うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

SPAC『妖怪の与太郎』再演:コロナ禍時代の演劇の可能性と不可能性

20201205@YouTubeライブ配信

コロナ禍時代において演劇はもはや純演劇的であることを許されていないらしい。俳優はマスクを身に着けなければならないし、演出はソーシャル・ディスタンシングを内在化しなければならない。感染防止対策という演劇外のものを舞台に登場させる必然性を捏造しなければならない。

再演となる『妖怪の国の与太郎』は、このような疫学的要請にコミカルな回答を提示していた。マスクが妖怪のコスチュームに化ける。スプレーによるアルコール消毒が喜劇的なキャラクターの個性の表出のために用いられる。SPAC芸術総監督である宮城聰の代名詞ともいうべきムーバーとスピーカーの分業――言葉と身体の自然なつながりの意図的な分断――へのオマージュのような演出は、2019年の初演では借り物めいたところがあったが、舞台上で自然に動いたり語ったりすることがはばかられるコロナ禍時代のいま、まさに時宜を得たものであるように見えた。他人のアテレコする言葉に応えることの「不自然さ」は、強いられた不自由ではなく、選び取られた自由となり、俳優たちの身体そのものが、俳優たちが兼任する音楽隊の音が、雄弁な存在感を見せつけていた。ジャン・ランベール=ヴィルドとロレンゾ・マラゲラが演出を担当し、出演者のみならず翻訳者の平野暁人までもがドラマトゥルクとして参加した『妖怪の国の与太郎』は、コロナ禍時代の範例的な演劇作品であるように見えた。

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あくまで表層的なレベルでは、である。劇自体の「へんてこりんな」ところにうまく落とし込まれたコロナ対策は、プロットのレベルにまで織り入れられていただろうか。俳優の身体的な妙技や音楽の生理的な快感は、物語の哲学的、民俗学的な含意と、どこまで深くシンクロしていただろうか。

舞台は夏休みの縁日の夜のような情景から始まる。ライブ中継動画は、開始時間前から舞台を映しており、天井に放射状にはりわたされた紐からぶら下がる提灯の幻想的なほの暗い明るさのなか、セミの音がかすかに聞こえている。「ミーンミーン」という鳴き声に耳を傾け、ぼんやりと照らし出される舞台を眺めるうちに、視聴者は、自然とこの世とあの世のあわいに迷いこんでいく。

セミの鳴き声は郷愁を誘うための単なる効果音ではない。主人公の与太郎は、セミを飲み込んで命を落としている。腹の中で泣き続けるセミのため、与太郎はつねに空腹に苦しめられることになる。それは、与太郎の案内人である死神エルメスを苦しめる退屈とパラレルなものだろう。癒されることのない渇き、充たされることのない欲望。しかし、本質的には劇全体を貫くものであるはずのこの深遠なテーマは、散発的に回帰するモチーフにすぎず、装飾的なところにとどまっていた。

シーンの移り変わりは、プロットの必然性というより、別の妖怪を登場させるという現実的な必要性によってコントロールされているようなところがあった。その意味で象徴的だったのは、冒頭に置かれた妖怪紹介のくだりである。舞台左手に設置されたオーケストラピットで陽気でノリのいい音楽が奏でられるなか、劇に登場することになる妖怪が次から次へと登場し、軽快なナレーションにあわせて一発芸的な一芸を披露し、そして退場していく。ひとりの俳優が複数の妖怪に素早く変わり身するこのスピーディーな変転はそれ自体としてスリリングであるし、次から次へと現れるたくさんの妖怪を見るのは単純に愉しい。なめ、口裂け、足、学生服を着たへのへのもへじ、子鳴き爺、河童、のっぺらぼう、ぷるぷる、砂かけ婆、雨女、とことんとん、ぽんぽこ、あずきはかり、ろくろっくび。しかし、設定のお披露目ともいうべきこのキャラクター紹介シーンは、プロットを停滞させるし、プロットの進行に不可欠というわけではない。

ヴェルギリウスベアトリーチェに導かれるダンテのように、与太郎は、死神エルメスに案内され、助力者である犬に導かれるなかで、さまざまな妖怪たちと出会っていくのだが、その道行は、目的論的というよりは場当たり的で脱線的なものであるし、自己探求的なものでも教訓的なものでもなく、流されるがままの巻き込まれ型の冒険だ。恐怖と畏怖をかきたてる『神曲』の「地獄篇」とは違って、『妖怪の与太郎』の地獄めぐりはユーモアに充ちたものであり、笑いを誘うものですらある。妖怪たちが、人間にとっての奇妙な隣人だからだろう。怖ろしいものであると同時になれなれしいものであり、得体の知れない魅力的な存在だからだろう。パーティーをしたり相撲をしたり、妖怪同士がじゃれあう姿は、妖怪にたいする親近感をかきたてる。妖怪たちと死神のあいだで勃発する与太郎の魂ボールの取り合い合戦はひたすらコミカルで、喜劇というよりもコントになっている。

2018年の初演のさいに感じた不満――妖怪役の俳優の個性に依拠した内輪の笑い――は解消されていた。三島景太によるドラァグ・クイーン的なパフォーマンスにしても、吉植荘一郎による子なき爺にしても、貴島豪によるコミカルな演技にしても、俳優の個人的な資質に依拠しない普遍的な笑いに昇華されていた。木内琴子の達者な歌唱にしても、 宮城嶋遥加の圧倒的な身体のキレにしても、個人技として浮き上がることなく、個々のシーンの必然性に組みこまれていた。しかし、ひとつひとつ取り出してみれば、完成度の高いシーンが、どこまで劇全体に統合されていただろうか。

シーンが変わると舞台上のキャラクターたちも入れ替えとなるがゆえに、特定の妖怪たちと与太郎の関係が深まっていくことはないし、エルメスとの関係にしても、すれちがう追いかけっこのようなもので、だからこそボードレールやダンテを引用して自らの教養や文化を鼻にかけるエルメスの滑稽さが際立ち、諧謔味が生まれていたのではあるが、裏を返せば、登場人物のあいだの関係がそもそも希薄で、それが最後まで変わらないからこそ、『妖怪の与太郎』の物語はひたすら横滑りしていく。まるで場面のほうが向こうからやってきて、通り過ぎていくかのように。

統合の不在が『妖怪の与太郎』の本質を成す。なるほど、たしかに物語全体を繋ぎ合わせる主筋は前口上で述べられてはいる。なくした魂を探す旅。死んだ与太郎の魂が、紆余曲折を経て、閻魔大王のところに届けられるお話。とはいえ、これは全体をゆるやかにまとめる程度のものでしかなかった。全体の大まかな方向性が示されることで、視聴者は、安全な予定調和のなかに引き入れられ、すでに明かされてしまった劇全体の展開よりも、奇想天外な各場面の出来事のほうに惹きつけられることになっていた。

『妖怪の与太郎』の劇的魅力のほとんどはサブプロットにある。いくらでも拡大可能な劇であり、妖怪たちをさらに登場させ、与太郎の受動的冒険譚をどこまでも伸ばしていけるはずだ。たとえば『千夜一夜物語』のように。それはつまり、メインプロットによるカタルシスが圧倒的に不在であるということでもある。アテレコ役のひとりである小長谷勝彦が、与太郎の道行を助ける犬でもあると同時に、与太郎の目的地である閻魔大王をも兼役していることには、重層的な含意があるはずだが、舞台はそれを掘り下げることなく、場面の美しさと余韻によって終わらせてしまう。

暗闇のなか、ろうそくの光で、ふたりの顔だけが浮かび上がる。ふたりは舞台後方にゆっくりと後退していく。「のんきに暮らせればそれでいい」と与太郎は言う。「あたえてはうしなってなおいぶきかな」と閻魔大王は言う。何気ない日常のかけがえののなさ、そのような日常の永遠の回帰を素直に、素朴にふたりが口にする。あたりまえだった日常が失われたいま、のんきに暮らすことがもはや不可能に近くなり、失った命はけっして戻ってこないことが常態となったいま、最後のふたつのセリフを言葉どおりに受けとることはできないのではないか。しかしドラマトゥルクたちは、もしかするとコロナ禍にたいする演劇的な応答でありえたかもしれないこの幕切れを、あまりにもただ美しい情景にすることで満足してしまっていたのではないか。

悲劇的でない芸術はコロナ禍時代において不可能であると言うつもりはない。悲劇的な時代だからこそ喜劇が必要だろう。しかし、『妖怪の与太郎』のように可塑的な作品には、変化する世界に柔軟に応えていくポテンシャルが備わっているのだからこそ、単なる反実仮想的な言明でも単なる願望充足の表明でもない、しなやかにしたたかな希望を上演すべきではなかっただろうか。チンドン屋のように賑やかな音楽にのせて歌われた「あのよもこのよもこころはおなじ」「しんだあとにもあしたはあった」の合唱には、たしかにそのような希望が込められていたのかもしれないが、それにしても、エピローグという物語外部における付け足しであり、劇のダイナミクスそれ自体にまで及ぶものではなかったのが、かえすがえすも残念である。

映像として考えた場合、ムーバーとスピーカーの分断にしても、音楽隊にしても、うまく画面が捉え切れていなかった部分はある。それは撮影班の不備ではなく、この演出自体が映像による切り取りとそぐわないものであったからだ。宮城の演出にしてもそうだが、俳優が奏者でもあり、言葉の出どころと身体の居所を意図的にズラす演技は、舞台のどこかに意識を集中させるだけは不十分で、舞台全体に意識を広くゆきわたらせなければならない。しかしこの集中と拡散の両立は、観劇者ひとりひとりのリアルタイムな体験としてのみ生起するものであり、映像としてそれを再現しようとすれば、ライブ中継では絶対に不可能だろう。考えられたカメラワークではあった。過不足のないもので、不満を感じることはなかったが、映像と齟齬をきたす演出をとらえきれてはいなかった。しかし、繰り返すが、それは撮影班の落ち度ではなく、舞台の性質の問題だろう。

ライブ中継をどのように締めくくるかは難しい。実際の舞台であれば、幕が下り、拍手が起こり、俳優たちが拍手に応える。カーテンコールがクールダウンとなる。舞台挨拶をすませた俳優たちが退場し、後奏のなかスタッフロールが流れていくさまは、映画でおなじみの形式であり、違和感はない。実際の舞台であれば、パンフレットに記載された文字でしかない、そしてパンフレットをよく見なければ気づくことすらない舞台裏方の名前が、このように可視化されたのは素晴らしいことである。しかしながら、舞台が終わり拍手が起こるまでの沈黙の間、観客たちが劇の余韻から覚めかかりながらまだ覚め切ってはいない夢うつつのまどろみの時、舞台が観客のなかに呼び覚ましたものが劇場を充たしてくあの予想のおよばない一回的な時間こそ、舞台という非日常と日常の両方に属しながら、そのどちらでもない不思議な空間であるのだけれど、それはやはり、無観客の舞台のライブの映像ではどうにもならない代物であるらしい。『妖怪の与太郎』は、コロナ禍時代の舞台の可能性と不可能性の両方を、浮き彫りにさせていた。

作為なき作為:フリッツ・ライナーの音楽の正しさ

フリッツ・ライナーのような指揮者はもう出てこないのではないか。ショーマンシップの真逆をいくような、魅せない指揮だ。オーケストラ奏者を従わせる指揮だが、聴衆を酔わせる指揮ではない。そこから生まれる音楽は峻厳で、諧謔味はあっても、陽気に微笑むことはない。悲劇的でもなければ、ドラマティックといううわけでもない。ただひたすらに正しい音楽。

 

ライナーの指揮動作はミニマリスト的だ。とても長いやや太めの指揮棒を右手で握り、拍子を刻むだけだが、単純な動きのなかに多種多様なニュアンスが込められている。左手は基本的に使わない。添え物程度だ。もちろん、決め所では大きく体が動くし、左手も振り上げられる。けれども、美食家でもあったせいなのか、堂々とした樽のような身体は、いつもまっすぐにどっしりと指揮台のうえにそびえている。

眼力でオーケストラを掌握している。存在のオーラで全員をねじ伏せている。静かだからこそ怖ろしいまでの迫力がある。

しかしその指揮は決して一本調子なものではない。ライナーの音楽にはつねに不思議なタメやかぶせがある。インテンポを基調とした楷書体で、軸は決してブレることがないのだけれど、恒常的な流れを妨げない微妙なズラしがある。同郷人の後輩にして、のちにシカゴ響で長期政権を築くことになるショルティが、鋭角的なアタックによって縦線を瞬間的に揃えようとしたのとは裏腹に、ライナーの音の合わせ方には幅がある。音楽的な呼吸が音の出入りをつかさどっている。

だからライナーの音楽は、厳めしくはあるけれども、息苦しくはない。凛としてはいるけれども、のびやかさに欠けることはない。

 

ライナーほどオーケストラに恐れられた指揮者も稀だが、録音には恵まれた。というよりも、今日ライナーが記憶されているのは、RCAによるシカゴ交響楽団とのレコーディングの突出した音質の良さによるところが多分にあるのではあるまいか。

録音芸術としてのライナーの音。

それほどまでに50年代の初期ステレオ録音は超時代的である。音の分離がよく、混濁することがない。音の定位がよく、どこかの音域が不自然にブーストされているようなことがない。生の音がすぐそばで鳴っているような(しかし、コンサートホールで聞こえる音そのままでもない)録音ならではのリアルな聴取感がある。

ライナーが育てたシカゴ響というヴィルトゥオーゾ・オーケストラだからこそ、このような音として記録されているのだろうけれども、ライナーとシカゴ響とRCAはあまりに強固な三位一体なので、ライナーをRCAの録音技師の音から切り離して考えることは困難だ。

あまり数は多くないが、ライナーのライブ録音はあるし――たとえば伝説的なコヴェントガーデンとの『トリスタンとイゾルデ』や、メトロポリタン歌劇場との『フィガロ』や『ばらの騎士』、ウィーン国立歌劇場との『マイスタージンガー』――、他レーベルとの録音もある――DeccaによるVPOとのヴェルレク、Reader’s DigestによるRPOとのブラームスの4番。それらを聴けば、明確なアタック、見透しのよい響き、正確なリズムとクリーンな歌い回し、きらめくような打楽器の響きと豊かなグラデーションのある墨絵のような陰翳が、録音の魔術による捏造ではなく、ライナーという指揮者に帰属する特性であったことがすぐにわかるのではあるのだけれども、ライナーとシカゴ響の音は、たとえばPhilipsによるハイティンクとコンセルトヘボウの音のように、Deccaによるショルティウィーンフィルの音のように、Gramophoneによるカラヤンベルリンフィルの音のように、複製技術の産物であることも否定できないように思う。

 

1888年生まれのライナーは、クレンペラー(1885年生まれ)、フルトヴェングラー1886年生まれ)、エーリッヒ・クライバー(1890年生まれ)の同時代人であるけれども、録音されたレパートリーだけから見ると、その音楽的な立ち位置は測りがたい部分がある。

バルトーク1881年生まれ)の同郷人であり、リスト音楽院でバルトークコダーイに学んでいるし、亡命先のアメリカで窮乏したかつての先生に新作を委嘱し、録音も残している。スペインからロシアまで、フランスからイタリアまで、ヨーロッパ各国の主要作曲家の主要レパートリーを録音している。

しかし、バルトークを除けば、いわゆるモダニズム的な作曲家の録音はない。新ウィーン学派が発展的に継承したマーラーの録音はあるけれども、4番と『大地の歌』というチョイスは、不可解な感じがする。歌ものの伴奏という位置づけだったのだろうかという気がしてしまう。

どの録音もきわめてクオリティが高いせいで、ライナーのレパートリーを貫く美意識が見えてこない。オーソドックスで保守的であるようにも見えるし、そうでないようにも見える。

ライナーに傑出した職人的手腕があったことはまちがいない。政治力には欠けていたようだが、オーケストラビルダーとしては優秀であったし、伴奏もうまい。オペラ指揮者でもあった。ライナーはドレスデン歌劇場で指揮者を務めたあと、1920年代初頭からアメリカでのキャリアを歩み始めており、純粋な音楽的力量にもとづく採用を旨とするライナーのオーケストラでは、女性奏者の割合が他のオーケストラより目に見えて高かったという。

しかし、残されている正規録音から聞こえてくるライナーの音楽はあまりにも純音楽的だ。楽譜に語らせる系の演奏であって、恣意的な解釈を披露するものではない。

 

ライナーの音楽は、録音されて70年以上がすぎているにもかかわらず、不思議なほどに古びていない。バルトークリヒャルト・シュトラウスの録音は依然として黄金のスタンダードであるし、その確固たる地位が脅かされることはないだろう。それほどまでにライナーの音楽は正しく聞こえる。

もちろん単純な精度という意味でいえば、ライナーを凌駕する録音はいくらでもある。ライナーの音楽の精度はどこまでいってもアナログ的なものであり、デジタル的なゼロコンマの精度とは桁がちがうところがある。

ライナーの凄みはそのような単純な音の合い方にはない。おそらくシュトラウスバルトークのような音の多い複雑なスコアの音楽よりも、モーツァルトハイドンのような音の少ない単純なスコアの音楽にこそ、ライナーの美質が現れている。古楽器演奏を経た今、ライナーによる古典派の演奏が旧時代的なものに属することは否定できないが、たとえそうであるとしても、ライナーの演奏からほとばしる生命力、生き生きと弾むリズムと趣味の良い抒情性、重層的でありながら軽やかな見透しには、知識的な正しさとは別物の音楽的な正しさが呼び覚ます自然な心地よさがある。

作為なき作為。

 

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流動する複層:エサ=ペッカ・サロネンの音楽の自然の秩序

流動する複層――エサ=ペッカ・サロネンの指揮する音楽をそのような言葉で言い表してみたい欲望に駆られる。サロネンの音楽は、多声的でありながら、和声的なところに回収されない。縦のラインで輪切りにして、それを連続させるのではなく、相互に独立した横の流れを切断することなくそのまま層状に重ね合わせていく。

それぞれのパートやレイヤーが、スーラの点描画のように、他と混ざり合うことなく、自律したまま、全体を構成する。スーラと違うのは、サロネンの音楽の単位は静止した点ではなく、流動する線であるところだ。

点の集合体というよりも、流動する地層。しかも、それぞれの層に独自の生命力が備わっている。マクロなレベルで複数の音の流れがダイレクトにシンクロするけれども、中心点や上部構造がないリゾーム的な繋がり方。全体が釣り合っているけれども、重心のようなものがなく、まさに全体のバランスによって平衡状態が達成されている。

弦楽器のピチカートや管楽器や金管楽器の打ち込み、主旋律の裏の旋律が、主旋律と対等に迫ってくるけれども、そこには主旋律の座を奪ってやろうというような野心や対抗心がない。低弦は軽やかに高音と絡み合い、高音の管楽器が金管の下のほうと同調する。

どこかリゲティクラスターのように。

主と従のようなヒエラルキーがないというより、序列概念がそもそもサロネンの指揮には存在しないと言うべきだろうか。

さまざまな音型のあいだに余白がある。普段は聞こえない、聞こえづらい音が、さもあたりまえのようにふわりと浮上してくる。解像度は高いし、見透しもよいけれど、わざとらしさがない。裏の音を強調してやろうとか、隠れた構造を表面化させようという無理強い感がない。見る角度によって異なる模様が浮かび上がる織物のように、いくつかの可能性が音の表面で自然に共存している。

整理された混沌。

サロネンドビュッシーを深く敬愛する一方で、ラヴェルにたいしてはどこか距離を取っているのもよくわかる気がする。サロネンの音楽づくりにとってラヴェルはおそらく静的すぎるし、整いすぎている。理性的な正解ではなく、感性的な響きの質感のほうを選び取ることができるドビュッシーの明晰なファジーさ、澄んだ淀みこそ、サロネンの直感に連なるものだ。

ロサンゼルス・フィルハーモニアやフィルハーモニア管といった、一流以上超一流以下のオーケストラと長く付き合っているのも、似たような理由なのかもしれない。サロネンの音楽世界はなかなか異質なものであり、だからこそ、波長の問題があるのだろう。サロネンの音楽が求めているのは、個人技ではないし、超絶技巧でもない。オーケストラ全体のまとまりというわけでもない気がする。パートのウネリであり、さざ波のような微細な運動性から湧き上がる大局的な動きだ。

面白いことに、サロネンの手にかかると、縦に重なる音の響きこそというメシアンや、リズミックな縦ノリの律動こそというストラヴィンスキーすら、自律的な横の流れからなる層状音楽に聞こえてくる。

 

サロネンの指揮はどちらかというと鋭角的で、直線的なところがあるので、この流れのよさはどこか不思議な気もするけれども、サロネンの音楽の気持ちよさはカラヤンのような流線形とはまったく異なる。

サロネンの指揮姿はもっとキネティックであり、器械体操的な感じがする。だからサロネンの音楽には有無を言わせぬ物理的な快感があるのだけれど、にもかかわらず、知性的な興奮もある。おそらく、彼の抒情性が、感情的なものでもなければ感傷的なものでもないからだろう。

サロネンの感性は人間というよりは自然の秩序に通じている。

 

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ポスト・コロナ時代のオーケストラの響き:室内楽的な水平性、マスとしてのまとまりの希薄さ

プルト」という単位は過去の遺物となってしまうのだろうか。

ここで弦奏者は、2人1組で譜面をシェアするのではなく、1人ずつ独立した譜面台を使っている。ひとりで譜めくりも演奏もこなさなければならないからだろう(プルト制であれば、ひとりが弾き続けるなか、もうひとりが譜面をめくることができた)、パート自体が完全な休みとなる箇所で譜面をめくることができるように、バイオリンはかなり横長の変則的なパート譜を使っている。

音源ではいまひとつわからない部分もあるけれど、このように奏者ひとりひとりの距離を広くとる空間配置だと、その音は、室内楽とオーケストラの中間のようなものになるのではないだろうか。

パートがパートとしてまとまるには、ある程度の距離的な近しさが必要だ。互いの音を聞き合わなければならないから。

そして、密集した配置のオーケストラでは、個々の奏者とオーケストラ全体の音は、必然的に、媒介的で間接的な関係を切り結ぶことになる。その他大勢にすぎない一弦楽奏者は、パートリーダーというハブを介して全体や指揮者につながることになる。序列的な上下関係が前提にある。

しかし、ここでは、奏者ひとりひとりがいわばソリストに近いようなかたちで、同じパートの奏者とつながり、指揮者とつながっているようになニュアンスを感じる。奏者間の関係が、奏者と指揮者の関係が、はるかに水平的で個別的なものになっているような感じがする。

もちろんそれでよりよい音楽になっているのかというと、さてどうだろう。

終結部のハ長調は、まさに、マスとしてのオケの音を前提とした音楽だ。個々の音が、足し算ではなく、掛け算のようにふくれあがる音楽だ。ソーシャル・ディスタンシングと原理的に相反する音楽。

ここで指揮者のサロネンはかなり遅いテンポを採り、室内楽的な繊細さを演出している。アプローチとして成功していると思う。けれども、マスになることで倍加された音というよりも、個々の音の離散的な集合という感じに聞こえてしまう部分がどうしてもある。

ストラヴィンスキーは、第一次大戦直後の人にも物にも事欠く時代のなか、戦前の大編成とは打って変わった独特の小編成からなる中品――旅芸人の音楽家集団を想定したような、雑多な編成による室内楽的作品――を発表していくが、アンサンブルの空間的配置やその音響性は、それぞれの時代の物理的状況によって条件づけられている部分がある。

奏者たちが距離を保ってアンサンブルすることがデフォルトとなった時代では、音楽の期待の地平がラディカルに変容していくのだろうか。

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キャス・サンスティーン『ナッジで、人を動かす』(NTT出版、2020):それとなく決定的な影響を与えることの倫理性

選択の誘導は、それ自体としては、たんなる技術でしかない。ある選択を優先的に促すようなアーキテクチャを作ることは、たんなる技術以上のものではあるが、それでも、ほかの選択が原理的にブロックされたり消去されたりしておらず、依然として選択者が自由に選ぶことのできる状況にあるのであれば、それは個人の幸福や自由や自律や尊厳を侵すものではないかもしれない。

つまるところ、自由な選択と言っても、本当の意味で自由であることはまれだ。わたしたちは自分たちが生まれ育った環境、いま自分が持っている資力や体力や知力、人間関係や居住地など、さまざまな要因のなかで可能になる、実際に選択可能なもののなかから選んでいるにすぎないのだから、ある選択を優先的に促すようなアーキテクチャは、tまったく特殊なものではない。完全なる選択の自由のほうがフィクションである。

キャス・サンスティーンは『ナッジで、人を動かす』の最初のほうで、古典的ベストセラーであるデール・カーネギー『人を動かす』を引き合いに出しながら、ナッジというファジーなもの(しかしそのような名前で呼ばれるまえからずっと存在していたもの)を説明しようとしているが、つまるところ、最新の心理学や行動経済学理論武装を取っ払ってしまえば、ナッジは古くからある統治技術や人心掌握術と劇的に違うわけではないとも言える。

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操作と誘導と影響は地続きであり、完全に区別することは不可能だろう。もちろん、熟慮をどの程度推奨するか(操作はそれを推奨しない)、自発的決定をどの程度促すか(誘導はそれを推奨しない)で、善意のものか悪意のものかといったパラメーターを考慮に入れることで、ある程度の差別化はできる。しかし、それでも、これらが同一線上のものであることは否定できない。

ナッジは悪のためにも善のためにも使える。ナッジは、強制ではない――強制されているという印象を与えないように注意深く設計された――影響であるからこそ、それを使うときには倫理性が求められるし、それがシステム設計の根幹にまで及ぶとなればなおさらである。

だからサスティーンの解説は二重になる。一方に、ナッジ自体の有用性(選択アーキテクチャによっていかに目的が効率的に達成されうるか)をめぐる説明があり、他方に、そのような選択的アーキテクチャを作り上げ、使用すること自体の正当性をめぐる説明がある。

こうしてサンスティーンは、くりかえし、福利 welfare、自由 freedom、自律 autonomy、尊厳 dignityについて語るのであり、それらが侵害されないようなかたちで、選択アーキテクチャを構築しようとする。

それはどうしようもなく矛盾した試みだ。選択アーキテクチャが任意の目的を達成するために構築されるものであるとするなら、設計者が選んでほしくないほうの選択を選ぶ余地をあらかじめなくしてしまうほうが、はるかに効率的である。しかし、それでは、倫理的なものがないがしろにされてしまう恐れがある。

効率最大化にたいするストッパーやブレーキとして、倫理的な価値観が導入されているといってもいいだろう。選択アーキテクチャにはそもそも備わっていない倫理性を、アーキテクチャに外装することでもあるし、さらにいえば、そのようなアーキテクチャの使用者の倫理性を鍛えることでもある。

こう言ってみてもいい。ナッジによる選択アーキテクチャは統計的に証明されたエビデンスを重視する結果主義――影響を与える側の意図や思惑を基準にした評価―――にもとづくが、倫理は個々人の内面や意思といった自発性(原因)主義――影響される側の判断を基準にした評価――であり、サスティーンの議論では、決して相容れることのないふたつのパラダイムがつねにせめぎ合っているのだ、と。

影響を与える側が正しいと考えていることが必ず正しいわけではない以上、それをくつがえし、キャンセルするための余地が、システムに内装されていなければならない、とも言える。実際、アメリカ独立宣言には、そのような自己変革の可能性――“whenever any Form of Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government”――が最初から書き込まれているわけで、この方向性自体は特別奇異なものではないが、この自己否定から自己改革に至るプロセスがあるかないかは、システムの健全さ(自己硬直化をどれだけ回避できるか)という意味で、決定的な意味を持つだろう。

原書のタイトルはThe Ethics of Influence: Government in the Age of Behavioral Scienceであり、邦題の『ナッジで、人を動かす』は、きわめてミスリーディングだ。邦題副題は「行動経済学の時代に政策はどうあるべきか」だが、これもやや誤解を招くものであるように感じる。サンスティーンの議論の核にあるのは、アーキテクチャ/アーキテクトの倫理性の問題なのだ。それはつまり、システムがもたらす統計的な結果をめぐる客観的な評価の問題というよりも、システムが体現する理念、システムを構築する政府、システムを使用する利用者といった、行為者をめぐる問題が、本書の中心にあるということだ。

「人を動かす」テクニックについて、サンスティーンが取り上げる事例は、どれも示唆的であり、そこからさまざまなノウハウを学ぶこともできるだろう。しかし、「人を動かす」ことと同じくらい、「人を動かしすぎない」ことも重要であり、だからこそ、「できることをあえてしない」という倫理が必要になってくる。

「倫理」という言葉を書名から完全に消してしまうという方向性は、プロモーション戦略としては理解できなくもない。しかし、それは、行動経済学の知見を悪用しない熟慮的な善きアーキテクチャ、しかも、自らを改善していく柔軟性を備えたアーキテクチャを構築しようとするサンスティーンの倫理的な態度を裏切るものではないだろうか。

的場昭弘『未来のプルードン』(亜紀書房、2020):孤独な思想家による所有と権力の批判

マルクスの永遠のライバルとしてのプルードンマルクスの罵倒の常套戦略とは、相手の議論が誰かの二番煎じであることを徹底的な文献学的調査によって暴き立てることであるという。それはこじつけに近いところもあるが、論敵の信用を下げるうえでは一定の効果を上げるし、そのようにして相手を引きずり下ろしたうえで、自分をその上に置くような議論を展開すればいいだけの話ではある。そしてマルクスにはその両方をやる知的馬力があった。しかし、大学教育を得たマルクスに比べれば、プルードンは「思想的に本当に孤独」(31頁)であったと的場は言う。ルソーのような独学者であり、だからこそ、体系に学ぶということを知らない。そのような構造的な無知のおかげで、独創的な考えにいたることもあるが、その反面、体系的な知を築くことができない。しかし、思いつきから思いつきに飛躍していく闊達さは、マルクスが決して持ちえなかったものでもある。

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プルードンの非体系的な知とは何なのか。的場に言わせれば、それは、哲学でも経済学でもなく、社会学である(34頁)。そして、プルードンアナーキーは、まずなにより、宗教批判であり、宗教という巨大な権力支配の批判である。それは無神論のさらに先を行くものだ。というのも、人が神に取って代わること――フォイエルバッハの宗教批判――は、神が体現する権力の委譲でしかなく、権力そのものの批判ではないからだ。プルードンヘーゲル左派批判、それは、「人間の神格化」(52頁)批判にほかならない。的場によれば、プルードンの特異性、ほかの社会主義者と決定的に異なる点は、徹底した権力批判である(108頁)。

やや散漫な印象を与える本ではある。プルードンの思想そのものに正面から対決するというよりも、プルードンをめぐる思想であり、プルードンをめぐる思索であるからだ。マルクスとの関係のなかのプルードンヘーゲル左派との関係のなかのプルードンパリ・コミューン参加者との関係のなかのプルードン、ジョルジュ・ソレルとの関係のなかのプルードン共産主義圏や西欧圏でのプルードン受容。プルードンについての本というよりは、プルードン現象についての本とでも言いたくなる側面がある。

的場が惹かれているのは、プルードンという人間、プルードンという人間が体現したもの――孤独な独学者、市井の感覚で考える独創家、無尽蔵のアイディアマン、図抜けた知的センスの持ち主――ではないかという気もするし、そのやり方は悪くない。だから的場は、プルードンという万華鏡のような人物――革命家、ジャーナリスト、議員、改革家――をさまざまな角度から照射してみせる。プルードンの影響圏にいた友人知人たち(ゲルツェン、クールベトルストイ)を浮き彫りにしてみせる。

プルードンを読むことは、マルクスを読むこととはちがう。プルードンは教義ではないし、プルードンのテクストを聖典のように解釈するのもちがう。いまある世界との関係のなかで、柔軟で執拗な批判を続けていくこと、いまある権力とはべつのものを打ち立てるための可能性を追求すること、そのためにこそ、プルードンは援用されるべきなのだ。

しかし、的場が繰り返し前景化するプルードンのモチーフがある。ジャーナリストとしての側面、実践家としての側面であり、独創的な独学家の側面である。そして、たとえ時々の持論で力点の置き所が狂うことがあっても、プルードンの発想には一貫した軸がある。「徹底した権力批判と、それを担保するための労働者の自主参加という課題」(188頁)である。それから、経済活動にこそ未来の社会のための可能性を見出す態度だ。的場はプルードンのそうした経済主義――革命よりも経済再編を優先させる――にこそ、ポスト資本主義のためのヒントを見出している。

とはいえ、プルードン的な路線がポスト資本主義のために援用できる、つまり、労働者の自主的な連合によって、資本主義が発展させてきた技術や構造を奪取してうまく運用できるという的場の夢想――「所有」も「権力」も越えた向こうにある「国家のない世界市民社会」、「アソシアシオンによる地域連合の社会」(216頁)――想定は、あまりに楽観的すぎるのではないか。「たとえ理想論だとしても」(216頁)と断りは入っているが、シェアリングやブロックチェーン、AIなどを駆け足で言及していく身振りは、それこそ、マルクス的な地に足のつかなさを露呈しているだけではないかという気もしてしまう。

結局のところ、的場はマルクスの磁場の囚われの身になっているのではないか。マルクスのためにプルードンをという態度自体が、的場を、マルクスの時代に送り返していくようなニュアンスがある。

基礎科学という脅威(劉慈欣『三体』)

「「敵はなにを恐れているんだと思う?」「あんたちだよ! 科学者だ! しかもおかしなことに、研究が実用性から遠のけば遠のくほど恐れられているみたいだ……だからこんなに容赦のないやりかたをしてるんだよ。あんたらを殺すことが問題の解決になるなら、全員とっくに殺されてる。しかし、いちばん有効な方法は、思考をくじくことなんだ。ひとりの科学者が死んでも、べつの科学者が研究を引き継ぐ。しかし、考えをめちゃくちゃにされたら科学はおしまいだ」「つまり、敵が恐れているのは基礎科学だと?」「ああ、基礎科学だ」」(劉慈欣『三体』154頁)