うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

モンポウの間:中古CD屋めぐり

中古CD屋めぐりは大学時代の日課だったけれど、留学してからはずっと遠ざかっていた。

最近また静岡の街中にあるなんということはない中古CD屋に週1ぐらいで通うようになった。

思わぬ掘り出し物がたまにある。

先日見つけたのは、モンポウピアノ曲集。50年代の録音で、90年代初頭にEMIから復刻されたもの。最初に買った人の仕業だと思うけれど、わざわざケース裏側を一度こじあけて、「27/May 1992」と刻印されたお手製のテープが貼ってある。昔だったらこのような前の持ち主の痕跡のある中古品はあえて買わなかったのだけれど、最近は、誰かに記憶されることもなく消えていくはずだったかもしれない個人史の引き継ぎなのかなという気もしている。

 

モンポウは作曲者本人によるステレオ演奏がBrilliantから出ていて、基本的にそれさえあればもう十分という感じもあるけれど、のちにモンポウと結婚することになるカルメン・ブラーボによるこの演奏は、作曲者の自作自演よりもうすこしウェットで、抒情的で、湿った空気のなかで聞くにはちょうどよい感じ。

モンポウの曲は、ポスト・ドビュッシー的な響きもさることながら、そこかしこにふと開ける間がなんとも心地よい。

 

youtu.be

特任講師観察記断章。Equalでdifferent。

特任講師観察記断章。Equalでdifferent。「民主主義は、ある意味、矛盾に立脚するシステムです。民主主義は、わたしたちに、equalでありながら、diverseでdifferentであることを求めます。権利のうえではequalでなければならない。たとえばある人は5票持っているけれど、べつの人は1票だけ、またべつの人は1票もないという不平等のなかでは、民主主義は立ち行かなくなります。しかし、その一方で、わたしたちはそれぞれ異なっている必要がある。というよりも、わたしたちの考え方や感じ方が誰かと完全に一致するということはありえないのです。もしわたしたちがまったく同じであるとしたら、まったく同じ意見や感性を持っているとしたら、それこそ不自然であり、全体主義にほかなりません。わたしたちは、いまあるそのままで、それぞれに異なっている。このあたりまえの事実から始めるべきであり、この事実をこそ愉しみ、讃え、誇るべきなのです。違っているから面白いのです。違っていることを貶めたり蔑んだり恥じたりしていたら、生きづらくないですか。生きづらい道をわざわざ選ぶのはやめにしませんか。なぜわたしがみなさんに自発的に意見を言ってもらいたいのか。それは、わたしたちのあいだにある、微細かもしれないけれど、だからこそますます重要であるさまざまな食い違いを感じること、似ているようで完全には似ていない他人の感覚や思考をなにかしらのかたちで共有すること、そのような違いをインスピレーションにして反応すること、共同で即興的に想像=創造していくことが、絶対に必要であるとわたしが思うからです。誰かを指名して何か言わせたほうが楽なのは当然です。しかしそれは恐怖政治のようなものであり、やりたくないというのが本心です。ですが、さすがにこうまで誰も何も言ってくれないとなると、不本意ながら、そうした暴挙に出ざるをえないのですが、さあ、どうしたものでしょうかね」と、長々と言い訳がましい勧誘をしてもなかなか手が上がらないと、さすがにどうすればいいのかと途方に暮れてしまうが、もしかすると、こちらのお手製の問題の難易度がただ単に高すぎて学生が本当に答えられないという可能性も捨てきれない。
Foreignの問題性。「語学的なことを言えば、foreignerもforeign cultureもOKではあります。しかし、みなさんは、foreignやforeignerをいったいどのような意味で、どのようなニュアンスで使っているのでしょうか。インクルーシヴという言葉はどこかで聞いたことがあると思うのですが、foreignというのはインクルーシヴでしょうか。foreignにある「異質な」という含意を、みなさんはどう考えているのでしょうか(ここでカミュのL'Étranger の話に飛ぼうかと思いつつ、あまりに脱線すぎるような気もしたので、それは断念した)。foreignというのは、きわめてドメスティックな感性でもあります。ひとたび国外に出れば、わたしたちこそがforeignerになるわけですが、そこで、I'm interested in foreign cultureと言うつもりでしょうか。この言葉を絶対に使うなとまでは言いません。しかし、ここにあるexclusiveな響き、we/theyといった敵味方の峻別に連なるような線引きの力学をまったく意識することなく無神経にforeign/foreignerと口にするのは、いかがなものでしょうか」と口にしながら、「このあたりのことを学部できちんと教えていないというのは、どういうことなんだろう、国際と学部に掲げるなら、このあたりの感性は基本中の基本だろ」と心の中で悪態をついてしまうのであった。
ノンジャンル。なかなかよいことを言っていると思うのだが、反応がないところまで含めて、お家芸と化してきた。このようなパフォーマンスをどうカテゴライズしようか。説教ではないし、愚痴でもない(すくなくともそういうつもりではない)。正直、このようなことを言わずにただ職務として黙々と英語を教えていればよいような気もするのだけれど、ことあるごとに、そこから脱線したい誘惑に駆られてしまう。そして、そのような脱線をこそ愉しんでいる自分に気づいてもしまう。学期末の学生評価で「関係ない話をしすぎ」みたいなコメントがないのが不思議といえば不思議だが、学生にしても、こうした話が英語学習とまったく無関係ではないということをなんとなくはわかってくれているということだろうか。

『三文オペラ』における群衆の可能性

「ピーチャム おれは気づいたんだ、この地上の金持ちどもは、貧困を生み出すことはできるくせに、貧困を直視することはできないってな . . . あいつら、腹が減ってぶっ倒れる人間を目撃して、知らんぷりをするってのは無理なんだ。だから、どうせぶっ倒れるなら、あいつらん家の目の前でぶっ倒れてやんなきゃな、もちろん。」(大岡淳訳『三文オペラ』120‐21頁)とブレヒトは「乞食の友社」のオーナーに言わせるが、現在、1)貧困を生み出した金持ちは貧困を直視する必要がなく、2)貧乏人は金持ちの家の前に近づくことすらできないのではないか。
ノブレス・オブリージュはそれよりもさらにうさんくさく、実効性にも欠けるトリクルダウンに取って代わり、ゲーテッドコミュニティが空間的にも富裕層と貧困層を切断している。
貧困がスペクタクルであり、さらに言えば、「使える」スペクタクルである点には依然として変わりはないだろう。しかし、そのようなスペクタクルが――不謹慎であることを承知でいえば、エンターテーメントとして――消費されてしまう危険性は、インターネットが社会のデフォルトになった21世紀において、はかりしれない。
「ここで逮捕できるのは、一部の若者たちだけでね、こいつらは女王陛下の戴冠式だ! ってうれしくなって、ちょっとした仮装行列でもやらかそうってノリなんだ。本当に貧乏な連中がやって来ればね、ここには一人もいないんだがね、いいか、そりゃ何千人が押し寄せるってことなんだよ。つまりね、あんたは、とてつもない数の貧乏人が存在するってことを、忘れてんだね」(127頁)とピーチャムが続けて言うように、スペクタクル的な表象(representation)ではない、現出=出来事(presentation)としての群衆の可能性は、たしかにある。
しかし、仮想的可能性でしかないにせよ、すでに現実のなかに確かに潜性しているものとしての圧倒的な多数としての群衆の攪乱的かつ転覆的な力は、『三文オペラ』においてはっきりと分節されることはないし、そもそも演劇的に表現しがたいものなのかもしれないし、ソーシャルディスタンシングと反濃厚接触を必要条件として内在化しなければならないのかもしれないポストコロナ時代においては、ますます不可能事になっていくのだろうか。
 と書いた後で、パトリス・シェロー演出の『神々の黄昏』の幕切れは匿名の群衆の潜勢力の表象ではないかということに思い至った。

戦略的ハッピーエンドの演出的なアンハッピーエンド:ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ演出『野外劇 三文オペラ』

20210425@駿府城公園 東御門前広場 特設会場
ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ演出『野外劇 三文オペラ
4月末の18時は夜というにはまだ明るい。かといって昼の光が残っているわけでもない。中途半端な狭間の時間、ただっぴろい灰色の広場の中央奥に、黄色のショベルカーが異様に鎮座している。これから2時間のあいだ束の間の舞台となるはずの広場を現実世界の歩道から隔てるのは、黄色と黒のツートンカラーのロープがはりわたされた杭だけだ。ぼろきれのような色のあせた長いコートをまとった人々が、生気なく、ひとりまたひとりと、ロープの向こうやってきは、寒そうに地べたに横たわっていく。そして、本来ならソロで歌われるはずの「刃(ヤッパ)のマッキーのモリタート」の合唱とともに、ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ演出『野外劇 三文オペラ』が始まる。
観客はすでに微妙な境界に置かれている。俳優たちはまるで現実のホームレスのようなたたずまいで登場する。コートを脱ぎ捨てた役者たちは、色とりどりの衣装で自らがかりそめの存在であることを主張するものの、そのけばけばしさは、田舎の成人式やキャバクラの気合の入った悪趣味さを思わせる。箱乗りで車を乗り回したり、軽トラの荷台に乗って去っていくマックヒースの部下たちはハレの日のやんちゃぶりを、スクーターにまたがるピーチャムやママチャリをこぐピーチャム夫人は卑近な生活感を彷彿とさせる。しかし、ところどころでさしはさまれるソングやダンスが、舞台特有の不自然さを思い出させる。歌が始まると、上手にそびえる大きなスクリーンには、意図的にチープでポップな映像が再生される。すべてが虚構であることは繰り返し告げられる。にもかかわらず、観客は、これがたんなる嘘であるとは言い切れない。目の前で生起していることを現実から切り離して安全な距離を取り、作り物として快適に無頓着に愉しむことができない。奇妙な居心地の悪さが続く。
1928年に初演されたブレヒトとワイルの『三文オペラ』は、18世紀初頭の『乞食オペラ』の本歌取りのようなものだが、21世紀が5分の1過ぎたいまなおアクチュアルである。スペクタクルとしての乞食ビジネス、悪辣ながらどこかゲームめいた犯罪稼業が劇的素材として扱われているが、それらは、社会のアンダーグラウンドの深淵を引きずり出すためではなく、社会に遍在しながら表面化しない闇を照らし出すために、わたしたちのすぐそばにありながら、だれもあえて見つめようとはしないもの、良からぬことであることは知りつつ、悪と名づけるべきものであることは理解しつつ、わたしたちがあえて事を荒立てようとはしないものを抉り出すために、利用される。
「乞食の友社」のオーナーのピーチャムにしても、半グレ的な若者犯罪集団を率いるマックヒースにしても、絶対的な大物の悪役ではなく、犯罪者のなかの中流階級とでも言うべき、ちんけな小物である。だから、彼らの物語は、ピーチャムの一人娘であるポリーの結婚と、それに付随して起こる財産や経営の主導権争いといった、きわめてブルジョワ的なテーマを軸に展開していくことになる。そこで用いられるのは、暗殺のような直接的に暴力的な手段ではなく、密告と脅迫という間接的な言葉の暴力、しかし、ストレートではないからこそ、肉体的な暴力よりもよほど陰険で陰湿でもある策略である。『三文オペラ』では、ヴェリズモ・オペラでお馴染みの刃傷沙汰や流血沙汰は場違いである。
それはソーシャルディスタンシングと濃厚接触禁止を強いられる現在、僥倖と呼ぶべきことかもしれない。喧嘩のようなものが舞台で演じられないわけではないが、肉体的接触は舞台下手の音楽隊の効果音によって代替される。殴ったり蹴ったりするフリにかぶせられた打撃音が暴力の表象となり、『三文オペラ』にもとから仕組まれていた白々しさをことさらに強調していく。
コルセッティによる演出の巧みさはソングのさいのスクリーンの活用にあった。千田是也が言っていたのか岩淵達治が言っていたのかは忘れてしまったが、ブレヒト劇における歌は、内面告白のためには使われない。歌は劇を説明しない。むしろ、歌は物語の時間をストップさせ、宙吊りにされた時間のなかで、劇的世界の別の側面をクローズアップする。コルセッティのスクリーンは、耳なじみのよいメロディーにのせて歌われるがゆえに、ややもすると聞き逃してしまいそうになる歌詞の意味内容を効果的に可視化することで、『三文オペラ』の背後にうごめく多様な暴力のかたちをわたしたちに突きつける。
マックヒースが娼婦宿で歌うヒモ時代の回想歌では、DVの記録写真にほかならないアザだらけの3人の女の顔が大写しになる。そのような顔の傷がメイクによる特殊効果にすぎないことを、観客は知っている。にもかかわらず、そのように作られた虚構の暴力の痕跡は、観客をたじろがせずにはおかない。なぜなら、そのような暴力がわたしたちの隣人であることを、わたしたちの多くが、日常のなかでは見て見ぬふりをしているからだろう。現実の闇は身近にあるということを、コルセッティは、加工された作り物のイマージュを用いて、わたしたちに迫る。しかし、あくまで、非強制的に(というのも、スクリーンから目を背けることを観客は選ぶことができるから)。
時間の制約あってのことか、演出家はオリジナルから女同士の争いのプロットをカットしていた。本当ならマックヒースの正妻の座をめぐってポリーとルーシー(と娼婦のジェニー)が鞘当てを繰り返すが、ここではルーシーは存在すら抹消され、ジェニーは3人の娼婦に分割されていた。その結果、『野外劇 三文オペラ』では、男たちの対立が前景化される。一方に、同情や共感という倫理を内面化するかどうか――マックヒースとピーチャムにとって、他者への配慮は操作可能な手段でしかないが、マックヒースの戦友にして警視総監であるブラウンにとって、心理的な負い目は払拭不可能な借りであり重荷である――があり、他方に、ポリーをめぐる物語――マックヒース対ピーチャム夫妻、それから、ほとぼりが冷めるまで雲隠れすることを決めたマックヒースから後を任されたポリーがマックヒースを喰ってしまうという展開ーーがある。仕方のないカットだったのかもしれないが、ブレヒト=ワイルにおけるジェンダー間の権力関係は簡略化されてしまっていた。しかし、その一方で、ジェニーを3人の匿名的娼婦へと複数化することで、マックヒースの暴力の問題性を増幅するとともに、彼女たちを『マクベス』の魔女たちのような超常的な存在に仕立て上げていたとも言える。
大岡淳の翻訳が、チャラさと真面目さを奇跡的なバランスで釣り合わせているからこそ、俳優たちの下ネタの演技の中途半端さが逆に目立ってしまっていた部分はある。とくに冒頭の婚礼シーンは、いまひとつ場が暖まっていないかったせいか、上滑りしていたきらいがある(下ネタをそれなりの格式を保って演じることの難しさが浮き彫りになっていた)。その一方で、ソングのほうは、コルセッティの映像演出の助けもあって、大岡の歌える翻訳の見事さが素直に響いてきた。
とはいえ、本職の歌手ではない俳優たちの歌には出来不出来があった。ポリー(森山冬子)の「海賊ジェニーの歌」は黙示録的な背筋を凍らせる怖ろしさを表出しきっていたし、ピーチャム夫人(葛たか喜代)は、歌としては達者ではなかったかもしれないし、甲高い金切り声を耳ざわりと捉える向きもあるかもしれないが、性格描写としてはきわめて秀逸だった。酒場のジェニー(榊原有美、鈴木真理子、篠原和美)は、歌として満足のいくものだった。しかし、その一方で、男性陣の歌は、可もなく不可もなくという感じで、マックヒース(後藤英樹)にしてもピーチャム(廣川三憲)にしても、過不足ないものではあったものの、特筆すべき点がかったように思う。そのなかでは、ブラウン(柳内佑介)が飛び抜けて安定した歌いっぷりではあった。
歌がいまひとつ響いてこなかったのは、野外の舞台が広すぎたせいもあるかもしれない。稽古はすべてZoom経由のことで、SPAC芸術総監督の宮城聰が列席していたとはいえ、会場の空間の広がりというきわめて感覚的な部分については、埋められないズレが残ってしまったのだと思う。しかし、それよりもズレていたように感じたのは、別のところだ。
三文オペラ』の演出上の一大問題は、ラストの意図的に不自然なハッピーエンドである。マックヒースは絞首刑になる。ここで活躍するためにショベルカーが舞台装置として置かれていたわけである。牢屋に入れられていたマックヒースは最後に捨て台詞的な演説をぶち上げる。ちんけな泥棒稼業よりも銀行業のほうがよほど大罪でしょうよ、と。しかしそのニヒルな訴えも虚しく処刑は執行されるのだが、それが、ひっくり返される。そのほうが初演当時の観客であるブルジョワ好みだから、という理由で。ここには壮大な皮肉が仕組まれている。白々しい茶番こそ、ブレヒト=ワイルが意図したものだろう。必要以上に仰々しい荘厳な音楽がこのシーンに割り当てられているのだから。しかし演出家はこの箇所をあえてシリアスに、シリアスすぎるほどに表象してしまっていたように思う。
最後のナンバーを合唱しながら、俳優たちは、息絶えるように地面に横たわっていく。照明が役者たちを照らし、消えていく。スペクタクルの始まりが微妙にかたちを変えて再起する。冒頭ではみなが同じようなホームレスめいたコートに身を隠していたが、結部では、それぞれの衣装のまま横たわる。「不正を追及するな」という痛烈な軽口ではなく、「嘆きが響いているよ」という痛切な言葉が、暗くなる照明とともに、舞台を沈ませていく。
それはたしかにひとつの見識ではあった。このシーンに先立つ馬上の使者の下り――アンハッピーエンドに終わったはずの劇をハッピーエンドに変える力業の導入――では、昭和の特撮アニメ的な、ゲームボーイスーパーファミコン的な趣あるチープなCG効果を巧みに利用していた。スクリーンには駆ける馬の動画が映し出され、その前に置かれた梯子にまたがって身体を前後に揺するというのは、単純でありながら、きわめて効果的ではあった。しかし、そうした軽やかな小技が、「嘆き」に絡めとられてしまった結果、コルセッティの『三文オペラ』は、良くも悪くも、良心的左翼のイマージュに吸収されてしまっていたようにも思う。
現実ではこのようなことは絶えて起こらない。だからこそ、これを「あえて」起こさせるところに、ワイルとブレヒトの批判意識が集約されているのではないか。カーテンコールのなかオンラインで演出家が登場するというのは、たしかに、心憎い演出ではあった。しかし、コルセッティの演出のヒーローは、結局のところ、良心の呵責にさいなまれるブラウンではなかっただろうか。同情や共感を倫理ではなく戦略に還元するピーチャムやマックヒースこそが、『三文オペラ』の問題性であり、ポストモダンニヒリズムではなかっただろうか。そのあたりがどうにも惜しい舞台であった。

ウィズコロナ様式の可能性と野外劇:宮城聰演出、唐十郎『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』

20210429@舞台芸術公園「有度」
宮城聰演出、唐十郎『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ
舞台のうえには傘屋の仕事場とおぼしきものがポツンと立っている。色とりどりの傘が並んでいる。開いたものが手前に、閉じたものが下手側の天井からぶら下がっている。上手側の一段高くなったところにある机には傘職人のおちょこがいる。開いた傘の後ろで居候らしき檜垣が寝転んでいる。野外劇場である有度の舞台裏にそびえる大きな木のせいで、昭和の匂いをただよわせる舞台装置はやけに小さく、いかにも作り物めいて見えるが、作り物でしかない歴史的時間と、それにシンクロしない自然の風景という不釣り合いな場のなか、事実とゴシップ、虚構と妄想が混ざり合うほどに、なにかとても奇妙で異様な舞台的真実が迫り出してきたのであった。
唐の戯曲は、森進一についての実話――入院中の森の母と親しくなった女性が、森と内縁関係を結び子を生したと裁判で訴え、スキャンダルとなったものの、のちに虚言と判明したというのに、騒動の発端となってしまったことを気に病んだ森の母は自ら命を絶ってしまう――をソースとしているらしいが、森に相当する人物は舞台には登場しない。森のストーカーのような女性はカナという名を与えられ、かなりのところまで実話をなぞっているようではあるが、彼女が現実を逸脱する劇的人物に仕立て上げられていることは間違いない。森の元マネージャーという設定の檜垣がどれほど現実にもとづくものなのかはわからないし、傘職人のおちょことなると、創作にちがいないだろう。とはいえ、唐の戯曲は、現実の出来事に端を発しつつも、それに依存しているわけではないように思う。物語の核心をなすのは、カナと檜垣とおちょこのあいだで渦巻くけっして解決することのない情のドラマだからだ。
芸能人のスキャンダルという生臭いネタを素材にしている一方で、『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』には、アントナン・アルトーだとかテネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・シェイクスピだとかミゲル・ド・セルバンテスといった演劇史上のビックネームが随所で言及される。そうかと思うと、歌謡曲的なポピュラーカルチャーが劇の重要な転換を受け持つ。宮沢賢治も重要な細部を成す。ハイとローが入り混じるの唐の戯曲は、観客の知識を試しているようなところがあるが、にもかかわらず、そうした細部を知っていることを観劇の前提条件とはしていないようでもある。知はあったほうがいいが、それだけでは足りない。
かならずしも必然的なものとは言いがたいこれらのレファレンスは、舞台に現出することで、それ自体として屹立するものに変転する。狂気と正気をシリアスかつコミカルに往還する唐の戯曲は、荒唐無稽な寄せ集めになってしまってもおかしくないところだというのに、そこに圧倒的なまでの実在感と迫真性が宿ってしまうのは、舞台における言葉や演技がそもそも論理的な因果律とはべつの必然性によって――それを「情念」と呼んでみたい気に駆られる――立ち現れていくからだろう。キャラクターたちは、語るほどに、動くほどに、ますます情動的となって――しかしそれを「動物的」や「本能的」と呼ぶのはなにか的外れであるような気もする――強度と密度を増加させ、雑多でありながら純粋でもある存在に生成変化していく。
対話は急展開を見せる。トーンが一瞬のうちに変わる。話題は何気なく口にされた単語から突如として横滑りし、横滑りした先で増幅し、増幅したものが再び元の話に還流する。このアナーキックな言葉の増殖運動は、まるで物語の核心に触れることを怖れる生理的な防衛反応であるかのようだ。核心にあるもの、それは、「恋」や「愛」というありきたりの言葉では名指すことができない、圧倒的に不合理でありながらどうしようもなく絶対的な衝動、存在の中心を占めながら、全体を破滅的に(しかしそこに歓びがないわけではないかたちで)侵食していくような力だ。それは、言葉の字面通りの意味には収まりきらないもの、話の調子、体の振舞にあふれ出していくものである。俳優たちはいわば言葉を意味あるものとして発話しつつ、そこで意味されているもの以上の意味、言葉の意味とかならずしも呼応するわけではないべつの意味を上乗せていていくというアクロバティックな引き裂かれを強いられることになる。
宮城の「言動分離」スタイル(二人一役)は、アングラ演劇の場合、一人二役――ひとりの俳優が自らの言葉と身体をそれぞれ相対的に自律させる――へとゆるやかな変化を見せるが、それがさらに今回は、「ウィズコロナ様式」へと昇華されていた。それを宮城は「新古典主義様式」――あたかもラシーヌを演じるように唐十郎を演じる――と呼んでいる。一昨年に再演された『ふたりの女』でもすでに実践されていたことではあるが、対話を繰り広げる俳優たちが、正面を向いたまま、向かい合うことなく言葉を投げかけるという、二次元的で活人画的なスタイルが押し進められた結果、檜垣がカナの首を絞めるシーンでは、カナが自ら首を締め、その隣で檜垣が両手を突き出して虚空を握りしめるという情景が繰り広げられることになる。それはきわめて奇妙な絵図ではある。檜垣はカナの首を絞めていると口にするが、実際には締めてはいない。カナは檜垣の手にやさしさを感じるともらすが、彼女の首にかかっているのは自分の手である。しかし、だからこそ、ここでは精神分析的なドラマ、否認しないわけにはいかない本心の欲望と肯定しなければならない抑圧された現実との亀裂が痛々しいまでに表面化する。濃厚接触を避けるという非演劇的な要請が、唐十郎の戯曲の本質を抉り出すためのメソッドに昇華されており、『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』の狂おしい情念、かなうことのない望みのもどかしさが、具体的に体現されていた。
とはいえ、この新古典主義様式は、微妙に不徹底でもあった。ところどころで俳優が向き合ってしまっていたからである。たしかにそうしたコンタクトは演者としての必要性の結果であったのだとは思う。前方に投げつけられた言葉に間接的に反応すること、共演者の身体の存在感を隣に感じながら自らの存在感をそれに並べること、しかし、それらのエネルギーを相手に直接にぶつけることは原理的に禁じられている状況――それはあまりにも俳優の生理に反するものであったのだろう。
そのようなわずかな踏み外しはあったものの、愚かな純真さと怖ろしいしたたかさを瞬時に交代させ、生身の女であるとともに神話的な女の両方を体現していたカナ(たきいみき)、諭すような言葉とそれを裏切るような身体の情動を舞台後半のダイアログのなかで解放していった檜垣(奥野晃士)は見事な演技であった。滑稽な言葉を語りながら、身体のほうではつねに哀しみと健気さを体現していたおちょこ(泉陽二)は、ふたりにくらべるとすこし線が細く、また、狂言回し的なおちょこの役回り上、実際以上に上滑りしてしまっている部分もあったが、彼の体当たりな演技があればこそ、本劇の基調をなす現実から仮想への飛翔、リアルのすぐそばに開けている夢の空間である深淵や虚空へのダイブが、劇後半においてあれほどの存在感を持ちえたようにも思う。
2時間にわたって雨は止むことがなかった。それこそが非日常体験である野外劇の醍醐味ではある。雨という自然の圧倒的な力にたいしてわたしたちがいかに無力であるかを感じさせられたし、俳優たちの声にとっては厳しい状況であったことはまちがいないだろう。冒頭はこちらが慣れていなかったせいもあり、セリフを聞き取るのがかなり難しく、英語字幕を横目でみながらどうにか芝居の筋を追いかけるしかなかったが(後ろのほうに座っていたせいもあっただろうが、はたして観客席前方だったら声はすべて聞こえたのかどうか)、雨だからこそ、逆に舞台に集中できた部分もあったように思う。実際、どういうわけか、劇が進むほどに声が響いてきて、舞台の迫力がいつにもまして伝わってきた。
『おちょこ傘持つメリー・ポピンズ』は混沌のうちに終わりかける。森の母の死体を掘り起こすことを画策していたらしいカナを連行する係として登場した保健所職員たちは、京劇役者のような仮面と踊りで立ち回りを演じる、俳優たちが森の写真を仮面のように顔にかざすと、もはやこれが現実のシーンなのか、誰かの空想が上映されているのか、わからなくなってくる。森のスキャンダルの終わりとなるのは、銃で撃たれて息絶える檜垣である。狂乱のなか、カナは檻に入れられ、犬のように引かれていく。
舞台は暗転し、すっかり暗くなった野外舞台のうえで、傘屋の仕事場のセットがゆっくりと回転を始める。銀色の壁や屋根が、照明に照らし出され、妖しく光る。雨が光を乱反射させ、金色に輝きだす。それは先ほどの混沌を癒すかのような静謐さである。
セットがふたたび正面を向くと、そこにはおちょこがひとりたたずんでいる。畳のうえに広げられているのは、檜垣のジャケットだ。彼の死を悼むかのように、檜垣がカナから贈られながらあえて吸うことがなかったハイライトに火をつけ、それを供えるように、そこにはもういない檜垣の口にもっていく。おちょこが檜垣のジャケットを右手にかかえ、まるで彼がまだそこにいるかのように、ふたり分のからだを、カナのために修理した傘で浮かびあがらせようとする。おちょこは「飛んだ」と言う。もちろん彼らは飛んでなどいない。しかし、同じ女に惹かれた者同士の連帯というにはあまりにも甘美な、ホモソーシャルというよりはホモエロティックな抒情を発散させながらおちょこが銀色の傘をかかげ、舞台が再び暗くなっていくとき、彼らはたしかに飛んでいた。
 
 

癌としての資本主義経済(ル=グィン、ブクチン)

"All we have, we have taken from the earth; and, taking with ever-increasing speed and greed, we now return little but what is sterile or poisoned. Yet we can't stop the process. A capitalist economy, by definition, lives by growth...We have, essentially, chosen cancer as our social system." (Le Guin. Foreword to Bookchin. The Next Revolution. xi)

「わたしたちが持っているものはすべて、大地から奪ったもの。そして、奪い取る速度と貪欲さは加速と拡大の一途をたどるばかりで、わたしたちが贈り返すものはごくわずか、それも、不毛なものか、毒されたものだけ。資本主義経済は、定義上、成長を糧とする . . . わたしたちは、本質的なところで、癌をわたしたちの社会システムとして選んだのである。」(ル=グイン「ブクチン『次の革命』への序文」xi頁)

渡邊守章の知情:クローデル『繻子の靴』

2018年6月9日@静岡芸術劇場

渡邊守章が岩波の解説部分で書いていたけれど、4日目こそがクローデルの作品の前衛性であり、あそこが60年代の不条理劇やナンセンスを先取りしているのだというのはそのとおりであるし、あそこがあるから、劇がたんなる宗教劇的なもの以上の何かになっている。だから、あれはあれでいいのだと思う。

4日目がないと劇が重たすぎるだろう。幕切れのところの滑稽さのなかの解放(ロドリゲスもプルエーズも約束に縛られることで愛をかなえることができなかったし、会うことを選ぶことができなかったし、会おうとしてもすれ違ってしまったというのに、プルエーズの娘にしてロドリゲスが養育した七剣姫は、実母とも養父ともちがい、あっけらかんと愛する男のもとに出奔し、成功してしまう――ここには親世代とはまったくべつの可能性がコミカルに開かれていくし、だからこそ最後でロドリゲスが「解放された」と口にすることができたのではないか)は、劇全体を締めくくるうえで圧倒的なカタルシスをもたらしてくれている。

 

個人的に剣幸の演技は買わない。彼女が圧倒的にうまいのはわかる。抜群の安定度であるし、とても巧みだとは思う。しかし、クローデルのこの劇においては、演技があまりに世俗的すぎるように感じた。

クローデルの演劇世界は、つねに別の世界に通じており、あらゆる感情は彼方の世界を経由することでこの世に顕現するという仕組みを持っている。

『繻子の靴』はカトリック的な劇なのかもしれないが、にもかかわらず、ここにはいちどとして「神」が現れない。登場するのは「守護天使」だけで、あとは、「月」というキリスト教的というよりはむしろ神話的な装置だ。

しかし、ここに神そのものが登場しないとしても、愛や約束という概念は、超越的な神という存在を想定しないことには理解できないだろう。つまり、登場人物のあいだの情念や拘束は、たんに二人のあいだのことがらではなく、来世のことや彼岸のことがつねに入りこんでくるわけである。もちろん精神と肉体のような二元論もあるが、それはつねに、此岸と彼岸という別の垂直的原理と重ね合わせられており、この重層性からくる引き裂かれが、あの劇の登場人物たちにほとんど宿命的な悲劇性を付与している(そして、七剣姫にはそうした悲劇性という重みがないからこそ、軽やかなのだ)。

剣の演技を買わないのは、この世の枠内で演技をまとめすぎているように感じたからだ。彼女の演技は決して広がっていかないし、突き抜けていかない。それはもしかすると、宝塚のようなロングランのところで培った俳優としての防衛本能、プロフェッショナリズムの結晶なのかもしれない。しかし、彼女の場合、内面と外面がつねにあまりに綺麗に整合しすぎているし、そのまとめ方があまりに此岸的で、カタルシスを感じられなかった。3日目の二重の影という場だったか、守護天使が舞台3段目から一番下まで降りてきて、ついにプルエーズとほとんど語り合うところでも、剣の演技は落ち着きすぎているように感じた。完成度は高い。それは間違いない。しかし、悪く言えばひとりで完結してしまっていた。劇空間のなかに言葉や身振りが溶けていかなかった。

なんといえばいいのか、彼女の演技は輪郭がはっきりしすぎていて、役柄そのものを見ているというよりは、役柄を演じている剣幸という女優を見せられているという印象が最後まで拭いきれなかった。

  

阿部一徳の演技は、やや力み過ぎという感じがした。そして彼も剣とは別の意味で、クローデルの劇世界を体現するにはミスマッチではないかという気もした。

彼が抜群に優れた俳優であることはこのあいだ見た『マハーバーラタ』でも『オセロー』でもわかっていたし、今回見て、やはり傑出した演技者であることはわかった。しかし、内面的なものや心理的なものをあえて切断して外面的なところを磨き上げるという彼のやり方――セリフの意味と音律を意図的に切断し、音色やフレーズ感を極限まで磨き上げることで、意味的なものをいわば外側から人工的に達成するというやり方――は、クローデルと微妙にそりが合わないように感じた。

 

 個人的に非常に高く評価するのは、カミーユ役(+スペイン王役+4日目幕切れの船乗り(七剣姫の手紙を読んでいた人物))だ。彼はたしかにセリフの発音に癖がある(意図的なのかわからないが、息が抜けるというか、つねに「シュ」というような促音が残るというか)し、出来不出来のあるタイプの役者かもしれないが、上で書いたようなクローデルの劇世界の分断や矛盾を体現するやり方としては、彼のような演技が個人的にはもっともふさわしいと思ったし、実際、成功していた。

 

ロドリッグ役の俳優もとてもよかったと思う。1日目2日目あたりはいまひとつかと思ったが、3日目はとてもよかったし、4日目は圧巻の出来だった。沈み込んでいくような下方向の運動と、解き放たれていくような上方向の運動の二重性、それから、絡み合ったものがほどけていくような、解放はされていくが強度や密度はむしろ高まっていくような不思議な高揚感が、とても素晴らしかった。

  

役者の出来不出来というのはたしかにあったと思う。コミカルな役をやっていた若手俳優は、初日だったせいもあるのか、力演ではあったが力み過ぎで、上滑りしてしまっていた気がする。

 

ドニャ・ミュジークの女優はおそらくよく考えたうえであの演技なのだと思うし、そういうやり方をする理由がわからないわけではないが、個人的には好みでなかった。

 

七剣姫はところどころでセリフをとちっていたが、とてもうまくはまっていた。

 

 

渡邊守章岩波文庫の解説でいろいろと書いていたが、日本語で西洋語の韻文劇を上演することの難しさはひしひしと感じる。フランス語なら韻律があるから、セリフをただ音にするだけである種のリズムやフレーズが生まれ、そこに音楽が発生する。しかし日本語翻訳ではとてもそうはならない。韻文がもはや生理的にアピールしない現代日本語においてはなおさらそうだと思う。だから、訳者の訳し方云々よりも究極的にはパフォーマンスのやり方のほうに良し悪しが委ねられてしまうし、それはつまるところ訳者の言語感覚の繊細さや演奏能力の巧みさにかかってしまっている。

フランス語の自由韻律/韻文の日本語訳の上演は、どうしても「不自然」なものにならざるをえないし、その不自然さをどうやって不自然なまま自然なものとして提示するのか、という不可能な挑戦なのだと思う。

個人的に剣をあまり評価しないのは、彼女の場合、不自然なところがあまりに自然な感じにならされてしまっていて、すべてが「普通」に聞こえてしまうからだ。

もちろん本質的に不自然さの残っている日本語をすべて自然なセリフとして言えてしまうというのは、彼女の卓越した演技能力のなせる荒業ともいうべき超絶技巧なのだろうし、彼女のなかでプルエーズという役柄を完全に消化していることの表れでもあるのだろうけれど、すべてを地上に引きずり下ろし、ほとんど自然主義的な心理主義でやってしまっている彼女の演技は、わかりやすいけれど、劇からはズレているように思う。

不自然なところを自然に出すという点では、ロドリッグとカミーユ役の二人が非常に巧みだった。阿部の場合、不自然なものを不自然なままストレートに出しすぎだったのではないかという気がする。もちろんそれが阿倍の持ち味であるけれど、やはりこれも、劇とはズレているように感じた。

 

あまりきちんとは理解していないけれど、日本の伝統芸能と戦後演劇とアカデミズムのあいだには、何かしらの蜜月関係があったのではないか。東大の表象が体現していたように、そこでは、日本の伝統芸能(たとえば能)を世界の文脈で位置づけ(能の現代性、日本の美的感性や表象実践のモダニズム性)、それをパッケージ化して世界に売り出したり(狂言化したシェイクスピアシェイクスピア狂言化)、それを実践する人間との共同作業をやったり(たとえば野村萬斎河合祥一郎のコラボレーション)。しかし、個人的に能や狂言がよくわからないからというのもあるけれど、これがどこまではまっているのか、いまいちピンとこないし、妥当なやり方なのかまるで確信できないでいる。

たとえば口上役の野村萬斎は、それだけ取り出してみれば巧みであるし、とてもうまい。セリフの節回しにしても、体の使い方にしても、伝統を踏まえたうえでの現代性なのだろうし、見事なものだとは思う。しかし、あれが西洋近代とフィットするかというと、どうなのか。

 

クローデルの場合、このあたりの事情はかなり複雑だろう。彼自身、アジアや南北アメリカ、東欧を外交官としてめぐっているし、オリエンタルなものは、知識だけではなく実地で知ってもいた。

その意味で、クローデルにはオリエンタリズム的なものに吸収されないだけの強さがあるし、オリエンタルなものを単なる借用だとかインスピレーションだとかというようなものよりはるか上のレベルで自らのテクストにとりこんでいる。だからこそ、クローデルの上演に、彼がまちがいなく参照したであろう能の技法を再還流してみるというのは、きわめて妥当なやり方だとは思う。

しかし、だとしても、世界における(そしてここでいう世界というのは、ヨーロッパのことでしかないし、さらに言えば西ヨーロッパのことでしかない)日本のようなものを前面に押し出すようなやり口は、何かすごくズレているような気もしてならない。

 

渡邊守章の演出にたいする疑問も、微妙にある。渡邊守章はやはり、学者的演出家であって、そうあることしかできないのではないか。

彼の演出がおそろしく上質であったことは間違いないし、細部までよく考えてある。おそらく背景のひとつひとつ、小道具のひとつひとつにいたるまで、理論的に説明できるだけの膨大な厚みがあるのだろう。異常な量の岩波文庫の訳注がそれを端的に証明している。しかし、そうした学問的精緻さが、演劇的カタルシスに直結していたかというと、そんなこともなかったと思う。

わたし自身、アカデミズムにいる人間だから、このジレンマはよくわかる気はする。知識的正確さと情動的インパクトの二者択一を突きつけられたら、本能的に前者を選んでしまう。しかし、やはり芸術においては、ときに知識を裏切り、直感やビジョンに賭けてみなければいけないのではないか。

 

要するに、すべてがあまりに精巧に練り上げられすぎていて、逆に全体がのっぺりしてしまっているように思われたのだ。クライマックスを作るということ、どこかに収斂させること、どこかで解放させるということは、意図的に密と疎なところを作り出すことだと思うのだけれど、この手抜きではない抜き、意図的な薄さのようなものが、今回の上演には欠けていたと思う。

おそらくコミカルなところではもっとコミカルに、軽いところはもっとくだらない感じに、重いところはもっと重たく、というようなメリハリが必要だったのではないかという気がする。

 

その意味で、宮城聰は生粋の演劇人であり、学者ではなく演出家なのだということを、今回つくづく感じた。このあいだの『マハーバーラタ』は、ところどころで今一つなところもあったし、細部の演出の徹底という意味ではいろいろ甘かったり抜けていたりという印象がないわけでもなかったけれど、全体として見ればひどく納得させられる上演だった。

 

知がない表象は愚かではあるけれど、知が勝ってしまう表象は賢しすぎるということを、今回つくづく思い知った。そしてそれは、知を超えた何かをもたらそうとするクローデルのような演劇の場合、致命的であったように思う。