和声的に音を合わせるのではなく、奏者の「息を合わせる」というような方向性。

別の言い方をすれば、最終的な音を合わせるのか、それとも、音を出す瞬間を合わせるのか。空気のなかにリリースされて人間の身体から切り離された音世界の秩序を構築するのか、それとも、音が外界にリリースされるその瞬間、音が世界と肉体の両方に接しているその瞬間を基点とするのか。もちろん、すべての音楽にとって両者はともに重要ではあるが、それらの重要性をどのように関係づけるかは、決して一定ではないはずだ。


*和声的な斉唱の非共同体性
和声的に歌うことは、ある種の技術的卓越性を必要とする。訓練を必要とする。だとすれば、音楽を専門としない、音楽的な訓練を受けていない人が和声的な斉唱に加わることは、決して容易ではないだろう。

ニゾンが原始的な斉唱形態だとしたら、それはユニゾンの技術的参入障壁がもっとも低いからではないか。もちろん、音楽を専門にする人々は、さまざまな文化において存在してきたはずだが、にもかかわらず、音楽が生活の一部でありつづけているところで——ホーメイは牧畜生活と関係が深いという——、音楽が和声的な複雑さを志向してきていないのは、そのような音楽が単純だからではなく、複雑になることを意図的に拒むようなかたちで発展してきたからではないか。


*音楽の空間的な複雑性を拒む
カノンはこだまであり、時間的なズレを基調とするものだろう。同じ旋律を、時間軸をズラして、重ねていく。だから必ずしも音楽の先読みを必要としない。後からついていけばよいからだ。

しかし、フーガはそうではないのではないか。対位法的な技術は、音楽を空間的に概念化することを前提として要求しているのではないか。フーガのような音楽技法はどれぐらい普遍的と言えるのか。

打楽器のアンサンブルも、ある意味では、音楽の空間化を前提にしているところはあるかもしれないが、それはあくまで出てきた音の広がりという意味であって、音が鳴る前に然るべき音秩序を前提とするものだろうか。

その意味では、楽譜の発明が音楽の複雑化に果たして役割は大きいだろう。

大地を響かせ、空気を震わせる――ロシア連邦トゥバ共和国のチルギルチン

20221009@グランシップ中ホール・大地

ホーメイという唱法はなんとなくは知っていた。しかし、ひとりでふたつの音を同時に出す技法ということ以上のことは知らなかったし、あえて調べてみようという気にもならないまま、ここまで生きてきた。ロシア連邦トゥバ共和国の団体チルギルチンが近所で公演をするというので、せっかくだから行ってみた。3000円だったし。

www.granship.or.jp

 

英語ウィキペディアによれば、ホーメイは英語表記ではkhoomei 、トゥバ語表記ではхөөмейとなるそうだが、Tuvan throat sining (https://en.wikipedia.org/wiki/Tuvan_throat_singing)として立項されていることからもわかるとおり、「喉」の使用が決定的らしい。出てくる音という観点から定義すれば、overtone singing ということになるのだろう。元音を喉で響かせることによって、その音に含まれている倍音を増幅させ、完全な可聴音に昇華させるということだろうか。それが実際にどうすれば可能になるのかはまったくわからないが、音響現象として原理的に説明するなら、そういうことになるのだとは思う。

クラシック音楽に慣れている耳からすると、ラヴェルの「ボレロ」のピッコロとホルンの、溶け合っているようで溶け合っていない、響き合っているようで完全に分かれている2つの音の流れを想起させられる。音の手ざわりとしては、ファゴットとフルート、コントラバスハーモニクスのバイオリンという感じ。唸る低音の実音の上空で、エアリーな高音が飛翔している感じ。

招聘者であり司会でもあった巻上公一によれば、ホーメイにはさまざまな流派というか流儀というか、別の技術があるらしい。ただ聞いたかぎりでは、どこがどう違うのか、技術的にどうこういうことはできないし、音としてどこまで聞き分けられていたか怪しいところではあるけれど、笛のように滑らかに突き抜ける音もあれば、テルミンのように浮遊してただよう音もあったし、風切り音のようにざらついた感じに響く音もあったのはわかった。そしてどの音も、とてもやさしい音だった。空気を裂くような高音でさえ攻撃的ではない。

音楽は反復的だ。4小節がひとかたまりで、8小節が1ユニットになっていた。基調となるリズムがあって、それを基礎にして旋律を載せていく。きわめて予測可能な音楽ではある。しかし、音楽が予測可能ではないことを期待するのは、芸術がオリジナルであることを期待するのは、きわめて西欧ロマン主義的な価値観ではないか。それどころか、すべての音域を均質にカバーする楽器なり奏法なり唱法を望むというのも、きわめて西欧的な美意識なのかもしれない。

男性3人、女性1人からなるチルギルチンは、そのひとりひとりが奏者でもあり歌手でもあり、さまざまな楽器を演奏できる。その意味ではだれもがマルチプレーヤーである。その一方で、4人の声は、バス・テノール・アルト・ソプラノといった西欧音楽にありがちな声域で差別化されるわけではない。むしろ、4人の声は、声質の違いであるとか、技術的に卓越した分野に違いという観点で、別個の存在なのだろう。

チルギルチンの声は天に解放されるというよりも、大地を響かせる。大地の響きが空気を震わせ、空を震わせる。彼らの声、彼女の声は、頭から抜けていくというよりも、喉から体全体の骨格に響いていくかのようである。太くて、どっしりとしている。ゆるぎないものがある。

それを聞いていると、西欧的な舞台芸術の身体――オペラの声、バレエの体――がいかに不自然に規律化されたものであるかに気づかされる。あれは、いわば人間の身体にとって不得手なところをも自由自在に操作できることを前提とした人為的なものなのではあるまいか。

もちろん、ホーメイは特殊な技術ではある。習得を必要とするものではある。しかし、その訓練は、所与の身体を無理やりに拡張するというよりも、所与の身体にとってもっとも自然な、もっとも歌いやすい音域、もっとも動かしやすい可動域を中心にして行われるものではないかという気もする。重心がつねに低く、きわめて安定している。

2時間近くにわたるコンサートは、長かったとも言えるし、短かったとも言える。似たような曲が続いたとも言えるし、似ているようで非なる曲が贅沢に奏されていたとも言える。大いに楽しんだとも言えるし、楽しめていたのかよくわかないとも言える。それはおそらく、ここでは、別の価値観が、別の美意識が、別の時間感覚が現実化していたからなのだと思う。不思議な体験だった。

それにしても、あの音が、自然のなかで、さえぎるところがないであろう草原でどのように響くのだろうか。それを是非とも聞いてみたい。