うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。暗誦の教育的効果。

特任講師観察記断章。漢文の素読はとても意味のあることだったのではないか。読み下し文には独特のリズムがあり、定型的な表現がある。韻文とまではいわないが、散文というにはあまりにも定式化されたリズムとメロディがある。だから、暗誦するところまでやれば、言葉の音楽が身体にしみこみ、後になって意味内容が理解できたあたつきには、知のレベルだけではなく情のレベルにおいても、頭だけではなく体もが、テクストを我が物にすることができたのではないか。すくなくとも、素読は、頭で理解するよりもさきに、頭での理解が立ち上がるための舞台である身体をこしらえてくれていたのではないか。

いまやわたしたちはすでにかなりのところまで記憶を外注している。電話番号やメールアドレスを多数暗記している人は少数派だろう。情報を自分のなかに刻み込むよりも、すぐ引き出せるところにストックしておく――そのようなモードがもはやデフォルトになってしまっている。そこで暗記を復権させようというのは、時流に逆らうことでしかないだろう。

しかし、目的としてではなく、手段として、暗誦を推す意義はあるように思えてきた。覚えることでしかわからない感覚はある。頭から引き出すのではなく体が勝手に動き出す体験は、代替不可能なものだ。暗記することによって、ページの上では二次元的に――英文であれば左から右に、上から下に――しか展開されえない文字列が、3次元的なものとして、または、無次元的なものとして、立ち現れてくるのではないか。

そんなことを書きながら思い出されたのは、子どもの頃に習っていたピアノのことだ(とはいうものの、高3ぐらいまで習っていたのだけれど)。習っていた先生の独自の方針だったのか、それとも、わりとスタンダードなやり方だったのか、いまとなってはよくわからないけれど、その先生は、課題曲がだいたい弾けるようになったところで暗譜演奏を課す人だった。だから、ピアノを習っていた10年強のあいだ、一定量の情報を身体に覚え込ませる訓練をコンスタントに積んでいたことになる。今期、学生たちに身につけさせようとしているのは、そのときの体験知を自分なりにアレンジしたものなのかもしれない。

 

暗誦はもしかすると、視覚的=意識的=人工的に英語の音を作り出すことと、聴覚的=無意識的=直感的に英語の音が出せてしまうことのあいだを架橋するものではないかという気がしてきた。ただし、そのためには、「聞いて真似ろ」というだけでは不十分で、音節やアクセントというカテゴリーを可視的なかたちで書きこんだスクリプトをきちんと音にする訓練をさせたうえで、その次の課題として暗誦を導入する――しかし、暗誦することが目的とならないように、暗誦はあくまで手段であることを強調するために、ある程度ならスクリプトを見てもいいと伝えたうえでそうする――必要がある。時間と手間をかけて学生を仕込む必要がある。

対面だからこそできること、Zoomでは出来ないことをやらせてみたらどうだろうかと折に触れて思っているのだけれど、「詩を一行ずつ交代で暗誦させ、グループででスタンザを完成させる」というアクティヴィティをふと思いついた。思いついたときに後付けで気がついたけれど、これはSPACのコロスの朗誦の言語教育への応用ではあるまいか。それはさておき、実際にやらせてみたところ、聞いている方としてはひじょうに面白かった。学生の負担にしても、ひとりで全部覚えるより分量はずっと減るし、グループメンバーとのアンサンブルになるからソロの心理的プレッシャーもなくなるし、いいことづくめではないかと思ったのだけれど、学生の反応はいまひとつ。想像の埒外のことをいきなりやらされて、どう反応したらいいのか戸惑っている、そんな感じだった。焦らず数週間かけて仕込んでいこうか。

拡散し、集合するわたしたち:ヴァージニア・ウルフ、片山亜紀訳『幕間』(平凡社ライブラリー、2020)

ヴァージニア・ウルフの遺作である『幕間』はおそらくウルフの小説のなかで読み直した回数が最も多いテクストになるはずだ。大学院のゼミで読んだからその時にすでに何度か通読としたせいもあるけれど、アマチュアの野外劇として演じられるイングランドンの歴史物語と、ドメスティックな物語(夫婦の、親子の物語)が交錯し、ローカルなコミュニティの卑近な問題(屎尿ため)と世界史的な趨勢(第2次大戦の暗い影)が同じ俎上に載せられ、最後は人類史的な遠景が飛び出す絵本のように迫り出してきて、オープンエンドで唐突に終わる。そんなとりとめのなさが好きだったのだと思う

アイサは縫いものを置いた。覆いを掛けた大きな椅子がそこここで巨大になった。そしてジャイルズも巨大になった。そしてアイサもまた、窓を背景に巨大になった。窓は色のない空をいっぱいに映し出した。屋敷はもう避難所ではなかった。それは道が造られる前の、家々が造られる前の夜だった。洞穴に住む未開人たちがどこかの岩場の高台から見た夜だった。

そして幕は上がった。彼らは話を始めた。(264頁)

Isa let her sewing drop. The great hooded chairs had become enormous. And Giles too. And Isa too against the window. The window was all sky without colour. The house had lost its shelter. It was night before roads were made, or houses. It was the night that dwellers in caves had watched from some high place among rocks.

Then the curtain rose. They spoke.

 

10数年ぶりに新訳で読み直してみて、記憶していた以上にとりとめもない小説だという印象が深まったのは、その前に『波』の新訳を読んでいたせいかもしれない。

読んだ回数こそ『幕間』に劣るものの、もっとも精読したウルフの小説は『灯台へ』になると思う。映像的なしりとりのように断片的な短い章がつながっていく――章の最後のほうに出てきたキャラクターが次の断片における焦点人物となる――かたちでつねに横滑りするように物語が進んでいく『灯台へ』がひとつのテクストとして統合されているのは、地の文がキャラクターの内面の声を濃密な文体のなかに絡め取っていくからだろう。拡散しそうになる物語や情景を、文体が引き留めていた。

『波』はおそらくそうした文体による統合をあえて放棄した実験的な作品だった。

それらを経由した『幕間』は、『灯台へ』のような映像的しりとりでシーンとシーンがつながれていくけれど、そこには、文体による強制的な統合が働いていないように感じる。野外劇のスクリプトがそのまま混入してくる『幕間』は、フローベールの『ボヴァリー夫人』のかの有名なシーン――野外での農業品評会と屋内での情事が同時並行的に、遠近法的にテクストに取り込まれる――に似ているような気がするけれど、フローベールの文体に比べると、物語世界の音を我が物として取り込んでしまおうという独占欲がウルフの地の文には希薄であるようにも思う。ここでウルフは、物語世界の声や音を、内面の声や歴史の響きを、いわば未加工のままに、生のままに、自律する異物として自らのテクストのなかに同居させようと目論んでいるように思う。調和的な不協和音、または、不協和音的な調和。「ガラクタ、屑、断片——われわれはそんなものからできているのだろうか? [Scraps, orts and fragments, are we, also, that?]」(229頁)

 

そのような集合と離散は、野外劇を創作したミス・ラトロープが試みたことでもある。

蓄音機は有無を言わせない断定的な調子で、勝ち誇ったように告別の辞を告げていた。集いしわれら、散り散りに。それでも――と蓄音機は言い募った――あのハーモニーが創りしすべてを忘れずにいよう。(237頁)

The gramophone was affirming in tones there was no denying, triumphant yet valedictory: Dispersed are we; who have come together. But, the gramophone asserted, let us retain whatever made that harmony.

ウルフの小説はどれも、芸術家小説的なところがある。ウルフの投影とみなしたくなるような芸術家がひとりはいる(しかし、興味深いことに、小説家ではなく、画家だったり劇作家だったりする)。それから、これまたウルフの投影とみなしたくなるような、もう若くはない夫人がいる。敵対的とは言わないけれど、愛情たっぷりというわけではない夫がいる。そして夫人の庇護対象となる若者たち。

『幕間』も基本的にそのような物語類型にのっとっているけれど、ほかの小説と同じように、最終的に物語の重心となるのは夫婦の物語であり、芸術の問題も、歴史の問題も、大きな物語はみな、キャラクターたちのつつましい生活空間やプライベートな心理世界のなかに折り込まれていく。

しかし、それがどこかでふと自然に開かれる。生命の大きな流れにチャネリングされる。それはよろこばしいだけの瞬間ではないけれど、そこになにか突き抜けたほの暗さがある。そのウェットな明るさは、笑いをさそうようなコミカルではないけれど、涙を浮かべたほほえみのようなユーモアがあり、知的な感情がきらめいている。

 

片山亜紀の翻訳は、一言で言うと、訳しすぎだと思う。本文中に割注が多いのは、学術的にはひじょうにありがたいけれど、小説として読むにはわずらわしい。また、ウルフが凝縮的に、散文詩のように、謎めいたニュアンスで書いているところを、あまりもわかりやすくしてしまっている気がする。それはもちろん、読者を思ってのことで、悪気はないどころか、善意の介入なのだろうけれど、そのせいでオリジナルの文体的な濃度が薄まり、原文以上に拡散的な物語として提示されているきらいはあると思う。

とはいえ、これをどう訳せば日本語の小説として成立するのかとなると、そこは皆目わからない。それぐらいこの小説はさまざまな引用の織物で出来ている部分があるし、野外劇自体がイングランドの歴史劇であり、なにかしらの注釈的介入が必要であるのはまちがいないからだ。しかし、片山のやり方が成功しているかというと、個人的にはやや否定的である。

 

「しかし兄と妹にとって、血を分けた体は障壁というよりも靄みたいなものだった。いかなるものも――どんな喧嘩も、どんな事実も、どんな真実も――兄妹仲を揺るがすことはなかった。妹に見えるものが兄には見えず、兄には見えるものが妹には見えず、そうやって永遠に繰り返していくだけのことだった。[But, brother and sister, flesh and blood was not a barrier, but a mist. Nothing changed their affection; no argument; no fact; no truth. What she saw he didn’t; what he saw she didn’t—and so on, ad infinitum.]」(34頁)

 

「一人がパンを切り、もう一人がハムを切る。こういう共同作業には安らぎが、絆を強めてくれるものがあった。[One cut the bread; the other the ham. It was soothing, it was consolidating, this handwork together.]」(44頁)

 

「哀れな人――確信のあることを口にするのも怖いなんて . . . [A poor specimen he was; afraid to stick up for his own beliefs . . . ]」(63頁)

 

「だれも訪れたことのない大地の、いかなる闇の洞穴へとゆくのでしょう? 風に揺れる森へとゆくのでしょうか? あるいは星から星へと飛び移り、月の迷路で踊るのでしょうか? あるいは…… [To what dark antre of the unvisited earth, or wind-brushed forest, shall we go now? Or spin from star to star and dance in the maze of the moon? Or. . . .]」(64頁)

 

「ぼくたちの役目は . . . 観客になること。でも、これもとても大事な役目だからね [Our part . . . is to be the audience. And a very important part too.]」(73頁)

 

「みんなの心も体も近すぎるくらい近いのに、充分な近さではなかった。一人で気ままにものを感じたり考えたりできないと、一人ひとりが別々に考えながら、でも居眠りすることもできなかった。近すぎるくらい近いのに、充分に近くない。近すぎるのに、充分な近さじゃない。だからみんなソワソワしていたのだった。[Their minds and bodies were too close, yet not close enough. We aren’t free, each one of them felt separately to feel or think separately, nor yet to fall asleep. We’re too close; but not close enough. So they fidgeted.]」(81頁)

 

「話の筋って重要だろうか? 彼女は体を動かして右肩越しにうしろを見た。筋なんて感情を生むためだけのもの。感情には二つしかない――愛と憎しみの二つしか。筋を無理してわかろうとしなくていい . . . 筋なんて気にしなくていい、筋なんて何でもない。[Did the plot matter? She shifted and looked over her right shoulder. The plot was only there to beget emotion. There were only two emotions: love; and hate. There was no need to puzzle out the plot . . . Don’t bother about the plot: the plot’s nothing.]」(112頁)

 

「茂みの上からは彷徨う声がいくつも漂ってきた――肉体を持たない声、象徴性をまとった声だと、彼女には思えた。聞くともなしに聞いていると、何も見えないながら、茂みの向こうで見えない糸が肉体を持たない声と声をつないでいるのが感じられた。[Over the tops of the bushes came stray voices, voices without bodies, symbolical voices they seemed to her, half hearing, seeing nothing, but still, over the bushes, feeling invisible threads connecting the bodiless voices.]」(185頁)

 

「ああ、でもわたしはここで一本、あちらで一本と、糸をただちょいちょいとつまんでいるわけじゃない。幾多の彷徨う体、幾多の漂う声を大鍋に煮立て、その不定形の塊から世界を再現させるのがわたし。[Ah, but she was not merely a twitcher of individual strings; she was one who seethes wandering bodies and floating voices in a cauldron, and makes rise up from its amorphous mass a recreated world.]」(187‐88頁)


「観客なんて悪魔だ。観客抜きで芝居が書けたらいいのに――これぞ芝居というものを。でもここでいま、わたしは観客を前にしている。[Audiences were the devil. O to write a play without an audience—the play. But here she was fronting her audience.]」(218頁)

 

溶け合う身体、振動する共感:ヴァージニア・ウルフ、森山恵訳『波』(早川書房、2021)

不可能な願望に浸りたいのだ。歩いているおれは、不可思議な共感の振動、振幅でふるえてはいないだろうか。( 127-28頁)

「人生とは、分かち合えないものがあるといかに色褪せるものか . . . 」(304頁)

 

『波』はウルフがたどりついた極北だ。散文詩で書かれた小説。ここでは字の文が消滅し、波をめぐる情景描写と、6人の登場人物の独白的対話が、ゆるやかに交差していく。夜明けから日暮れまで、自然の一日の時間の経過が、人間の一生と重ね合わされる。自然描写で始まる『波』は、自然描写で終わるだろう。まるで人間の一生は、自然の一日に包み込まれているかのように。人間の生存など、自然のうねりに比べたら、とるにたらない出来事であるかのように。

しかし、そんなことはない。意識の流れを援用しながらも、直接話法で書かれる6人の言葉は、音としてつぶやかれることのない内面の独白のようでありながら、自分自身に語りかける自分にしか聞こえない自己対話のようでもある。音にならない声のつぶやきは、ページが進むにつれて、ますます響き合っていく。誰かが誰かと直接的に言葉を交わすわけではないし、誰かの言葉に誰かが応答するというわけでもないにもかかわらず、彼女ら彼らの言葉はカノンのように追いかけ合い、対位法のように絡み合っていく。まるでテレパシーで互いにつながっているかのように。

大英帝国の縮図ともいえる小説でもある。オーストラリア帰りの少年は自らの訛を恥じ、ビジネスマンとして順風満帆な人生を歩みながら、どこか充ち足りない思いをかかえている。父のいない家庭に育った夢見がちな少女は芸術家のような存在になるが、成功しているとはいえない。紳士階級の男子にしても、淑女階級の女子にしても、表面上の順風満帆さと、内面の充実が釣り合っているわけではない。3人の男と3人の女は、男と女からなる3つのペアに分かれていくが、ヴィクトリア朝時代の小説の常套手段であった結婚プロットからは逸れていく。

6人が絶えず思い出すのは、インドで若くして亡くなった友のことだ。語られる対象でしかない友、けっして自身の声をもたない彼は、にもかかわらず、6人の意識が唯一集中する結節点である。けれども、彼が本当はどのような人物だったのか、6人のレンズをとおさない彼はどのような人間だったのかを、わたしたちは決して知ることはない。『波』の中心には、過剰に語られる欠如がある。

 

『波』を日本語で読み直すのはかれこれ20年ぶりになるだろうか。はじめて読んだのは青っぽい装幀のみすずの全集だったが、正直、よくわからない思った。20代後半ぐらいに、英語で通読したけれど、『灯台へ』や『幕間』と比べると、あまり感銘を受けなかったことだけをうっすらと覚えている。

今回、森山恵による新訳は、ある程度スピードを上げて読んだ。というのも、この小説はゆっくり読みすぎると内容が頭から抜けてしまいそうだから。

森山訳は、かなり見事なものだと思う。ストレスなく読ませてくれる翻訳。脚注はすべて後ろにまとめており(しかもそこまで多くはない)、本文の流れを中断しないやり方になっている。学術的な研究版としてではなく、小難しい理屈を必要としない独立した小説として読める翻訳を目指したからなのだろう。日本語でこの難解な小説を読み切らせる、かつ、説明しすぎることなくこのモダニズム小説の凄さと面白さを伝える、その2つの目的を、この翻訳は奇跡的に達成している。

 

しかし、翻訳が優れていたから逆説的に見えてきたことかもしれないけれど、『波』には『灯台へ』や『幕間』のような小説にある魅力がない。地の文とキャラクターの内面の融合がないのだ。

字の文を意図的に排除するという『波』の実験性は素晴らしいと思うし、地の文を持たないテクストを物語と崩壊させることなくキープし続けるウルフの文体の強度は見事なものだと思う。ウルフ本人は『波』を「詩劇」と呼んでいたそうだが、まさにこの作品は、独白の集積なのだ。劇的独白というよりは、意識の流れと通常の独白をミックスしたようなものと言うべきものだが、つまるところ、キャラクターたちの声が字の文をともなうことなく裸で投げ出されており、テクストの重層性に欠けるところがある。

6人の独白は深いところで共鳴するし、独白の連続であるにもかかわらず、それがゆるやかに連結された大河のようなものをかたちづくってはいる。『波』で極限まで推し進められている、意図的に曖昧な繋ぎ方——物語を隠喩的にまとめあげるやり方——は、ポスト・フローベール的な自由間接話法よりもはるかに技術的卓越性を必要とする書き方ではある。

最後のバーナードの語りは、もはや彼ひとりの声ではない。6人の混声であるばかりか、それ以上の人々の声の合唱なのだ。その意味では、『波』はまちがいなく多声的ではある。しかし、この多声性は、その絡まり合いや響き合いは、こう言ってよければ、混成的な単層である。自由間接話法が作り上げる重層的な密度——角度によって、単層にも見えれば、複層にも見える――とはまったく別物である。

 

『波』は反‐方法論的であり、方法論化を拒むものであり、方法論化できないものである。『波』のやり方を一部で取り込んだ自由間接話法的小説は書けるとしても、逆はありえないような気がする。

自由間接話法と意識の流れを不可分なところまで混ぜ合わせた、つねに複数の声が同時に響く(それでいて、地の文が最終的な統御をつかさどってもいる)『ダロウェイ夫人』と『灯台へ』のあと、ウルフは、意識の流れを直接話法に落とし込んだ、ひとつの声がべつの声と響き合う(それはつまり、重唱を制御する指揮者としての語り手=書き手の権威が意図的に放棄されている)『波』を書いた。

そして、彼女の遺作となった『幕間』は、おそらく、『波』という脱中心の美学を経由することでしかたどりつけなかった、ポスト・フローベール的な自由間接話法路線への復帰であったようにも思う。劇のテクストが小説と交錯する『幕間』は、統御しようとする字の文と、そこから逃れようとする劇中のセリフとが、つかず離れずのかたちで同居している。しかし、それは『波』に比べれば、やはりコントロールされた書き方ではあるような気がする。ウルフにしても、『波』ほどの実験性を二度試みることはできなかったかのように。『波』の路線は、行き止まりであり、反復不可能であるかのように。

 

森山の翻訳は見事なものではあるけれど、原文を見てしまうと、自分ならそう訳さないなと感じるところはある(英語の文の流れと、日本語の文体という両方の意味で)。けれど、日本語だけ読んでいると、そのような不満は感じないから、不思議だ。

 

「ぼくらは空想の世界を作るんだ [We make an unsubstantial territory.]」(15頁)

 

「陶製の皿も流れだし、金属のナイフも液体状のもののごとく、すべてはゆるやかな不定形へとなりゆく。[Everything became softly amorphous, as if the china of the plate flowed and the steel of the knife were liquid.]」(32頁)

 

「人生がぼくらを引き裂く。でも何らかの結びつきは築いたのだ。[Life will divide us. But we have formed certain ties.]」(65頁)

 

「私の身体は独立した人生を生きている。[My body lives a life of its own.]」(70頁)

 

「呼びかけてもだれも応えてくれないというのは、なんと虚しいだろう、なんと深夜を虚ろにするだろう。」(86頁)

 

「(リズムこそが書きものの生命だから)[(the rhythm is the main thing in writing)]」(88‐89頁)

 

「友人がぼくらを思い出してくれるとき、なんと大きな役割を果たしてくれるのだろう。とはいえ思い出され、薄められ、自分が混ぜられ、不純にされ、他人の一部にされるとは、なんと痛みが伴うのだろう。[How useful an office one’s friends perform when they recall us. Yet how painful to be recalled, to be mitigated, to have one’s self adulterated, mixed up, become part of another.]」(93頁)

 

「予測を超えて、自在に流れ出すおれの言葉の魅力と奔流は、自分をも楽しませる。言葉によって事物からヴェールを剥ぎとっていくと、いかに多くを、言い尽くせぬほどいかに多くを観察していたか、自分でも驚き呆れるのさ。[My charm and flow of language, unexpected and spontaneous as it is, delights me too. I am astonished, as I draw the veil off things with words, how much, how infinitely more than I can say, I have observed.]」(94‐95頁)

 

「おれは深いところへ、究極の深みへ行きたい。おれに与えられた特別な才能、つまり常に行動するのではなく探究する力を、時には発揮したいのだ . . . 共感の両腕で全世界を抱きしめたいというーー行動の人にはできないことだーー不可能な願望に浸りたいのだ。歩いているおれは、不可思議な共感の振動、振幅でふるえてはいないだろうか。[I wish to go under; to visit the profound depths; once in a while to exercise my prerogative not always to act, but to explore . . . to indulge impossible desires to embrace the whole world with the arms of understanding—impossible to those who act. Am I not, as I walk, trembling with strange oscillations and vibrations of sympathy, which, unmoored as I am from a private being, bid me embrace these engrossed flocks . . .]」(127-28頁)

 

「でもわたしの想像力は身体なの。自分の身体が放つ輪を超えては、何も想像できない。[But my imagination is the bodies. I can imagine nothing beyond the circle cast by my body.]」(144頁)

 

「けれどもわたしたち身体に生きる者は、身体の想像力でものの輪郭を摑むのよ。[But we who live in the body see with the body’s imagination things in outline.]」(200頁)

 

「口をきく必要などない。ただ耳を澄ます。ぼくは素晴らしく研ぎ澄まされている。たしかにこの詩は手ごわいな . . . この詩を読むには、数限りない目が要るのだ . . . 懐疑的であるべきだが、しかし警戒心など投げ捨て、扉が開いたなら受け入れなければ。そして時には泣くのだ。煤、樹皮、何であれ固い付着物を、ナイフで情け容赦なく削ぎ落せ。そうして(彼らがしゃべっているうちに)、網をさらに深く深く沈め、彼が言ったこと、彼女が言ったことをそっと網に引き入れ、水面に引き上げ、詩を作るのだ。[I need not speak. But I listen. I am marvellously on the alert. Certainly, one cannot read this poem without effort. . . To read this poem one must have myriad eyes . . One must be sceptical, but throw caution to the winds and when the door opens accept absolutely. Also sometimes weep; also cut away ruthlessly with a slice of the blade soot, bark, hard accretions of all sorts. And so (while they talk) let down one’s net deeper and deeper and gently draw in and bring to the surface what he said and she said and make poetry.]」(226‐27頁)

 

「手を振るしぐさ、街角でのためらい、側溝に煙草を投げ捨てる人物――すべてが物語だ。しかしどれがほんものの物語なのか。それがわからないのだ。[Waves of hands, hesitations at street corners, someone dropping a cigarette into the gutter—all are stories. But which is the true story? That I do not know.]」(249頁)

 

「それでも心の壁が薄くなっていく瞬間がある。溶け合わぬものはない瞬間がある。」(256頁)

 

「人生とは、分かち合えないものがあるといかに色褪せるものか . . . [how life withers when there are things we cannot share.]」(304頁)

 

「「私の人生」と呼ぶものを打ち明けようとするとき、私が顧みるのは、ひとつの人生ではないのですよ。おれはひとりの人間ではない、多くの人間だ。自分が何者なのかすらまるでわからない――おれはジニーであり、スーザン、ネヴィル、ロウダあるいはルイでもある。そうでないとしたら、どうやって自分の人生を彼らから切り離せばいいのだ。[ . . . what I call “my life”, it is not one life that I look back upon; I am not one person; I am many people; I do not altogether know who I am—Jinny, Susan, Neville, Rhoda or Louis; or how to distinguish my life from theirs.]」(317頁)

 

翻訳についてもう一点。原文では波の描写部分は斜字体だけれど、この翻訳ではほかのパートと同じフォント、同じ字体になっており、字面の上で見分けがつかない。これはどういう理由によるのだろう。

 

 

 

多元性に向かう変容:大野和基『オードリー・タンが語るデジタル民主主義』(NHK出版、2022)

オードリー・タンがやっていることをひとつひとつ取り上げてみれば、それ自体は、とくには新しくはない。

民主主義的な価値観がある。透明性、普遍的参加、インクルーシブ、非暴力的な意思決定、討議的プロセス。

プログラミング的なマインドセットがある。グランドデザインではなくトライ・アンド・エラーによる漸進的進展、絶えざるアップデート絶えざる調整、競争ではなく協業。

そのふたつを組み合わせているところが現代的だとはいえるが、それにしても、ものすごく新しいというわけではない。

タンのユニークさは、徹底性にあるように思う。それはきっと、タンが、普遍性というものをとても真剣に、まったく字義どおりに受け取めているからだろう。タンにとって、Leave No One Behind(誰ひとり置き去りにしない)というSDGsの美辞麗句は、アクチュアルなアジェンダである。現実味のない「できたらいいな」という願望的スローガンではない。切実でありながら、悲壮感はなく、リラックスしたのびやかさがある「やりましょう、やらなければ」という行動指針なのである。

いかにして死票を減らす/無くすか、いかにして民意を細やかにすくい上げるか。それは、システム設計の問題だ。タンの強みは、理念とエンジニアの両面からこの問題にアプローチできる点にある。旗振り役を務めるだけではなく、デジタルなプラットフォームの構築にベタに関わることができるところにある。タンは、哲学者であると同時にプログラマーでもある。タンのなかには実務家と思想家が同居している。というよりも、両者は、タンのなかで、混然一体となっている。

しかし、そこまで開かれたマインドセットを持ちながら、タンがイメージし、かつ、体現する共同体には、明確なひとつのリミットがある。台湾、というリミットが。その意味で、タンが奉じるのは、ナショナリズムとまでは言わないが、ローカリズムではある。愛国主義、と言ってみてもいいかもしれない。国際主義的ではあるが、最初に来るのは地域的アイデンティティになる(ここには、中国にたいする台湾の立ち位置が濃密に反映されているのではないか)。タンは台湾人(しかし、単一的な台湾ではなく、他民族からなる多元国家としての台湾の市民)である。

 

タンは徹頭徹尾未来志向だが、ユートピア主義者ではない。タンが目指すのは、現時点で創造可能な最高の未来を完全に現実化することではなく、未来を強く意識しながら現在を好ましい方向に変えていくことである。世界は変わりゆくものであり、現時点の最高が未来においても最高のままであるはずはないという、謙虚で慎重な態度がある。未来のために余地を残さなければならない、そうした思いが根底にある。

だから、タンは、時間的変化を拒否する静的な秩序を念頭に置く「最適化」という考え方を退ける。

私たちが政治や教育などにデジタルツールを用いるのは、何かを「最適化」するためではありません。最適化というのは、いくつかの価値基準を選び出し、それらを組み合わせて最大化することです。いわば理想とするパーフェクトな理想があって、そこに達することがゴールであることを示唆します。(185頁)

いまの世代の理想は、次の世代の理想ではないかもしれない――その可能性を念頭に置いて未来を追求しなければならない。そのために、タンは、厳密さではなく、緩さを戦略的に抱擁する。未来のために働きながら、未来にたいする過保護を断念することであり、未来を信頼するのだ。

デジタル民主主義や多元的民主主義において、その価値基準はじつに多様です。市民はそれぞれ、自分なりの価値観を持っているからです。そのため私は「グッド・イナフ(good enough)」のコンセンサス(合意)を持つことを強調しています。完全ではないけれど、「そこまで合意が得られたらのなら、前に進めていい」という意味です。

しかしこの「グット・イナフ」という考え方は常に、将来の世代に対して余地を残します。まだ対話の中には含まれていないけれども、これから徐々に含まれる世代に対してです。子孫は、その時代において自分たちが重要であると考えることに対してやるべき仕事を決めていきます。ですからもし、いま何かを最適化したいというのであれば、私たちが(185)「グッド・イナフ」の先人になって、後世の人々が起こすイノベーションのために、たくさんの余地を残しましょう。DXはそのようにして一元的ではなく、多元性に向かって変容していくべきです。(186頁)

絶えず似ているところを見つける技術としての優しさ(オルガ・トカルチュク『優しい語り手』)

「優しさとは、人格を与える技術、共感する技術、つまりは、絶えず似ているところを見つける技術だからです。物語の創造とは、物に生命を与えつづけること、人間の経験と生きた状況と思い出とが表象するこの世界の、あらゆるちいさなかけらに存在を与えることです。優しさは、関係するすべてに人格を与えます。それらに声を与え、存在のための時空間を与え、彼らが表現されるようにするのです . . .

優しさは自発的で無欲です。それは感情移入の彼方へ超えゆく感情です。それはむしろ意識です。あるいは多少の憂鬱、運命の共有かもしれません。優しさは、他者を深く受け入れること、その壊れやすさや掛け替えのなさ、苦悩に傷つきやすく、時の影響を免れないことを、深く受け入れることなのです。

優しさは、わたしたちの間にある結びつきや類似点、同一性に気づかせてくれます。それは世界を命ある、生きている、結びあい、協働する、互いに頼りあうものとして示す、そういうものの見方です。

文学は自分以外の存在への、まさに優しさの上に建てられています。それは小説の基本になる心理的カニズムです。この奇跡的なツール、人間のコミュニケーションの最も洗練された方法のおかげで、わたしたちの経験は、時間を超えて旅をして、まだ生まれてもいない人にもめぐりあいます。わたしたち自身やわたしたちの世界について、わたしたちが書いたことや語ったことに、やがて生まれる彼らもいつかはたどり着くでしょう。」(オルガ・トカルチュク『優しい語り手』41‐43頁)

 

優しさの原語はczułyで、ポーランド語で、「細やかさや繊細さ、感受性の豊かさをあらわすとともに、人としての誠実な在り方を示唆している」(105頁)とのこと。Wikitionaryによれば、1. affectionate/ 2. tender, sensitive/ 3. sensitiveとなっている。これはノーベル賞受賞講演のタイトルだが、英訳はThe Tender Narratorのようだ。

特任講師観察記断章。暗誦の思わぬ効用。

特任講師観察記断章。暗誦を課題として与えたことはない。無理やり暗記させても、思い出しながら言うので精一杯になってしまって、ほかにケアすべきことがなおざりになってしまいそうな気がするからだ。しかし、今日、音読試験をしたあと、試験範囲になっていた一文――Social psychology is the study of the way people think, feel, and behave in social situations――をその場で制限時間3分で暗記し、立って暗誦するという追加課題をやらせてみたところ、予想以上の、というよりも、まったく予期外の、すばらしい結果が得られた。構文の空間的な把握、イントネーションの自発的な表出、身体と音声の自然なシンクロ――視覚情報がシャットアウトされたおかげで、見えているものを音にするという変換作業が、頭のなかにしかないものを表出させるという創作行為に化けたからだろうか。

しかし、偶然うまくいったわけではないはずだ。このクラスはとにかく英語ができない集団なのだけれど、諦めモードにはなっておらず、モチベーションは悪くない。「基礎の基礎からやるから、ひとまずこちらを信頼してやってみて欲しい」と説得してみたところ、わりと言うことを素直に聞いてくれる。

そういうわけで、これまで、構文を丁寧に分析する、音節のカウントとアクセントを徹底して音読する、英語の歌を使って英語のノリを直感的に把握する、を基本方針としてやってきた。ジョニ・ミッチェルのBoth Sides Nowを3週にわたってじっくりやり、ここ2週はビートルズのHelp!をやってきた。そのような下準備が、今日、うまく開花したのかもしれない。

というわけで、教えている側としては、ひじょうによろこばしい日だった。やらせる前は、「クラスの6割ぐらいがそこそこできたらまずまずか」ぐらいに思っていたというのに、やらせてみたところ、クラスの9割以上が出来ていたのである。

けれども、学生たちの実感としては、そこまで確かな手ごたえがあったわけではなかったのかもしれない。授業後にちょっと聞いてみたところ、首をかしげるような素振りが返ってきた。

視覚優先でやると、批判性は高まるし、自意識的になる。聴覚優先でやると、身体と音声のシンクロ度は大いに向上するが、無意識的なところが高まり、やっている側の実感につながりにくいのかもしれない。両者のモードをうまくミックスしながらやっていくしかない。

できる学生を伸ばすのは、ある意味、楽だ。良質の課題を与えて放っておけば、勝手に伸びる。しかし、できないけれどもやる気がないわけではない学生を育てるのは、そうはいかない。手間をかけて手ほどきし、うまく手助けしなければならない。しかし、だからこそ、そのような学生を育てるのは、スリリングで面白い。アナキスト教育者としては、意欲は高いのに能力は残念な状態にとどまっている学び手をケアするのが、正しい道であるような感じもする。

ところで、それらの中間にただよう層――能力はあってもモチベーションが低い、能力もモチベーションも低い――は、いかんともしがたいというのが、正直なところ。

特任講師観察記断章。不感症的な(と言いたくなる)動かない身体。

特任講師観察記断章。還元的に言えば、リズムは個々の音のあいだの長短の関係(時間)、ノリは個々の音のあいだの強弱の関係(質量)、イントネーションは個々の音のあいだの高低の関係(ピッチ)。そして、英語において個々の音のコアをかたちづくるのが音節であるから、音節を無視することは、基本の基本をおろそかにすることにほかならない。というような英語観に立脚する今年度は、さまざまなクラスで音読するテクストの単語を音節に分割し、アクセントのつく音節をマークするという課題を出しているのだけれど、自分の見るかぎり、このプラクティスに納得している学生は少ないようである。

とあるクラスで3週間かけてジョニ・ミッチェルのBoth Sides Nowをカバーしたのだけれど、そのクラスのために使った教材を再利用して、べつのクラスでやってみたのだけれど、最後まで学生の反応は微温的なところを出ることがなかった。

自分としてはかなり丁寧にリードしたつもりではある。まず歌をいちど通常の歌詞カードを見ながら聞かせて、そのあとで、音節で分割したお手製の歌詞カードを見ながらもういちど通しで聞かせる。それから、1番だけ数回リピートして、音節をカウントするように少し拍子をとるように促す。

次は、二人組で、片方が打つ手拍子に合わせて、もう一方が音節数を意識しながら読んでみる。まずは1番だけ数回やってもらい、その後、また音楽を聞く。慣れてきたら、2番3番をやってもいいことにする。

拍子に音節をハメることが少しできてきたら、今度は、歌詞のなかにある弱強のリズムを説明し、どの音節が強く、強い音節がどのようなノリを作り出すのかを説明する一方で、日本語と英語のちがいを音楽的な側面から簡単に説明する(強いイントネーションをつけて日本語の文章を読んでもなかなか歌にはならないが――逆に謡いになるのでは?――英語には強い拍動や抑揚が内在しているので、アクセントやリズムを強調していくと、言葉に宿っている旋律が浮かび上がってくる)。その後、音節数だけではなく、弱強のパターンにも注意しながらペアで読ませる。

ここまではCODAで使用されたカバー・バージョンを聞かせてきたが、いちどジョニ・ミッチェルのオリジナル・バージョンも途中まで流し、インスト・バージョンを流して歌詞を思い浮かべながら聞いてもらう。

これらのプラクティスを踏まえて、音読課題にしてあったTOEICのPart 5の文章に再度立ち戻り、5センテンスほど読んでもらい、最後のしめくくりとして、もういちどBoth Sides Nowの歌詞を朗読。

40‐50分ぐらいのプログラム。教室に行くまでは、「ちょっと使ってみるかな」ぐらいの腹づもりで、どう使うかまでは詰めていなかったのだけれど、TOEICのPart 5の文章を朗読させたところ、あまりに不出来だったので、迂回が必要だなと思い、急遽上記のようなプラクティスにスイッチしてやってみたのだけれど、わたしが聞くかぎり、前の方に座っていて律儀にやっていたペアの最後の朗読は、歌詞の旋律性がうっすらと聞こえてくるようなものになっていたのだけれど、学生のほうで腑に落ちていたようには見えないまま終わった。

なんだろう、学生が曲を知らないからダメなのか。歌詞が分かりにくいからダメなのか。しかし、Both Sides Nowのキャッチ―さなら、初めて聞いても、歌詞がわからなくても、響くものがあると思うのだが。いや、長く音楽をいろいろやってきたせいで、音を数えたり拍子をとったりすることの難しさを甘く見すぎなのか。

ともあれ、ひとつまちがいなくわかってきたのは、学生たちが英語をあまりにも「口先」だけで捉えていることだ。とはいえ、大学生相手に、英語を使った体操的プラクティスというのもないだろう(というか、そういうことを日常の授業で行うのはいかにも場違いな気がする)。もしそのあたりの英語的身体感覚を小学校英語で養ってくれるというのなら、大いに歓迎だが、どうなんだろうな、そのあたりは。ともかく、そのような英語的身体も持ち合わせている大学生がやってくるのはまだまだ先のことになるだろう。

いまの多数派であるこの不感症的な(と言いたくなる)動かない身体を持つ目の前の学生たちを動かす方法をどうにかして見つけないといけない。