うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20200103 Day 11 カイロの街歩き再び。

昨日はツアー会社の車でカイロのホテルまで送ってもらったおかげで、カイロの街を車のなかからじっくり見る機会があった。そのおかげでいくつか気づいたことがある。

カイロの街中は基本的に一方通行のようだ。だから、交差点は曲がるためのものというよりは、ふたつの流れが交わるというニュアンスがある。もちろん、曲がれる交差点もある。しかし、そのためには、ロータリーのほうが重要性が高いようだ。そう考えていくと、カイロに信号が少ないのもわかるような気はする。 

興味深いことに、カイロの市内の大きな交差点の角には警官が立っており、信号が変わりそうになると、道路の真ん中のほうに歩いていき、最終的には文字通り体を張って赤になったほうの車の流れを遮断する。そうでもしなければ、赤だというのに、隙あらば流れの隙間に車体をねじ込んでやろうというドライバーが後をたたないかのように。いや、これは、「かのように」という生易しいものではなく、リアルな現実なのだと思う。

カイロのみならず、今回訪れた場所でタクシーに乗ったところはどこでも、引いたら負けというニュアンスを感じた。とにかく隙間に車体の鼻先を突っ込む。前が進まなければパッシングやクラクションでせかす。車一台ギリギリというスペースにグッとアクセルを踏みこんで我先に飛び込む。車間距離がないというのはすでに書いたけれど、前後どころか左右の距離までほぼゼロ距離といっていい。だからエジプトの道路にはレーンという概念が希薄だ。何車線になるかは、道の広さという物理的条件によって必然的に決まるものであるはずだけれど、おしくらまんじゅう状態がデフォルトであるここでは、何車線と数えるのが馬鹿らしいぐらいの状況だ。道路にはレーンの線がひかれているけれど、それは踏まれたり跨がれたりするために存在している。

エジプトの街中の商店はとにかくディスプレイする。いまの日本(というか、西欧諸国が、というべきだろうか)のショーウインドウがブランドの世界観を提示するためのルックブックのようなものと化しているとしたら、エジプトの商店のショーウィンドウは商品満載のカタログのようなものだ。洋服であれ、靴であれ、化粧品であれ、本であれ、電化製品であれ、とにかくウインドウ一杯にアイテムを並べ尽くす。

それは道端の物売りでも同じだ。机の上に、シートを敷いた地面の上に、商品をきちんと並べていく。この几帳面なまでの整理整頓っぷりは、道路の混沌っぷりと、見事な対照をなしている。

エジプトの人口動態は日本と驚くほど違う。高齢化少子化がダブルパンチの社会問題と化している日本とは裏腹に、エジプトは全人口の63%が15-64歳、32%が14歳以下で、ほんの5パーセントが64歳以上だと言う。そのせいか、街には若者が溢れているような印象はあるし、なにより、子どもたちが多い。

しかしそれは同時に、幼児労働のような慣習化していることを意味しているようだ。スクーターに屋根をくっつけたようなトゥクトゥクを10代前半に見えるような若者が運転していたりするし、10歳にも満たないように見える子どもが店番をしていたり、店を手伝って(わされて?)いたりする。

その一方で、人が余っているのだろうかという印象も受ける。あらゆるところで人がたむろしている。美術館の入り口そばで、商店のなかで、店先で、人びとが寄り集まり、何やら談笑している。仕事をしているのか、さぼっているのか、いや、それどころか、だれが正規の労働者でだれがそうでないのかすら、まったく不明である。

今回カイロで泊まったホテルはまずまず安宿で、雑居ビルの5階6階をホテルに改造したようなところだったのだけれど、大通りから一本入った薄汚れた通りの薄汚れたビルの入り口に、30代くらいの若者が、とくに何をするというのでもなく、プラスチックの椅子を置いていつも座っていた。門番というか、守衛のようなものなのだろうけれど、では彼はだれかに雇われ、だれかに給料を出してもらっているのだろうか。

単純労働とすら呼びがたい、仕事と呼んでいいのかよくわからない役割がある。トイレの前に立っていて、人が入る前に、スプレーを何吹きして、用を足したあとにチップ(バクシーシ=喜捨)を要求する。トイレの手洗い所のそばにティッシュを持って立っていて、手を洗った人にペーパーを配り、そしてチップを要求する。

正規労働と副業的労働の境目もあいまいだ。遺跡に入ると、勝手に案内してきたり、ライトで見えにくいところを照らしたりして、チップを要求する。しかし、ダフシュールとサッカラをガイドしてくれた方によれば、遺跡の内部にいるのは名目上は政府職員だという。「金銭をせびられても無視してください」とガイドは言っていたけれど、何かをして金をとってやろうという金銭的見返りを前提とした好意の押し売りが常態化している。

昨日のガイドによれば、エジプトの観光ガイドは免許制であり、ガイドが入って説明していいところ、駄目なところは厳格に決まっているようで、その決まりを破ると免許を取り上げられるのだという。しかし、にもかかわらず、ガイドが中で説明しているという状況を目の当たりにもした。わたしたちのガイドの人になぜあんなことが可能なのかと聞くと、「入口係員にお金を渡して便宜を図ってもらったのだろう」というような回答が返ってきた。

グレーゾーンが広い。そしてそれはある意味、人間関係のゾーンなのだ。だから、エジプトの人たちがいろいろな群がり、たむろし、ともに時をすごそうするのは、社会的必然であるように思う。しかし、だとすれば、このような共同性の強い社会で、さまざまな濃淡を含んでいるとはいえ共同体的な繋がりによって社会が回っているところで、孤立した個人として生きることは可能なのだろうかと考えてしまう。エジプトにおいて引きこもり的な孤独を生きることは、生きられうる可能性なのだろうか。

そんなことを考えながら、カイロの街を再び歩く。

 

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20200102 Day 11 ダハシュール、サッカラ。

ピラミッドと言ったときすぐわたしたちの頭に浮かぶのは、ほぼ間違いなく、ギザの3大ピラミッドのなかでも最大の規模を誇るクフ王のピラミッドだろう(たとえクフ王のピラミッドとは知らないとしても)。それから、スフィンクス。それらの圧倒的な知名度にくらべると、屈折ピラミッドや階段ピラミッドはちょっと地味で、通好みと言っていいかもしれない。実際、ギザが比喩的にも字義的にもやかましいのにたいして、ギザから車で小一時間ほど南に行ったところにあるダハシュールとサッカラのピラミッド周辺はずっともの静かだ。ナツメヤシの木が生い茂り、畑が広がり、ロバで荷車を引く農夫たちがいる。もちろん土産物売りはあちこちにいるけれど、ギザのウザさに比べれば、いないに等しいと言ってもいいぐらいだ。

興味深いことに、こちらのピラミッドのほうが観光環境は整っているように感じられた。石畳の通路があったり、バリアフリーのためのスロープがあったり、真新しい解説入り看板があったりと、観光化の努力が進行中という印象があった。今日は日本のツアー会社に依頼して運転手付きのガイド・ツアーを申し込んだのだけれど、そのガイドの方によれば、ある看板などはここ1ヵ月に出来たものだという。

ギザのピラミッド群と、こちらのピラミッド群の何が違うのかというと、ダハシュールとサッカラのほうが古い。ピラミッド制作と発展の歴史という意味では、こちらのほうが歴史的重要性が高いのかもしれない。

しかし、そうした考古学的な部分は別にして、屈折ピラミッドはただそれ自体として見ても、とても美しい。化粧石が多く残っているし――屈折ピラミッドの化粧石が多く残っているのは、設計上、取り外しにくいようになっていたからだそうだ――、施工中の問題から角度変更を強いられたという苦肉の産物であるにもかかわらず(だからこそ?)、何か不思議な雰囲気がある。そしてこれはギザのピラミッド群とも共通することだけれど、石のひとつひとつの表情が面白く、見る角度、見る距離、光の当たり具合で、受ける印象ががらりと変わってくる。

ピラミッドの周りをぐるぐる回ってみたい気持ちになるが、ピラミッドのすぐそばには崩落した岩があるし、かといって、もうすこし距離を取ると砂地に足を取られるし、ツアーだから見学時間も限られているし、結局、全4面のうちきちんと見れたのは2面半ぐらいだろう。

ピラミッドがさかんに作られたのはファラオ王朝のなかでもいちばん古い「古王国時代」のことだという。「中王国時代」にも作られてはいたけれど、切り出した岩ではなく、日干し煉瓦を建築資材に用いるようになっていく。その結果、風化に耐えられず、外側が崩れてしまっている。現在発見されたピラミッドは110だか120ほどあるらしいが、そのなかには、崩れた砂山に見えるものもあるようだ。

階段ピラミッドもまた施工変更の産物らしい。最初に出来上がった4段に2段足したのが現存するかたちだというが、たしかに近寄ってみると、継ぎ足した部分の境目がはっきりとわかる。4段にただ2段足したのではなく、最初に出来た4段を全体的に拡張してそこに2段足した格好になっているからだ。

階段ピラミッドは最初期の試みであるという。それはつまり、巨石建築物が本当に実現可能なのかが実証されていなかった時期の産物であり、後のピラミッドにくらべると石のサイズがずいぶん小ぶりに見えた。

階段ピラミッドの周辺には、歴史的重要性の高い遺跡がいくつもあったけれど、階段ピラミッドを建設した神官の墓の壁にある彩色レリーフがひじょうに興味深かったし――とくに作りかけのままに残されていた箇所(線だけ掘ったところで終わっている)――、新王国時代のラムセス2世の外交官にして、世界最初という平和条約をヒッタイトと結んだネムティウメスの墓の柱のレリーフは、歴史的意義とはまったく関係なく、美術品として傑出しているように思われた。

カリフォルニアにいたときたまに食べていたデーツが木になっているのを初めて見た。あんな高いところであんな赤い色をしていたとは。

ガイドをしてくれた方は、エジプト生まれ、カイロ大の日本語学部を卒業し、日本に留学経験があるばかりか、生け花を教えられるほどの腕前で、カナダはバンクーバーでの留学経験もあり、大学レベルで日本語を教えていたこともあったのだとか。とても話し好きな人で、こちらの厄介な質問にも答えてくれて――たとえば、なぜローマ帝国支配を受けていたはずのエジプトにラテン語が入ってきた時代がないのか――、学ぶことが多かったし、エジプト近代史の流れや、なぜ岩倉具視たちがエジプトを訪れたのかが、何となく腑に落ちた。

(エジプトはオスマン帝国エジプト総督モハンマド・アリのもとで19世紀前半に近代化を成し遂げ、武器製造や都市改革を成功させたが、まさにそれゆえに、帝国主義的野心を持つ大英帝国の侵攻を誘発し、19世紀後半には事実上植民地化されてしまう。19世紀中期のエジプトは日本からすれば非西欧世界における近代化の成功例として映っていたのかもしれないし、第二次戦後のナセル政権によるスエズ運河の国有化、つまりスエズ運河という海運の要所をヨーロッパから取り戻すという脱植民地化のプロジェクトは、歴史的に必然の成り行きでもあったし、そこから中近東における種々の戦争に繋がっていたというのも、わかるような気がした。このあたりは日本に帰ったら何か本を読んでみよう。)

運転手付きガイド付きツアーは、とてつもなく楽だ。これまではなんだかんだで自分たちで旅程を決め、ルートを探し、生半可な知識と根拠なき推論で観光してきたけれど、それをすべて丸投げすることができる。これだけのことをやってもらえるなら、半日観光+昼食付のために割高な料金(ひとり150ドル、日本円で1万6000円ちょっと)を払う価値は充分にある。しかし、しかしながら、誰かに案内してもらうと、十分に咀嚼できないままに大量の情報を流しこまれるかたちになってしまうのも事実ではある。どうしても受け身になってしまい、意識的に取り入れるというよりは、否応なく曝されるという感じになってしまう。ジェットコースターに乗せられてあちらこちらにふりまわされるようなものだ。乗っている最中には強いインパクトがあるけれど、後から振り返ってみると、あまりに多くのものをあまりに短いあいだに超特急で駆け抜けたせいで、個々の記憶が混濁し、印象がぼやけてまざりあってしまう。今回のようによいツアーガイドの場合ですらそうなのだから。旅は難しい。

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20200101 Day 10 ギザの3大ピラミッド、またはピラミッドからの転落。

ギザの3大ピラミッドはやはり破格の観光地だろう。圧倒的な存在感がある。しかしその存在感に比例するように、客引きの執拗さも破格だ。ホテルを出た瞬間にタクシーの客引きが寄ってくる。「Cairo, Saqqara, Dahshur, good price」と声をかけてくるのはエジプト観光地ではよくあるけれど、その声が止まらない。断わっても断っても、壊れたプレイヤーのように同じ売り文句をエンドレスで繰り返しながら後ろをついてくる。しかも3メートルや5メートルぐらいではなく、10メートル30メートルぐらいついてくる。これにはさすがに辟易する。そしてやっとタクシーのドライバーを振り切ったかと思うと、別の勧誘が接近してくる。スカーフ売り、ラクダ業者、馬業者。

ホテル出てすぐのところ、スフィンクスの手前のところにチケット・オフィスの「分所 branch」がある。しかし見た感じは掘っ立て小屋のようなもので、うさん臭さがある。なるほど、荷物検査の装置はあるし、フェイクということはなさそうだが、ピラミッドのあるエリアに入る200EGPのチケットしかないと言う。ホテルに戻って確かめると、分所というのは本当らしいが、チケット・オフィスの本部はここからちょっと歩いたところにあるようだ。そこまで歩いていくことにすると、「遠いからタクシーを使ったら」とホテルの人まで言ってくる。しかしグーグルマップで見るかぎり2キロ程度。それはタクシーの距離だろうか。

チケット・オフィスの本部ではいくつかのチケットがひとまとめになってちょっと割引のチケットが売っていた。600EGPというのは、これまでエジプト観光をしてきて破格に高い。たしかに、入場料200、クフ王のピラミッド内部見学400、王の船博物館80、これにもうひとつふたつ入れる場所があったと思うので、600がかなりのディスカウントであるのは本当だけれど、200が上限だと思っていたので、クフ王ピラミッドの内部見学400はまさに観光地価格という気がする。600EGP=4200円ぐらいだろうか。

ピラミッドは砂漠のなかという固定観念があったが、実はかなり硬い岩盤のうえに建造されているらしい。たしかにピラミッドからすこし離れると砂地になるのだ、ピラミッドのすぐ周りの地面はひじょうに硬い。

クフ王のピラミッドの内部を登っていくのはかなり骨が折れる。どうにかすれちがえるぐらいの狭さの道だし、体を二つに折り曲げるようにして斜めに進んでいかなければならない箇所がある。這いつくばる必要があるわけではないが、運動不足には堪える。玄室まで行って、何か強い感慨があるわけではないが、重量を逃がすため(だと思うが、違ったか)に少しずつずらしながら積み上がっている天井や、斜めに直線に伸びる通路を見上げたり見下ろしたりすると、このようなものを4000年以上前に作り上げた土木技術に驚嘆するのは確かだ。ロンリープラネットは、たいして見るものはないが、それでもクフ王のピラミッドの中に入るのはunforgettableな経験であると書いていたけれど、うまい言い方だと思う。

ピラミッドから出てきて気が抜けたのか、足を踏み外し、2段ほど転落する。落ちながら「ああ、これはさすがにまずい、死ぬかな」と1段落ちてもう1段落ちかかたときにふと思ったけれど、2段目でうまく石に体を受け止めてもらえるかたちになった。右足を踏み外して落ちたらしく、そのときに左足内側が石のエッジでこすれたようで、左ひざ内側に4㎝ほどのすり傷が出来ていたが、服の上からのことだったので、血がうっすらとにじむ程度ですんだ。骨折や打ち身のたぐいもなく、所持品をなくしたり壊したりすることもなかった。悪運が強いらしい。とはいえ、新年そうそう経験したいことでもない。

ピラミッドエリア内もとにかく客引きがうるさい。興味深いのは、馬やラクダに乗せようとする業者の声の掛け方だ。「Hey China!」「Hey Japan!」というように、見た目であてずっぽうに話しかけてくるのだけれど、この「なあ、日本人」という第一声が客引き戦略として有効だと本当に彼ら(客引きは自分が気づいたかぎり100%男性)は信じているのだろうか。このセリフが馬のうえから投げつけられると、ひじょうに挑まれているような感じがする。たとえば彼らは「Hey Arab!」と言われたら侮辱されたは思わないのだろうか。ともあれ、こちらの言うことはまったく聞かない。勝手に値段交渉に入る。「あそこまで100、いや50でいい、50ならいいだろ」というふうに、ひとりで商談を進めていく。

ピラミッドは直に見てみると、なんとも不思議な印象を受ける。距離によって見え方がまるで違ってくる。角度を変えるだけで、向きを変えるだけで、まったくべつの表情を見せる。それはもしかすると、外見の石組が風化して、石のひとつひとつが別の個性を獲得しているために、全体のかもしだす効果が建築当初よりも複雑になっているせいかもしれない。カフラ王(真ん中のピラミッド)の上部だけは化粧石がまだ残っており、あれがピラミッドの本当の姿なのだろうけれど、装飾が取り払われて、いわば建物の梁が剥き出しになっている今の状態のほうが、歪さがあって逆に面白い。

ピラミッド周りに崩落した石が散乱しているものも面白い。これはやはり来て見てみなければわからないことだ。こうした「ノイズ」のようなものは絵葉書的写真からは排除されてしまう部分だけれど、まさにこうした余分でもあれば補遺的なものでもあるもの――かつてはピラミッドの一部をなす石材であったが、そこから落ちてしまったがゆえに、もはやピラミッドとは無関係の単なる余計な石に思えてしまうもの――を目の当たりをすることに、観光地を訪れる意義があるような気がする。

スフィンクスは間近に寄ってみて初めて見えてくるものがある。これは岩山を削り出したあとに表面を石材で覆ったのだろう。ところどころで、芯にある岩肌が剥き出しになっており、右半身のほうは補修工事のため(だと思う)の足場が築かれていた。顔はイスラムによって破壊され、あごひげ(ツタンカーメンのマスクにあるような縦に長いひげ)はイギリスに略奪されたという。たしかにピラミッドに比べると、スフィンクスのつくりはいろいろと甘い感じはするし、胴体が長いのか、若干間の抜けた雰囲気はあるが、やはり独特の威容がある。岩倉具視たちがスフィンクスのまえで撮った記念写真のことが頭に浮かぶ。

ピラミッドのまえにあることで有名なKFCに入ると、日本人観光客がたくさんいた。まあ、わたしたちもそのひとりではあったのだけれど。

 

 

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20191231 Day 9 移動日に綴る間奏曲的な雑感3。

トゥクトゥクという乗り物。スクーターの後ろに座席をくっつけたような、不思議な乗り物。近距離の移動にちょうどよい。乗り心地はあまりよくないとも言える。運転手のなかには、自分の車体を思い思いに飾り付けている人もいる。やたらにポップな感じになっている場合もあるし、ボロイけれど愛着の深さを感じる場合もある。

ギザに移動するのに利用したタクシーは120キロでひたすらまっすぐなハイウェイを走っていく。あきれるほどにまっすぐなのだ。これが可能になるには最低2つのことが必要だろう。まず絶対的な条件として、直線を引ける平坦な土地があるということ(この地理的条件が日本には欠けている)。そして、その仮想の直線を実現できる政治力があることだが、それは同時に、その土地がまだそこまで開発されていないがゆえに、そこに住んでいる人口が少なく、道路建設によって犠牲になるものが少ないという社会的条件を必要とするのではないか。

サービスエリアもまたきわめてグローバルな空間であるような気はする。それは車社会の誕生とともに出現したものであるし、さらにいえば、郊外化と自家用車というライフスタイルの誕生を前提としているだろう。こう言ってみてもいい。サービスエリアが果たすべき機能は、世界中どこでも基本的に同じである、と。休憩所であり、軽食所であり、トイレである。もちろんそれをどの程度の洗練を持って実現化するかは、国によって異なるだろうけれど、大元にある設計精神は同じであるように思う。

設計。建物や空間の設計が独特というか、特異というか。訪れた大学のキャンパスは、バリアフリーを念頭に置いて作られたのだとは思う。階段横にスロープがあるし、エレベーターもある。しかし、その一方で、キャンパスには不要と思えるくらい段差が多い。コーヒーショップのまえには公園的な空間が広がっているが、そのあいだには段差がある。学内寮の入り口には階段が5段ほどあって、地面よりかなり高くなっているし、建物自体がエントランスよりも一段高いところに建てられている。

階数の数え方にも混乱させられる。エジプトはヨーロッパ方式に従っているようで、地階を1階と数えない。だからエジプトの言う4階は日本だと5階に相当する。それだけならまだいいのだけれど、どうも階段と階数がいまいち一致していないようにも見える。たとえばカヴィフィス博物館は「2nd floor」にあると壁の表示にはあったので、これは日本的な数えからをすれば「3階」ということになるわけだけれど、階段の感じからすると4階だった。

掃除。床に洗剤の原液でもつかっているのか、きれいといえばきれいだけれど、おそろしく滑る。

トイレの使い方のわからなさも悩みの種ではあるけれど、もっとも謎だと思うのは、男性小便器の高さだ。おそらく適正身長は175cmぐらいからだと思うものがスタンダードになっている。それより背の低いものはほとんど見かけないけれど、エジプト人男性の平均身長がそのくらいあるかというと、どうもそうは見えない。このあたりのあきらかに不釣り合いな配置がどのような計算に基づいてのことなのか、とても不思議に思う。

おつりのなさ。この手のあきらかな見込み違いは、観光客からすると、おつりの問題でもっと強く感じられるところだ。おつりが必要になること、そのために小銭を揃えておく必要があることなど、客商売をやっていれば絶対に承知していることだろう。にもかかわらず、ほとんどの商店やチケット販売所は、おつりを潤沢に持っていないらしい。客が払った紙幣で回していくというのが、エジプトにおける金の回り方の基本にあるように思う。だからなのか、おつりの端数が7から9になる(つまり5ポンド紙幣+1ポンドコイン/紙幣いくつかとなる)場合は、ひどく嫌われる。こうして、「もっと細かいのはないか?」「1ポンドはないか」と聞かれることになるし、「ない」と言われると非常に困った顔を見せられることになる。

煙草。水煙草が有名だが、普通の煙草も広く吸われている。禁煙になっている場所はいろいろあるが、レストランやカフェなどは喫煙OKのようで、灰皿がデフォルトでテーブルのうえに載っている。喫煙可能区域がますます狭められつつあるような国で希少な喫煙場所をどうにか確保して隠れるように吸っている人からすれば、エジプトの状況は天国のようなものなのかもしれない。

子どもの抱え方。なかなか変わった抱え方をするのを見かける。片方の肩のうえに担ぎ上げるようにしている。子どもは足を親の体の前と後ろにぶらぶらと投げ出している。もちろん子どもの顔が親の顔のほうを向くように、子どもが倒れ込むときは親の頭を抱えられるような向きになっているのではあるけれど、日本では見かけない抱え方だと思う。

英語の通じ方。友人の秀逸な言い回しを借りるなら、エジプトで通じる英語の多くは「自動販売機のコミュニケーション」なのかもしれない。想定にあるいくつかの質問には答えられるが、複雑なやり取りや予想外の質問には対応できない。だから、コミュニケーションは成立しているようで成立しない。言葉のキャッチボールというよりは、一方的な言葉の投げつけになってしまうことがある。RPGに例えるなら、あらかじめプログラムされたいくつかのやりとりをエンドレスに繰り返す村人たちと会話するような感触がある。とはいえ、彼ら彼女らが生存や労働のために必要としている英語とは、まさにそういうたぐいの英語なのかもしれないし、まさにそのために、彼女ら彼らは英語のフレーズやセンテンスを学んだのだろうから、内容のあるコミュニケーションができないと責めるのは英語しか話せない観光客の傲慢だ。結局かたくなに英語だけですべてをすまそうとしている自分のような人間が偉そうに言うことではない。

 

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20191230 Day 8 聖メナス修道院とアブ・メナ。

世界遺産アブ・メナを訪れるついでに隣りにある聖メナス修道院に立ち寄る。コプト教の施設で、まだ比較的新しい建物なのだと思う。大聖堂(という言葉をコプト教の教会に使っていいのかはわからないが)のなかにある聖書からのさまざまなワンシーンを描いたモザイク画に記されているサインによれば、新しいものは2000年代であり、周辺施設も建設中のところがちらほらある。

現代においてこのような壮麗な宗教施設を建造すると、どうしても新興宗教の怪しげな感じがただよってしまうのだろうか。不思議なことに、すべてがフェイクのように見えてしまう。丸天井に描かれたキリストにしても、使徒たちにしても、背景の鮮やかな水色にしても、柱や扉の彫刻にしても、オーセンティックなものであることは間違いない。天井はオールド・カイロ地区のとても歴史あるコプト教の教会で見たものと同じような感じであるし、造りにちゃちなところはない。しかし、一切手抜きなしに真面目に作られているからこそ、ますます新興宗教の金にモノを言われて作った胡散臭い施設と見分けがつかなくなってしまう。

アラビア語ギリシャ語のアルファベットで綴られた聖書を持つキリストという図像に混乱させられているせいで、余計にそのような変な印象を抱いてしまうのかもしれない。コプト教のイコンのスタイルだと言われればそれまでだけれど、透視図法に従わない平面的な画面構成を見るにつけても、ヘタウマという言葉が浮かんできてしまう。ともあれ、全体の雰囲気はギリシャ正教によく似ている気がする。

ここがコプト教徒にとって重要な場所であるらしいというのはわかる。大聖堂の裏手というか奥には、コプト教の高位聖職者や教皇の聖遺物があるらしく、熱心に祈りを捧げている信者がいるし、そのためにわざわざ車でやってくる家族がいるようだ。実際、滞在中、少数とはいえ人の流れが絶えることはなかった。

ユネスコ世界遺産に認定されているアブ・メナ修道院から歩いて小一時間ほどの距離にある。グーグルマップを頼りに歩いていく。一本道だからわかりやすいかと思いきや、そうでもない。そういえば修道院に来るために乗ったウーバーの運転手もかなり迷っていた。一般の知名度は低いようだ。アブ・メナまでの道は未舗装であるし、アラビア語の看板がわずかにあるだけだ。

そのような道すがらで羊飼いと遭遇し、ラクダ飼いとも遭遇する。なぜかフレンドリーに話しかけてきて、写真を撮ってくれとせがまれる。バイクの脇に立った写真を撮り、見せようとするが、写真自体にはあまり興味がないらしく、ちらりと見ただけで、道の脇のほうに向かって歩きながら手招きしてくる。その先にはラクダがいた。ラクダと並んでいるところをまた写真に撮る。握手を求めてきたので握手をしてみる。アラビア語がわからないからまったく意思疎通は出来ていないが、すごくいい人らしいのはわかる。握った手は意外と柔らかかった。

アブ・メナの場所が分からず、ウィキペディアで緯度経度を調べ、それをグーグルマップに入れ、GPS頼みで歩いていくと、どうにかたどり着く。世界遺産という漠然とした情報しかを頭に入っていなかったので、アブ・メナがどういうところなのかまったく理解していないというありさまだった。

遺跡の手前に簡素なバラックのような教会があり、ちょうどこちらがついたころ、その入り口から黒い僧服をまとった司祭が2人出てくる。2人ともかなり高位の司祭のように見えるが、なぜかフレンドリーに歓迎してくれる。そればかりか、その場にいた若者というには若くないが中年というには明らかに若い男性が、遺跡の案内役を務めてくれる。

彼の説明のおかげで、この遺跡が殉教者である聖メナスの遺体の埋められた場所に建てられた教会の遺稿であることが理解できた。彼らはどうにかして発掘を進めようとしているそうだが、水が出たり、エジプト政府が協力的でなかったりと、作業は難航しているらしい。

こういうとちょっと変に聞こえるかもしれないが、この遺稿はいまだ生きているような感じが強くあった。それはおそらく、コプト教の人びとが、この地をただ発掘して保存しようとしているのではなく、この地に修道院を再建したいという強い情熱を抱いているからなのだと思う。実際、聖メナス修道院はこの遺稿のある地に建てたかったのだが、エジプト政府がそれを許可せず、その結果、いまある場所に建てられることになったのだと言う。

遺跡を見て掘っ立て小屋のような教会のところに戻ってくると、先ほど歓待してくれた黒い僧服に灰色の髭の司祭が修道院に戻るところらしく、車に乗っていけと言ってくれる。面白いことに、おそらくその場にいるなかではもっとも高位にあると思われる彼が車のハンドルを握る。帰りの足を提供するだけでは不十分だと感じたのか、クラクションを盛大に鳴らして人を呼び、食べ物を持って来させ、その後また思い出したようにクラクションを鳴らし、水を持って来させる。こちらに昼食を振る舞おうと言うのだ。

恐縮していると、食べ物は聖なるものだからぜひ受け取って食べて欲しいと言うので、遠慮なく食べることにする。シラントロというかパクチーというか、香草の風味が強いベジタリアン用のターメイヤ―・サンドウィッチだ。彼は「ひとり2つ半」と繰り返す。

道すがら聞いた話をまとめると、彼は発掘プロジェクトを率いる人らしく、灌漑の問題といった工学的な側面と、考古学といった歴史的な側面の両方の学問を修めているのだと言う。もちろん彼の英語はそこまで流暢ではないが、そうした語学的な正確さとはまったく別の雄弁さや説得力のようなものがある。

期せずして不思議な歓待を受けてしまった。その多分な贈与に応えるために自分ができるのは、おそらく、このように彼との出会いを書き綴り、アブ・メナのことについて語ることぐらいだが、それがベストのことであるようにも思う。

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20191229 Day 7 エジプトのスーパー。

大学が出来たことで開店したというスーパーに入った途端、デジャブに襲われる。「そうか、メキシコで見たスーパーに似ているのか!」といきなり思い至る。

しかし次の瞬間、本当にそうかという気分にも襲われる。かなり不思議なフロア・プランのスーパーだからだ。1階に電化製品と雑貨、2階に食料品と雑貨。

食料品フロアは、生鮮食品2程度にたいして、パッケージや缶に入った棚が8ぐらいあるような印象。壁際に肉や魚コーナーがあるが、フロア中央には袋詰めの商品がきれいに積み重ねられている。そのくせ魚コーナーには氷のうえに魚が丸のまま並んでいたり、肉コーナーでは肉塊がぶら下がっていたりする。つまり肉も魚もパッケージにはなっておらず、その場で切ってもらったり量ってもらったりする必要がある。

それはある意味で、スーパーの利便性の対極を行くものであるように思うのだけれど(スーパーの利点とは、そうした注文のやり取りを省略できるところにあるのではなかったか)、夜8時近い時間だというのに、肉屋は意外と売れている。

スーパーの入り口はかなり厳重な荷物チェックがあり、大きなバッグは預けなければならないし、小さめの肩掛け鞄の場合は、シールを張ってもらうだけではなく、そこに係員のサインまでしてもらわなければならない。しかもそれが案外長いというか多い。アラビア語が分からないので何が書いてあったのかは不明だけれど、2㎝×3㎝ほどのスペースに4行ぐらいにわたってボールペンで手書きしていた。それほど盗難を警戒しているということなのだろう。

フードコートのようなものは店の外にある。サッカー中継のテレビが置かれている。放映しているのはイギリスの試合のようだけれど、実況はアラビア語で、なおかつそこにかなり深いリバーブがかかっていたので、初めはエジプト国内リーグの放映なのかと思った。スーパーの途中のあるカフェというかレストランでは、20人ぐらいの客がお行儀よくスクリーンに釘付けになっていた。アメリカで言うところのスポーツバーのようなものなのかもしれない。実況が非常に巧みで、意味も分からないのに、アラビア語の実況のリズムの律動とイントネーションの旋律が耳に心地よい。

 

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20191229 Day 7 カリフォルニアの亡霊、または郊外の風景のグローバル性。

今回のエジプト旅行の大きな動機のひとつは、エジプトのとある大学に出向中の友人を訪ねることだったのだけれど、実際に来てみて、不思議なショックを受ける。ここはアレクサンドリアから120キロくらいで飛ばす車で西に1時間ほどの距離で、彼に言わせると「田舎」とのことだが、おそらく比較的何もなかった土地に突如として出現させられた大学とそのキャンパス、そしてそれに伴う学生人口は、ここに、郊外としか呼びようのない歴史なき生活空間を作り出したように思う。そしてその風景は、驚くほど、カリフォルニアの郊外に似ている気がする。

どこがと言われるとなかなか説明しづらいのだけれど、クリーンだけれど無個性的な建物であるとか、道路脇に等間隔で植えられた街路樹であるとか、計画的に引かれたに違いない直線的な道路であるとか、居住地域とキャンパスと商業地域の明確な分割であるとか、そのあたりだろうか。空間の背後にすべてを計画した人為的な手を感じると言えばいいだろうか。

それが悪いというのではない。たしかにこれは快適な場所ではあるし、自然発生的な混沌的生命が抱え持つ厄介事から解放されている。しかし、その代償として、街が自然に発展する可能性を最初から手放しているとも言える。つまりこの街は最初から死んでいるのだ。これを発展させるには、行政の介入が必要であるし、そのためには資金が絶対的に必要だ。このような土地は管理を必要とするだろう。そしてその管理は、必然的に、上からのものにならざるをえない。

21世紀において新たに空間を創出させようとした場合、必然的に、カリフォルニア的な郊外がモデルになってしまうというのは、何か寂しい気がする。別の可能性の腹案を思い描けるというわけではないのだけれど、アーバインとは異なった郊外のあり方というのはありえないのだろうかと考えずにはいられない。

 

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