うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

的場昭弘『未来のプルードン』(亜紀書房、2020):孤独な思想家による所有と権力の批判

マルクスの永遠のライバルとしてのプルードンマルクスの罵倒の常套戦略とは、相手の議論が誰かの二番煎じであることを徹底的な文献学的調査によって暴き立てることであるという。それはこじつけに近いところもあるが、論敵の信用を下げるうえでは一定の効果を上げるし、そのようにして相手を引きずり下ろしたうえで、自分をその上に置くような議論を展開すればいいだけの話ではある。そしてマルクスにはその両方をやる知的馬力があった。しかし、大学教育を得たマルクスに比べれば、プルードンは「思想的に本当に孤独」(31頁)であったと的場は言う。ルソーのような独学者であり、だからこそ、体系に学ぶということを知らない。そのような構造的な無知のおかげで、独創的な考えにいたることもあるが、その反面、体系的な知を築くことができない。しかし、思いつきから思いつきに飛躍していく闊達さは、マルクスが決して持ちえなかったものでもある。

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プルードンの非体系的な知とは何なのか。的場に言わせれば、それは、哲学でも経済学でもなく、社会学である(34頁)。そして、プルードンアナーキーは、まずなにより、宗教批判であり、宗教という巨大な権力支配の批判である。それは無神論のさらに先を行くものだ。というのも、人が神に取って代わること――フォイエルバッハの宗教批判――は、神が体現する権力の委譲でしかなく、権力そのものの批判ではないからだ。プルードンヘーゲル左派批判、それは、「人間の神格化」(52頁)批判にほかならない。的場によれば、プルードンの特異性、ほかの社会主義者と決定的に異なる点は、徹底した権力批判である(108頁)。

やや散漫な印象を与える本ではある。プルードンの思想そのものに正面から対決するというよりも、プルードンをめぐる思想であり、プルードンをめぐる思索であるからだ。マルクスとの関係のなかのプルードンヘーゲル左派との関係のなかのプルードンパリ・コミューン参加者との関係のなかのプルードン、ジョルジュ・ソレルとの関係のなかのプルードン共産主義圏や西欧圏でのプルードン受容。プルードンについての本というよりは、プルードン現象についての本とでも言いたくなる側面がある。

的場が惹かれているのは、プルードンという人間、プルードンという人間が体現したもの――孤独な独学者、市井の感覚で考える独創家、無尽蔵のアイディアマン、図抜けた知的センスの持ち主――ではないかという気もするし、そのやり方は悪くない。だから的場は、プルードンという万華鏡のような人物――革命家、ジャーナリスト、議員、改革家――をさまざまな角度から照射してみせる。プルードンの影響圏にいた友人知人たち(ゲルツェン、クールベトルストイ)を浮き彫りにしてみせる。

プルードンを読むことは、マルクスを読むこととはちがう。プルードンは教義ではないし、プルードンのテクストを聖典のように解釈するのもちがう。いまある世界との関係のなかで、柔軟で執拗な批判を続けていくこと、いまある権力とはべつのものを打ち立てるための可能性を追求すること、そのためにこそ、プルードンは援用されるべきなのだ。

しかし、的場が繰り返し前景化するプルードンのモチーフがある。ジャーナリストとしての側面、実践家としての側面であり、独創的な独学家の側面である。そして、たとえ時々の持論で力点の置き所が狂うことがあっても、プルードンの発想には一貫した軸がある。「徹底した権力批判と、それを担保するための労働者の自主参加という課題」(188頁)である。それから、経済活動にこそ未来の社会のための可能性を見出す態度だ。的場はプルードンのそうした経済主義――革命よりも経済再編を優先させる――にこそ、ポスト資本主義のためのヒントを見出している。

とはいえ、プルードン的な路線がポスト資本主義のために援用できる、つまり、労働者の自主的な連合によって、資本主義が発展させてきた技術や構造を奪取してうまく運用できるという的場の夢想――「所有」も「権力」も越えた向こうにある「国家のない世界市民社会」、「アソシアシオンによる地域連合の社会」(216頁)――想定は、あまりに楽観的すぎるのではないか。「たとえ理想論だとしても」(216頁)と断りは入っているが、シェアリングやブロックチェーン、AIなどを駆け足で言及していく身振りは、それこそ、マルクス的な地に足のつかなさを露呈しているだけではないかという気もしてしまう。

結局のところ、的場はマルクスの磁場の囚われの身になっているのではないか。マルクスのためにプルードンをという態度自体が、的場を、マルクスの時代に送り返していくようなニュアンスがある。

基礎科学という脅威(劉慈欣『三体』)

「「敵はなにを恐れているんだと思う?」「あんたちだよ! 科学者だ! しかもおかしなことに、研究が実用性から遠のけば遠のくほど恐れられているみたいだ……だからこんなに容赦のないやりかたをしてるんだよ。あんたらを殺すことが問題の解決になるなら、全員とっくに殺されてる。しかし、いちばん有効な方法は、思考をくじくことなんだ。ひとりの科学者が死んでも、べつの科学者が研究を引き継ぐ。しかし、考えをめちゃくちゃにされたら科学はおしまいだ」「つまり、敵が恐れているのは基礎科学だと?」「ああ、基礎科学だ」」(劉慈欣『三体』154頁)

「私たちは皆で一緒に世界を築くことができる」: ティム・インゴルド、奥野克己・宮崎幸子 訳『人類学とは何か』(亜紀書房、2020)

人類学は世界-他者「とともに」考える哲学であって、いわゆる哲学のような世界-他者「について」の哲学ではないとティム・インゴルドが挑発的に述べるとき、彼はある意味で、ヘーゲルが『精神現象学』の序文で述べたことを敷衍しているとも言える。認識される対象は、認識する主体から切り離すことはできない。認識されたものから、認識者を差し引くことはできない。なぜなら認識者はつねにすでに認識されたものの一部であり、それなしにはそのような認識がそもそも生れえなかった媒体であるからだ。方法論的に認識主体を消去することはできない。それはつまり、他者と自らを切り離すことはできない、自らを他者と切り離された安全な地点に置くことできないということでもある。人類学は不可避的に主観的なものを含むのであり、だからこそそれは客観性を謳うような「データ収集」と同一視されてはならないのだ。 

知識への希求ではなく、「気づかい(care)の倫理」(148頁)こそが、人類学者を駆り立てる究極的なものであるとインゴルドは述べる。他者とともにあること、他者にたいする敬意と真剣さが、人類学の根幹にあり、人類学の営みそのものを定義しているのだ。だからインゴルドは、「について」と「である」を区別し、後者に立つ。操作を可能にする距離、モノとして相手を思いどおりにするための隔たりを、インゴルドは、系統的に退けていく。こう考えていくと、人類学は倫理的でしかありえないことが見えてくる。

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デヴィッド・グレーバーの『アナキスト人類学のための断章』と同系統の本と言ってもいい。コンパクトだが、芯が通っている。人類学という自らがコミットする学問領域にたいして批判的でありながら、その系譜を真正面から受け止め、功罪含めて引き受けようとする。だからインゴルドの議論は、学際的であると同時に、人類学それ自体の歴史を扱うのだろう。自らを意識的に問い直すことなしには、人類学の可能性――「人間という概念を越えていくこと」(40頁)、「人間存在(human being)を人間であること(being human)にもう一度結びつけながら、しかも生きられる経験をけっして見失わない学」(68頁)――を十全に引き出すことはできないからだ。

この本にはインゴルド自身の知的自伝の側面もある。彼が自然と文化の接合面を探るなか、「社会関係をもつことと有機体であることは、人間存在の二つの面なのではなく、同じ一つのものだということ」(110頁)に悟るくだりは、感動的ですらある。インゴルドはハイデガーを思い起こさせるようなフレーズでこれを次のように語っている。

当該=環境=内=有機体は、世界=内=存在であるということに気づいた。あの日を境に、私はその時まで自分が主張してきたことすべてが、救いがたいほどに間違っていたと思えるようになったのである。(110頁)

インゴルドが本書で一貫して掲げるのは、一元論であり、それは、存在論であると言っていいのかもしれない。わたしたちは「何か」と「何か」といった、バラバラに分けられるような何かで出来ているのではないし、「あれ」と「これ」というような、接点のない活動や領域を別々に生きているのではなく、異なったゾーンやレベルに同時に存在しているのだ。だからこそ、あるときはこちらを、またあるときはあちらをというように、まるでスイッチを入れたり消したりするように、方法論的に恣意的に操作することはできないのだ。わたしたちは生物的であると社会的なのだ。「生物社会的な存在(biosocial being)」(116頁)。

だからインゴルドの関心は、狭い意味での人類学には留まらず、進化生物学や歴史学社会学のようなところにも及ぶ。「生の条件と可能性とはいったい何であるかを推測する」(128頁)を人類学の目的とするのであれば、そうならざるをえない。それは、観察対象をひたすら対象化する民族誌を書くことでもなければ、人類史を根底から揺るがすような特異な実例を世界の奥地から見つけてくることでもない(128-30頁)。文明に汚されていない無垢な文化を探すことでもない(131頁)。そうではなく、人類学をもっと大きなものとして、「単一の学」として再統合することであり(断片化=専門化の批判)、「社会文化と生物物理」のあいだに「新たな調停」と打ち立てることである(人文学と科学の敵対的分断の批判)(133頁)。そしてなにより、「記述的かつ分析的であると同様に、思弁的かつ実験的である未来の人類学が、いかに生を変容させるポテンシャルをもちうるのかを示すことである」(133頁)。

「反学問」(134頁)としての人類学が、「ホーリズム」(136頁)という古ぼけた言葉でまとめなおされると、すこし肩透かしを食らったような気分になるが、ここでインゴルドが求めているのは、すべてを把握するような外在的で超越的な神の視点ではなく、すべてがほかのなにかと関係を持ちながら、生きていくものとしての全体性である。固定した静的なものとしてではなく、動的なものとしての生であり――それはベルクソンドゥルーズの考える全体le toutに近いように思う――、それは、「生の無限性」(137頁)を考えることにほかならない。

人種と文化というふたつの鬼子をいかにして乗り越えるかと考えをめぐらせるインゴルドは、人類学は科学になるのか、芸術(アート)になるのかとも問いかける。パウル・クレーの言葉――「アートは見えるものをつくり出すのではなく、見えるようにするのだ」(146頁)――を引きながら、インゴルドは、わたしたちの自然=世界における内在性をあらためて強調する。つくることとあることは切り離せない。観察と実験、分析と思弁は、不即不離であり、ひとつのものである。だからこそ、人類学は生を記述し分析する科学であるとともに、「生を変容させる」(147頁)ものである。人類学とは、「科学することの別の方法」(147頁)である。それは、「すべての人にとって居場所がある世界を築く方法」(148頁)なのだ。

 「私たちは皆で一緒に世界を築くことができる」(148頁)。

ドホナーニの無骨な充実または音の密度:ひとつの音楽世界の体現としてのコンサート

この充実ぶりは何なのだろう。豊穣というわけではない。みずみずしい弾力性ではなく、生硬な不器用さがある。音は磨き抜かれているけれども、角が取れて滑らかになるのではなく、地肌が露出して、ごつごつとした手ざわりになっている。

無骨なのだ。音がぶつかり、軋んでいる。弦のトレモロのざわめきが表面に浮かび上がる。和音の下の音、主旋律の裏の伴奏音型が騒々しいほどに表に出てくる。すべての音が均等に鳴りすぎて、雑然としたところさえあるような気がするのに、見透しは驚くほどにクリアで、すべてがひどく澄んでいるのに、怖ろしいまでの重量感がある。

音の密度が桁外れだからだろう。それぞれのパートの音型が極限まで練り上げられ、ほかのパートの音型と拮抗する。音量や音高ではなく――というのも、音量でいえば管楽器は金管に勝てないし、音高で言えば低弦はかならず負けてしまうものだから――、音の凝縮度の高さにおいて、均衡が成立する。

だから、たとえば、『悲愴』の2楽章の弦のピッチカートと、金管の打ち込みと、木管の旋律が、等価に置かれているように聞こえてくる。3楽章の終結部近くの木管と弦の上昇下降音型は、音量で言えば、そのまえの金管の盛り上がりにどうしても負けてしまうところだが、ドホナーニは上昇下降を一続きにするのではなく、上昇と下降が切り替わるところでもういちどアクセントをつけさせることで、音楽の流れを細かくし、音の密度をキープしている。

アイヴズの「答えのない質問」のフルート四重奏も、リゲティの「二重協奏曲」のソロのフルートとオーボエにしても、音は硬く重く、内へ内へと向かっていく。

そのくせ、ドホナーニの指揮はわりとフリーハンドになっている。若いころの指揮姿を見ると、細部をマニアックに掘り返すような、オーケストラのすべてをコントロールせずにはいられないような、偏執狂的なところすらうかがわれるところがあるけれど、椅子に座ったままのいまのドホナーニは、細部の徹底的な管理を志向していないようだ。

YouTubeの日付を信じるなら、これは2020年1月20日の演奏だから、1929年生まれのドホナーニはすでに90歳を越えているが、この演奏から老いのゆるみのようなものは微塵もない。

パートがパートとして依り合わされ、パート同士が依り合わされて、ひとつの大きなウネリとなっていくけれども、大きな流れのなかでも個々のパートは独自の運動性を保ち続けている。

対位法的なところが迫り出してくるような音楽だが、奥行きの深さはあまり感じない。むしろ平面的な厚みがある。晩年のセザンヌのような、晩年のゴッホのような、平面に奥行きが塗りこめられているような手ざわり。

音楽はむしろこじんまりとしている。スケールは小さく聞こえる。しかし、ひとたびなかをのぞいてみると、生命力の奔流に圧倒される。音が生き物のようにうごめいている。アイヴズも、リゲティも、チャイコフスキーも、ドホナーニはすべて、生々しい音のぶつかりあう密度の濃淡とそこで必然的に生じる運動という観点から、指揮しているのかもしれない。

 

コンサート自体がひとつの音楽世界を形成している。

 

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ビニ・アダムザック、橋本紘樹・斎藤幸平 訳『みんなのコミュニズム』(堀之内出版、2020):「わたしたち全員の物語」

未来のコミュニズムの妨げになるのは、過去のコミュニズムなのです。(130頁) 

「Xはすべてだめ、Yならすべてうまくいく」という物言いは、詐欺師の口上だ。レトリックとして注意深く使うならわかる。意図的に使うならわかる。しかし、これを本当の言葉として真摯に使うのは、あまりに問題がある。『みんなのコミュニズム』はそのような問題を抱えているように見える。

最初からしてそうなのだ。「コミュニズムっていうのは、現在の社会――資本主義社会――でみんなを悩ませている苦しみを全部なくしてしまう社会のこと」(6頁)。的確な分業制と過剰生産と恐慌の説明のあと、同じ主張が言葉を変えて繰り返される。「さあ、わかったことは二つ。一つめは、資本主義では幸せになれないってこと。二つめは、コミュニズムなら幸せになれるってこと」(46頁)。

6つのトライをとおして、コミュニズムを深化=進化させていくプロセスが描き出される。この部分は読み物として面白いし、問題は「誰か」ではなく「物の形態」であるという観点から、さまざまな構造やシステムを実験していく。

つまり、本当は、「コミュニズムならすべてうまくいく」というのは、確定した事実というよりも、かなえるべき希望として提示されているのだ。いまだかなえられていないし、どのようにかなえればいいのかまだわからないけれど、絶対にかなえなければならない希望。

エピローグを読むと、アダムザックのビジョンはずっと思慮深いものであることがわかる。それはポスト冷戦以後の世界体制(「歴史の終わり」)を冷静に見つめる視点だ。歴史をスクラップにしてしまうのではなく、過去を乗り越えた未来を想像するために、歴史を理解しつつも、そこから逸れていこうとする。

原著初版は2004年だというが、それを考えると、本書がある意味で生産中心主義的な世界観も立脚しているのも、理解できるような気がするのだけれど、それはつまり、2020年の世界がいかにデジタルでオンラインなエンターテイメント空間と化してしまったのかということでもある。アダムザックにはほかにもさまざまな著作があるというが、それらを読まないと、ここ10年の変化を著者がどう捉えているのか、いまいちわからない。

アドルノなどを縦横無尽に引用するエピローグはひじょうに読みごたえがあるし、認識論的=倫理的な立場としてはかなり賛同する。けれども、はたしてこれがいまの欲望的消費者、モノではなくコトを消費するわたしたちにうまくフィットするかというと、すこし疑問がある。

6つのトライの最後が、みんなの声に耳を傾けつづけよう、トライをつづけよう、この本の読者であるみんなと築き上げていこう、だってこれは「わたしたち全員の物語」(80頁)なんだから、と締めくくられると、あまりに肩透かしを食らった感じになる。

ちょっと毒のあるポップな絵はよい。議論を象徴的に要約するイラストもとてもよい。しかし、中途半端に本にするよりは、もっと絵本によせたほうがよかったのではないかという気もする。翻訳は、ポップにするなら、もっとはっきりとポップにするべきだったと思う。読みやすいし、不満はないが、もっとよいものになったはずだという印象がぬぐえない。

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チェリビダッケとベルリンフィルの出会い:リズミックな硬さと雄大なしなやかさ

チェリビダッケのスローテンポは、近くによりすぎると止まっているように見えるけれども、離れてみればすべてが動いていることがわかる悠然とした大河の流れを思わせる。でっぷりと腹の出たチェリビダッケの座った身体が水面下の動きのない動きをマクロに体現しているとしたら、指先でつまむようにして手のひらのところで緩く握られた長いタクトは水面で起こるミクロな動きの現れなのだ。

チェリビダッケの指揮棒それ自体は、雄大な流れを作り出さない。おそらくそこはリハーサルで作り込んであるのだろうし、究極的にいえば、大きな流れは、作るのではなく、作られるものである。最初の音から、いや、音が出る前から流れは始まっている。一音目を正しく引き出すことができれば、その流れをさえぎらないようにじっくりと見守っていけば、あとはほとんどおのずから音が広がり、膨らんでいく。それで音の連鎖が始まる。

チェリビダッケの指揮はそのように流れるほどに溜まっていく動きを邪魔しないことを心掛けているように見える。だからチェリビダッケの指揮は、パウゼでも完全には止まらない。どこかは動いている。しかし、体幹を上下に揺すって水面をかき乱すようなことはしない。

その一方で、ミクロな音の運動は、神経質に、丁寧に、作り上げていく。キュー自体は鋭く細かい。楽器の入りを示すため、音量調節を伝えるため、フレーズを強調するためだ。とくに裏拍の付点のリズム。とくに弦楽器のピッチカート。どれも細部の指示であり、そのときのチェリビダッケがみせる動きは、軽やかにリズミックで、瞬間的には芯のある硬い上下運動になるけれども、そのときでさえ、彼のタクトがぐっと握り込まれることはないように見える。ある程度の硬さはあるが、かたくなな硬さではない。

チェリビダッケは音を緊張させすぎない。緩ませるわけではないけれども、閉じた音を出させない。それは奏者の側からすると、相当むずかしい要求だ。難しいパッセージ、大音量の箇所になれば、どうしても体は興奮し、力が入り、筋肉が収縮する。ベルリンフィルのような凄腕の団体であれ、身体の生理的反射を変えることはできない。

奏者たちはかなり演奏しづらそうだ。チェロの首席のあからさまなオーバーアクションはほとんどやけくそになっているようにも見える。しかし、どれだけ苦戦しているような表情を浮かべようとも、音を粒として硬く引き締めるのではなく、線や面として薄く軽く開き、力業で押し切るのではなく、互いに響き合わせられてしまっているのは、さすがはベルリンフィルというところか(とはいえ、1楽章の終結部などは、弦楽器と金管の縦線がズレて、崩壊寸前ではある)。

まったく異常な演奏だ。ミュンヘンフィルであれば、チェリビダッケの意図をくみ取った、もっとこなれた演奏になっていたところだろう。ベルリンフィルほどの団体でなければ、ただの弛緩した演奏になっていたかもしれない。しかしここでは、ミクロな運動とマクロな流れがシンクロし、カンタービレの響きがその中間を充たしている。真剣に聞く以外の聴き方を許さないたぐいの演奏。

 

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ジャネット・サディク=カーン、セス・ソロモノウ、中島直人 監訳『ストリートファイト――人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い』:「都市革命のためのハンドブック」、または既存の都市空間の効率的な人間化

公共領域に著作権は発生しない。(130頁)

 

ジャネット・サディク=カーン、セス・ソロモノウ、中島直人 監訳、石田祐也、関谷進吾、三浦詩乃 訳『ストリートファイト 人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い』

都市空間は誰のためのものか。都市交通を、車社会に最適化されたものから、人間に適したものに再デザインすること、ジャネット・サディク=カーンがマイケル・ブルームバーグ市政下でニューヨーク市交通局長として試みたことがそれであり、本書は2007年から2013年にかけての彼女の仕事の回想記であると同時に、都市空間の再編のための提案である。

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しかし、「人間の街路を取り戻す」ことは、都市から車を排除することではないし、人が歩ける空間にすることだけでもない。彼女の試みはずっと広範囲にわたるものであり、道路の再定義から、歩行者のためのテラスの設置、商業空間の活性化、自転車レーンの整備やシェア・サイクルの導入、バスのような公共交通機関の活用まで、多岐にわたる。

それはつまるところ、人間的な都市空間とは、無機的な構図や設計図のなかで完結するものではなく、そこを歩き、活動する人間を含めたものであり、歩行者のみならず、歩行者が訪れる商業施設をも含めた、総合的な活動であるという立場を、サディク=カーンがとっているからにほかならない。

その意味で、彼女の交通局長としての仕事は、『アメリカの大都市の死と再生』(1961)の著者ジェイン・ジェイコブズが唱えた、豊饒な雑多さを内包する、有機的で流動的な交流の場、明確な機能を持たないような街路樹や、不効率であるように見える小路としての都市観に連なるものであることは間違いない。しかし、それと同時に、ジェイコブズの論敵であったロバート・モーゼスのエンジニアリングされた都市空間という路線を引き継ぐものである。

こう言ってもいてもいいだろう。サディク=カーンは、ジェイコブズ的な有機的な活動としての都市を作り出すために、地域住民による下からの自主的な創意工夫(ジェイコブズのアクティヴィズム)に頼るのではなく、モーゼス的な上からのエンジニアリングによって、都市空間そのものをそのような活動のための場に変えたのである。

ある意味、ナッジ理論的なやり方だ。人々の意識を直接変えるのではなく、空間のほうを変えることによって、間接的に人々の行動を誘導し、からめ手で人々の意識を間接的に変えていくというやり方。サディク=カーンが交通局長という行政側の人間であることを思えば、当然の選択でもある。

とはいえ、サディク=カーンが都市の再編のために提唱するのが、モーゼスのようなスクラップ・アンド・ビルド――たとえば19世紀半ばのオスマンによるパリ改造は、街路自体を整備し直す大規模なものだった――ではないことは特筆しておかなければならない。

彼女の方法は、その意味で、ジェイコブズ的なのかもしれない。彼女がやったのは、すでにある街路の使い方を変えることであり、手法としてはゾーニングなのだろう。たとえば道路を塗り分け、駐車スペースを歩行者空間に変えることである。

彼女が成し遂げたことは、ある意味では、さまざまな先例の模倣である。自転車レーンの設置はアムステルダムコペンハーゲンなどの真似だ。しかし、彼女が箴言的に述べるように、「公共領域に著作権は発生しない」(130頁)のであり、重要なのは、人間的な都市空間が円滑に運営され、人々が豊かに活動することができるかであって、そのような空間がオリジナルでユニークであるかではないのだろう。

しかし、そう考えていくと、エビデンスにもとづいて効率的に再編されていく都市空間は、はたして、独自性のようなものを保持しえるのだろうかという疑問もわいてくる。サディク=カーンの手法は、既存の都市空間の効率的な人間化だ(自家撞着的な言い回しではあるが、彼女の交通局長としての仕事を言い表す表現であるようにも思う)。そこで目指されているのは、人間活動のために都市空間を再編することである。目的が同じ以上、最終的に出来上がる都市空間は互いに似てくるのではないか。自転車レーンやバス専用レーンの効率的な作り方に、それほどバリエーションがあるわけではないだろうし、歩行者の安全や商業活動の活性化を念頭に置けば、答えはおのずと弾き出されるだろう。もちろん、既存の都市空間に備わっている余地がちがう以上、彼女が使ったのと同じ手法を導入したからといって、すべての大都市の空間編成がニューヨークと同じになることはないだろう。それぞれの都市がもつ歴史性は破壊されないだろうし、そのようなものを破壊することは、サディク=カーンの目指すところではない。しかし、彼女の方向性は、都市の多様性や独自性を最小化するものではないかという疑問を払拭することもできない。

「日本語版によせて」のなかで、著者たちは、2019年に来日し、東京、大阪、京都、神戸を歩き、感銘を受けたと述べている。たしかに東京も、歩行者天国を作ることで、街路を単なる移動の場以上のもの、人々がそこにとどまり、憩うための空間にするための施策を講じてはいる。自転車レーンの全国的な設置によって、自転車人口は容易に倍になるだろうという彼女たちの予想は正しいとは思うものの、「今ある街路だけで自転車の都市を実現することができる」(4頁)という言葉には、にわかにはうなづきがたいところがある。

本書で語られるのは、基本的に、サクセスストーリーであると言っていいし、高密度でコンパクトな都市こそが人類の未来であり、「効率的に国全体の成長を都市部に集中させることは、今世紀、各国が採用すべき最重要戦略のひとつなのだ」(45頁)という主張は、たしかに環境問題や人口問題などを考えれば、きわめて妥当なものではある。しかし、都市偏重のきらいがあることは否定できない。

それに、本書に登場する都市空間は、総じて、広い道路を持つ都市ではないだろうか。道路が広いからこそ、その幅を狭め、そこに歩行者のための空間や、休憩のためのテラスを設けたり、自転車専用レーンやバス専用レーンを塗り分けたり、横断歩道を短くするために交差点を道路に張り出させたりする余地があった。しかし日本の都市にそのようなのびしろがあるだろうか。

彼女たちが訪れた大都市はそうかもしれない。しかし各県の小都市レベルになるとどうだろうか。郊外や田舎のほうになるとどうだろうか。だからこそサディク=カーンはコンパクトに再編された都市こそが人類の未来であるというような主張をするのだとは思うものの、そのような考え方自体が、都市こそが人間のための空間であるという前提をあまりに絶対化しているようにも感じる。

翻訳はかなりこなれた感じで、ざっと流し読む分には不満を感じない。写真が数多く掲載されており、さまざまな街路のビフォア/アフターを見るだけでも、サディク=カーンの交通局長としての素晴らしい仕事の成果が直感できる。

邦訳副題の「人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い」というのは、本書の回想記的性格を捉えた秀逸なキャッチコピーではあるけれど、原書副題のHandbook for an Urban Revolutionのほうが、本書の使い方を端的に言い表している。「都市革命のためのハンドブック」。