うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

記憶の記憶(トニ・モリソン『ビラヴド』)

“Oh, yes. Oh, yes, yes, yes. Someday you be walking down the road and you hear something or see something going on. So clear. And you think it’s you thinking it up. A thought picture. But no. It’s when you bump into a rememory that belongs to somebody else. Where I was before I came here, that place is real. It’s never going away. Even if the whole farm—every tree and grass blade of it dies. The picture is still there and what’s more, if you go there—you who never was there—if you go there and stand in the place where it was, it will happen again; it will be there for you, waiting for you. So, Denver, you can’t never go there. Never. Because even though it’s all over—over and done with—it’s going to always be there waiting for you. That’s how come I had to get all my children out. No matter what.” (Toni Morrison. Beloved.)

「ああ、そうだよ。そう、そうなんだ、そうなんだよ。いつかあんたが道を歩いてるとき、何かが聞こえてきたり、何かが遠ざかっていくのが見えたりするんだ。ひどくはっきりとね。それであんたは思うんだよ、これは自分が作り出したもんだって。頭のなかに浮かんだ画だって。でもそうじゃない。それはね、あんたじゃないほかの誰かの記憶の記憶に、あんたがドスンとぶつかったときに起こることなんだ。わたしがここに来るまえにいたところ、あの場所はいまも本当にある。絶対に消えてなくなることなんてない。たとえ農場が、木の一本一本、葉っぱの一枚一枚にいたるまで、すべて死に絶えてしまったとしてもね。画はそれでもあそこにあるし、それだけじゃないんだよ、もしあんたがあそこにけば――あんたは一度だってあそこには行ったことがないんだけどね――もしあんたがあそこにって、農場があった場所に立てば、また現れるんだよ。あんたのためにね。あんたのことを待ってるんだ。だからね、デンヴァ―、あそこに行かないなんてできっこないんだよ。絶対に。だってね、たとえ全部終わってしまったとしても――終わって片がついたとしても――いつまでもあんたのことを待っていて、あそこに現れるんだ。だからわたしは子どもたちを産み落とさなきゃならなかった。どうしようもないんだよ。」(トニ・モリソン『ビラヴド』)

遠い過去の恩に報いる義務:劉慈欣(リウ・ツーシン)「神様の介護係」、ケン・リュウ編『折りたたみ北京――現代中国SFアンソロジー』(早川書房、2018)

遠い過去の恩に報いる義務はあるか

人間文明に宇宙人という起源があったとしたら、そして年老いた宇宙人が地球にやってきて、人間文明の創造主であることを口実に、20億人にもおよぶ「神」の介護を求めるとしたら。劉慈欣の「神様の介護係」は、この壮大な奇想を肉付けした短編だ。現代の高齢化社会と、高齢化にともなって必ず表出してくる介護問題のことを思い浮かべれば、この物語が実はきわめてタイムリーでアクチュアルなものであることが見えてくる。しかし、ここで主題化されるのは、老人介護という具体的な問題の根本にある問いだ。生産性のない厄介者の老人をなぜわざわざ介護しなければならないのか、という問いである。

過去に受けた恩は未来において報いなければならないのか。なるほど、現在の繁栄が過去の恩恵のうえに成り立っている場合は、そうかもしれない。だが、もし現在を生きる人びとが、過去の恩恵と現在との連続性をうまくイメージできないとしたらどうか。過去の恩はあまりに遠い過去のもので、現在と関係ないように思われるとしたらどうか。

神々は35億年前に地球を訪れ、進化の種を残していったと言う。しかし、高度な文明を誇った神々も機械に頼るうちにすっかり知能は衰え、いまや二次方程式すら理解できないほどである。亜光速で運行する宇宙船は老朽化し、神々にはそれを修理する手立てはない。科学技術はブラックボックスと化している。神々が宇宙を旅する高度な文明の末裔であり、地球をいまのかたちに作り始めた立役者であることは間違いないし、地球がこの人々に負うところが甚大であることも間違いないらしい。しかし、だからといって、いたわってくれという神々を、全世界の各家庭が受け入れなければならないのか。ひと家族につき神様ひとりという平等な割り当てが妥当なのか。

 

介護と退化

介護問題がひとつの軸をなしているが、そこには文明の退化という問題が分かちがたく絡み合っている。神の介護が必要になるのは、数千年の寿命を持つ神の肉体が老いたという生物学的な事実のせいだけではなく、神の文明が老いたという社会的な現象のせいでもあるからだ。社会集団を可能にすると同時に、社会集団によって体現される文化や文明が老いるというのは、老いという生物学的なカテゴリーを社会学的なものに誤って当てはめた結果生まれてくる錯誤ではないかと思う部分もあるけれど、文明の誕生と死滅という循環論は、ヴィーコからノルダウからシュペングラーまで、西洋思想のなかでは根強い人気を保っているし、その事情は東洋思想においても同じだろう。

介護と老化は切り離せない。とくに社会学的なものの老化ということになれば、そこでクローズアップされるのは、当然ながら、身体的な衰えではなく精神的な衰えである。いまいるところに安住せず、前へ外へと、いまとはべつのところに出発していく冒険精神の衰えである。 

介護と引き換えに地球に引き渡した神々の科学技術のデータベースは、人類に大きな希望を与えた。人類が神々の文明に追いつく可能性を与えるかもしれないと思われたからだ。だからこそ、この大きな贈物と引き換えの介護という取引は、割の悪いものではないように感じられたのである。しかし、それがあまりに高度過ぎて現行の人類には理解できない代物であり、そこで説明されている技術を実現するための資源も欠けているということが判明すると、当初の歓迎ムードは反転し、神々はますます厄介者扱いされ、虐待禁止の法律が全世界的に施行されたにもかかわらず、虐待の対象にすらなり、家出した神々のコミュニティすら出現するようになる。

 

神を殺すか、神が死ぬか

介護問題に出口はない。介護対象の神を殺すか、神が死ぬか、その二者択一である。神を殺したくないと思うのならば、神が死ぬという出口によって物語を終わらせるしかない。介護の終わりは、介護される対象の消失しかありえない以上、介護問題は事実上解決できない。しかし、物語は終わらせなければならない。こうして、「神様の介護係」は、介護対象を失くすことで、介護問題そのものを失くしてしまおうとする。

「神様の介護係」は、神を死なせるのではなく、神が自主的に地球から去っていくというエンディングを選ぶ。それはデウス・エクス・マキナの裏返しのような終わり方だ。仲裁のために入場するのではなく、退場することによって、神々は問題を消滅させる。

 

初めて聞く兄弟たちとのこれからの争い

しかし、退場する神は、まったくべつの問題を残していく。神々が作った地球以外の子供の存在が明かされるのだ。そして地球の兄弟たちは、より暴力的で侵略的な存在であるという。地球にやってくる前に、神々は兄弟星で同じように介護を求め、ひどいめにあっていた。宇宙船を強奪されたり、人質にとられたり、強迫されたり。ここではすべてが血縁のメタファーによって語られている。親という神、兄弟という別の地球。まるで介護問題は、血縁関係のなかで対処されなければならないかのように。

それはもちろん、現実世界における介護の問題へのコメンタリーなのだろう。親の介護をめぐる兄弟姉妹間の争いである。老親介護の押し付け合いであり、老親介護からの利益をめぐる問答である。しかしここでは、話し合いによる円満な解決という可能性が、最初から排除されている。

負けないためには相手を滅ぼすしかない、神々はそうほのめかす。ここで皮肉に思われるのは、攻撃性という特性が、神という親的存在から受け継いだものではないらしいこと、それから、地球の兄弟たちの攻撃性にたいする防衛反応として先制攻撃が奨励されているらしいことである。人類の攻撃性は、神の手から外れたところで進化したものなのだろうか。あつかましいのは、遠い遠い過去のことを持ち出し、恩を売り、人類に引け目を感じさせようとする神々かもしれないが、すくなくとも神々は物理的な意味では暴力的ではない。

 

介護要求を正当化するために

介護をめぐる深刻な問いかけがここにはある。親子の情のようなものを取り払ったあとに残るのは、ギスギスした人間関係と剥き出しの損得関係だ。介護の安全保障のために、介護される側は、パターナリズムの名のもとに恩を押し売りし、介護をする側に、罪悪感を植えつけねばならないし、そのための仕込みを早いうちからやっておかなければならない。心理的な負い目を相手に与えることによって、介護の要求を後で出来るようにしておかなければならない。

そのためには、飴と鞭の両方が必要になる。だが、そこで与えられる飴――知識や知恵という贈物であれ、遺産という金銭であれ――は、確実な保証にはならないだろう。飴だけが盗まれかねないし、鞭だけで要求をのませるには、身体的な衰えが足かせになる。結局のところ、損得関係を主軸にした関係は、損得関係の悪化によって簡単に崩れてしまう。

 

介護が必要とする他者と外部

介護は必ず助けを必要とする。それは他者依存関係的なものにならざるをえない。物理的にも肉体的にも自らを支えることができない以上、老人は、誰かに面倒を見てもらわなければならない。問題は、この介護者をどこに見出すのか、である。

「神様の介護係」が暗黙の裡に告げているのは、介護役の外注の必要性である。神々の文明は、自分たちの社会の内部に介護者を作ることを目指さなかった。介護をしてくれる機械はいるが、介護を受け持つ奴隷階級は存在しない。その意味で、神々の社会はきわめて平等主義的であるし、だからこそ、老いた神々はみな判で押したように東洋の仙人のような格好をしているのだろう。

しかし、社会の内部が平等主義的に構成されていることは、そうした社会が、社会の外部とヒエラルキー的な関係を切り結ばないことを意味しない。むしろ、内部の平等主義を確保するためにこそ、外部という搾取の空間が必要とされるのである。内部で解決できないことは、外部からのリソースを見つけ出せばいいのだ。ある中国の山間部の家庭に割り当てられた神が、人間の歴史におけるつまづきを語るなか、漢帝国ローマ帝国に言及するのは、その意味で理にかなっている。帝国はまさに外部と内部の力学によって、搾取する側と搾取される側の区別によって、成立している側面が大きいからだ(とはいえ、神が同じところで言及する、漢とローマの二大帝国の接触は、人間文明の歩みを加速させただろうという説は、また別のものであるし、まったく別の意味で興味深い)。

それはあたかも、現実の介護問題も、家族内でまかなうのではなく、家族外に依存させればいいと言っているかのようだ。家族で介護をするのではなく、ヘルパーを雇ったり、介護施設に入居させたり、というように、である。少なくとも神々が試みているのは、そのようなことだ。しかしだとすると、神々と地球人類の関係は、親と子という直系ではなく、やや遠めの親類であるとか血縁ありの養子関係のようなものに近いというべきかもしれない。

「神様の介護係」の根底で肯定されているのは、内と外の意識であり、内と外の線引きから引き出される搾取関係だ。そこから、文明にとっての外に出ていくことの必要性が導き出される。文明は外に出ていくという進取の気風によって成長するが、そうした成長を支えるのは、自己成長の歓びというような無目的なものではなく、未来の介護役の探索という実利的なものである。もちろん、文明の拡大のなかに、プラグマティックなもくろみとは無関係な、ヒロイックで自己犠牲的な物語がないわけではないし、神はそのような勇敢で壮麗な勲をなつかしそうに語るだろう。しかし、そこから、利害関係の計算が完全に抜け落ちることはない。

 

内の問題は外によって解決できるのか 

生物学的な老いがもたらす負担から逃れるためには、帝国を拡げ、搾取可能な外部を作り出すしかない、そのためには、文明の老いをつねに拒否し、進取の気風を養育していかなければならない。「神様の介護係」の地球は、神が去っていった後、そのような課題に直面するだろう。

しかしここで考えてみるべきだと思うのは、外を作り出すことで内の問題をどうにかできるのか、という問いである。外注することで内部の負担を減らすというのはひとつの解決ではあるが、それは結局のところ、問題の先延ばしであって、根本的な解決ではないのではないか。

とはいえ、老年という生物的必然性を内在的に解決することは、はたして可能だろうか。老いを回避できるような医学が近い未来に発明される可能性はある。しかし、そうなってくれば、人口増加という別の問題が出てくるし、生がそこまで長く生きるに値するものであるのかという問題も出てくる。長寿や不死の問題であり、不老不死の問題だ。生体的な長寿からくる問題は神がすでに体験しているし、長寿による神々の文明の退化は、長寿が介護問題の解決にはならないことをすでに示している。

 

ジャンルのイデオロギー

拡大、侵略、搾取、それが「神様の介護係」という物語世界の基底をなしているように思う。しかしこれらの暴力的な性質は、個人的なものというよりは、集合的で歴史的なものだろう。感じ方や考え方のデフォルトの方向性がそうなっているのだ、とでも言おうか。それが作者個人の世界観の表明なのか、現代中国の隠喩なのか、現在の地球の隠喩なのか、それともSFというジャンルに内在する論理なのかは、いまひとつよくわからない。しかし、こうした傾向に異議を申し立て、別の傾向を描き出そうとしたのがアーシュラ・ル=グィンだというのは、よくわかる。劉のSF物語は、その意味で、きわめてオーソドックスな系譜に連なるものであるように思う。

地球から去っていく神が、厄介になった家族に贈物をする。男児が欲しがっていた腕時計型の通信機を送るのだ。そしてそれと引き換えに、彼は高校の教科書――数学、物理、化学――の教科書をもらっていく。時間はたっぷりあるのだから、もういちど学び直し、文明を立て直すことも可能だろう。そうすれば、遠い遠い宇宙の探索に出かけたかつての恋人とふたたび巡り合うこともできるかもしれないから、と。

そこには科学的な知とその可能性にたいする美しい希望が描きこまれている。しかしその希望はどこか科学偏重的であり、ロマンチックではあるが、クリシェ的でもある。壮大な王道であることが悪いはずはないが、王道はつねにオーソドックスなものを支持し、メインストリームをくつがえすような別の可能性をきわめて自然な手つきで排除していくものではないか。このアンソロジーに収められた2つの短編から劉の作風をそう言い切るのは不当であるし、劉の王道主義は単なる保守主義とは別物であることは間違いないと思う反面、物語自体はどこか予定調和の領域に収まっているのではないか――とはいえ、その領域自体はとてつもなく広大であり、それゆえ、読者からすると、あたかも予定調和の外からもたらされたかのように錯覚されるかもしれないが―――という気もしてしまう。

特任講師観察記断章。長い長いメール。

特任講師観察記断章。「もし授業評価点で単位取得できるということがわかったらそれで安心して夏を満喫して来学期末にまた同じやりとりを繰り返すことになるのだろうかという危惧は少なからずありますし、授業評価点で単位取得できることが期末テストの結果のふがいなさという見たくも向き合いたくもない現実から目を背けるための偽薬として機能するかもしれないしという危惧もないわけではありませんし――授業評価点が充分あることは、あなたが今学期の授業にそれなりに真剣に取り組み、与えられた課題のためにそこそこ努力し、まずまずの結果を収めたということ以上でも以下でもなく、あなたの英語能力自体を保証するものでは全くない、この明白すぎるほどに明白な事実はここであえて繰り返すほどのものではないかもしれませんが、それでも念のため煩雑であることを承知のうえで強調しておきましょう――、「あなたの授業評価点は単位取得に充分な水準に達していることをここで教えることが、果たして教育上有意義な行為であるのだろうか」という懐疑の声が、「いや、学生をもっと信頼すべきだ」という別の声の音量を上げようとしたまさにその瞬間、信頼したいという気持ちをかき消すかのように暴力的にわめきたてるのですが、かといって、水準以上ではある授業点によって単位は取得できていると教えることと引き換えに、夏休みをとおしてきちんと自学自習することを約束するように求めたところで、強制力のない約束など所詮は無意味な空約束でしかないのですから、同じことを繰り返すことによって最終的に不利益を甘受しなければならないのはほかでもないあなたであること、それから、先延ばしにすればするほど重く厳しくなっていく不利益をくつがえすために払わなければならない努力もますます膨れ上がっていくこと、その2点はけっして忘れるべきではない、と言うにとどめておきましょう。/それではよい夏休みを」

甘やかな惑星宿命論に身をゆだねる:新海誠『天気の子』(2019)

ポスト・エヴァとしての新海アニメ

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』にたいする返答として『天気の子 Weathering with You』を捉えてみると、セカイ系的物語世界とギャルゲー的プロット展開で新海誠の新作が取り扱おうとした責任感と罪悪感の問題がクリアに浮かび上がってくる。しかしこの比較は、エヴァの物語と新海の物語の類似点ばかりではなく、新海の新作がエヴァの路線を行きながら、それとは別の地点を目指しているらしいことも、浮かび上がらせてくれる。

 

責任感と罪悪感の問題

『Q』は罪悪感から解放されたくて、自らが犯した罪の責任を取りたいのに取らせてもらえなくて、自らが犯した罪をなかったことにしたくて暴走した挙句、さらなる罪を犯しそうになる少年の物語だ。それは「あったこと」を「なかったこと」にするという不可能にたいする自暴自棄な挑戦であり、無残なまでに茶番な敗北の物語だった。

君の名は。Your Name』もまた、「あったこと」を「なかったこと」にしようとする少年少女の物語ではある。しかしここでもくろまれるのは、過去の出来事の完全な取り消しではなく、「あったこと」(隕石による村の破壊)を部分的に「なかったこと」(村人の救済)にするという妥協なのだ。だから、ほぼ完全なバッドエンドな『Q』とは裏腹に、『君の名は。』はそれなりのハッピーエンドで終わる。

すれちがいの哀しさと寂しさを執拗に主題化してきた映像作家のそれまでの作品群と並べてみると、瀧と三葉が最後で出会ってしまうという『君の名は。』のエンディングは、作家性の放棄であったかのように見える。しかし、ここでクローズアップしてみたいのは、『Q』と並べてみた場合、『君の名は。』には、罪悪感や責任感の問題が希薄ではなかったかという点だ。それはおそらく、村を滅ぼすことになる隕石の責任が、瀧にも三葉なかったからだろう。

未来から過去を眺めることができたふたりには、過去を救う責任が発生していたかもしれない。カッサンドラ問題である。わたしはこれから起こる災厄の原因ではないけれど、悪いことが起こると知っている、だから、これから起こることによって滅ぼされる人たちにそれを伝える倫理的な義務や責任がわたしにはあるように思うけれど、どうすればいまだ起こっていないことを未来の当事者たちに信じてもらえるだろうか、いまだ起こっていないがこれから必ず起こるというわたしの予言は狂気のしるしと見なされるだけではないだろうか。

君の名は。』において、隕石被害の存在論的位置づけは揺らぎのなかにあった。三葉と入れ替わった未来世界の住人の瀧にとって、隕石の到来と村の崩壊は、瀧の記憶のなかでも瀧の未来世界においても「すでに起こったこと」であるけれど、入れ替わり先の三葉の過去世界では「まだ起こっていないこと」だった。瀧と入れ替わった過去世界の住民である三葉にとって、それは、三葉の認識のなかでは「まだ起こっていない」ことであるのに、三葉がやってきたのよりもすこし後の過去世界では「すでに起こったこと」になっていた。

君の名は。』は、言ってみれば、過去世界でこれから起こることになる災厄にたいして先取り的に抱かれた責任感と罪悪感を解消しようとする物語でもあった。キャラクターの入れ替えという物語装置を採用することで、タイム・トラベルのパラドクスーー改変された過去は改変される前の現在につながるのか――を棚上げにした、ある種のご都合主義的物語でもあった。そこでは、過去の出来事は(ある程度までなら)なかったことにできてしまうのであった。

 

災厄の動かしがたさ、またはSFのルール

『Q』において、起こったことは起こったことにほかならない。その存在論的確定性は絶対に揺るがない。エヴァの世界において、出来事は不可逆的なのだ。セカンド・インパクトは起こってしまっているし、碇ユイはこの世界から消えてしまっている。死者は蘇らないからこそ、その代わりにクローンが作り出される。

代替物がある。失われたものそのものを現在において取り戻そうという絶望的な切望がある。しかしそれは、過去の事象に遡って、失われたことそれ自体をなかったことにすることではない。

フィリップ・K・ディックの秀逸な定義によれば、ファンタジーとは、未来永劫不可能なコトやモノについての物語であり、SFとは、いまはたとえ不可能だとしても科学的にいつか可能になるはずのことについての物語である。時間や物事の不可逆性というわたしたちの世界の物理法則を、物語世界の基本原理のひとつとして受け入れている点で、エヴァはやはり、どうしようもなくSFなのだ。タイム・トラベル的な構造を有しているとはいえ、科学的原理ではなく、口噛み酒という宗教的な儀礼アイテムによってそれを最終的に担保している『君の名は。』は、つまるところ、ジャンル的にはファンタジーである。

『天気の子』もまた、鳥居で祈るという非科学的行為で天候変動の力を授かるという点では、きわめてファンタジー的ではある。しかし、『君の名は。』とは違い、世界のやり直しの利かなさを受け入れている点では、はるかにSF的というかリアル世界的だ。

『天気の子』は『Q』と『君の名は。』の中間地点にある。

 

ダウナーな『Q』、または身勝手な個人的欲望の負の連鎖

『Q』が描き出したのは、破滅の途上にあるポスト・アポカリプスな世界だ。『破』のラストで綾波レイを救いたいという自らの欲望に素直になった碇シンジがもたらしたサードインパクト未遂の帰結だ。それから14年後の世界で目覚めさせられて戸惑うばかりのシンジに、彼の身勝手な望みのせいで崩壊しつつある世界が、残酷なまでに突きつけられる。

綾波レイというひとりの存在を救いたいという個人的な欲望が世界全体に及ぼした傷跡の深さを認識するほどに、そして救ったはずの綾波レイが彼の知っていた彼女ではないことを知るほどに、碇シンジは自らの犯したことの罪深さにたえられなくなっていく。自分の手元には何も残らず、世界はただ傷ついていた。誰も何も幸福になっていなかった。

圧倒的な徒労感だけが残った。自己も世界も犠牲に捧げた究極の利他的行為――「世界なんてどうなってもいい、自分はどうなってもいい、でも綾波だけは助ける」――の絶望的なまでの無益さを目の当たりにして、碇シンジの精神は崩壊していく。

かつての上官たちは責任の取り方を示してくれない。葛城ミサトは「何もしないで」と冷たい目で見下すように言い捨てる。「何もせんでください」とトウジの妹の鈴原サクラは懇願する。「するな」というネガティヴなコメントは、彼が過去においてしでかしたことの罪の大きさばかりか、彼がこれからしでかすかもしれない新たな罪のことを意識させずにはおかない。

「するな」という否定的な命令は、自らが罪深い存在に「なった」ばかりか、罪そのもので「ある」ことを、自分のいまの存在が罪そのものと分かちがたく結びついていることを、彼はもはや存在することをどうにか許されているだけの危険で無用な存在であることを、彼の心に刷り込んでいく。

そこから生まれてくるのは自己否定だけだ。そして、その自己否定の乗り越えは、未来ではなく、過去に求められることになる。渚カヲルに促されて立ち上がった碇シンジは世界を取り戻そうとするが、それは世界を前に進めて復興させることではなく、世界をサードインパクト前に戻すことであった。「起こってしまったこと」を「なかったこと」にすることによって罪を償おうとするのである。それが碇シンジがすがりついた責任の取り方だった。しかし、それは壮大な茶番であることが判明する。カヲルさえもが碇ゲンドウに欺かれていた。

世界をサードインパクト前に戻すことで自らの罪の意識から解放されたいシンジにしても、人類補完計画によって碇ユイとひとつになりたいと願うゲンドウにしても、ある意味では同じ方向を向いているのかもしれない。解決は過去に、ここではないどこかにある。現在は否定されるし、現在の延長にある未来にも希望が持てない、だから過去をやり直すか、ここではないどこかに逃避するしかなくなってしまう。そして、その試みは、アスカとマリの介入によって無残にも失敗するのだった。

身勝手な個人的欲望によって世界をめちゃくちゃにしてしまった少年が、世界をもとに戻すことによって自らの罪を贖いたいという別の身勝手な個人的要望によって、世界を再びめちゃくちゃにしかけるのが、『Q』という物語だ。

それは、失敗して当然の物語だった。改変できない世界を改変しようという世界の理に反する行為でしかなかったからだ。というより、こう言うべきだろうか。そのラインを踏み越えてしまえば、エヴァの物語はますますファンタジーのほうに逸れていくことになるだろう、と。『君の名は。』も『天気の子』も、ファンタジーのほうに逸れていくことによって、失敗の物語を、成功の物語とは言いがたいとしても、失敗ではない物語とは言うことのできる何かへと、作り変える。

 

世界とつながるという解決

『Q』がひどく不満を誘うのは、アンチクライマックス的であるからというより、そこに逃げ道らしきものさえ描かれていないからだろう。世界は救われないし、碇シンジも救われない。シンジとレイとアスカがぽつぽつと歩いていくところで終わっているのは、『Q』が3作目という中途半端な位置づけにあるからというよりも、それ以外のエンディングを物語世界の論理が許容しないからだろう。

自己啓発セミナーと揶揄されつつ、TV版は、解決と言いがたいとしてもそれでも一応は解決策ではある「すべてはこころの持ちようだ」というあたりまえすぎるほどにあたりまえな終わり方をしていた。「ひとのこころは脆弱で、晴れていれば気分よく、雨が降っていれば落ち込んだ気持ちになる、でもだからこそ、「ぼくはここにいていいんだ」というポジティヴな決意ひとつで自我の殻――ATフィールドーーは一瞬で砕け散り、世界と再びつながることができるのだ」、と。

自己を陽気に変革して、社会と積極的につながりなおすというTV版のセラピー・シナリオを、旧劇版は完全に反転させる。旧劇版では、碇シンジを人柱にした人類補完計画によってすべての人のATフィールドが融解し、すべての人の心が解け合い、混ざり合う。陰性な解決である。わたしから進んで社会とつながるのではなく、強制的に社会と接続されるのだから。

しかしそれは同時に、社会の消滅を意味してもいた。自我境界が完全に溶けてしまったところでは、個人と社会という対立自体が消え失せてしまう。そこにはもはや、個と多/他のような二項対立は成立しなくなる。旧劇版の人類補完計画が、多数の肉体が個々のかたちを保ったままひとつの集合体として王なる肉体を形成していたホッブズリヴァイアサンではなく、すべての生をそのうちに吸収した滑らかで継ぎ目のない単一のエネルギー体的な綾波レイの肉体によって表象されていたのは、その意味できわめて示唆的だ。 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a1/Leviathan_by_Thomas_Hobbes.jpg

 

セカイ系独我論

新劇以前のエヴァは、個とその外界――「社会」や「世界」と呼ばれるものであり、日本語的な表現を使うなら、「世間」と言ってもいい――のつながり方に、力点が置かれていた。個の問題がそのまま世界の命運とダイレクトにむすばれてしまうという意味では、碇シンジというひとりの少年の決断――自らATフィールドを解き、個を保ったまま社会とつながるのか、それとも、すべてのひとのATフィールドを強制的に溶かし、個を捨ててみんなとひとつになる/みんながひとつになるのか(こう言ってみてもいい、変わるべきはどちらなのか、自分なのか世界なのか)――が世界のかたちを決めてしまうという意味では、エヴァの物語はまちがいなくセカイ系の系譜に属している。

しかしながら、そこでセカイが明確な形をとることはなかった。シンジにとっての外界とは、まずなにより不在の生者の父との関係であり、不在の死者の母との関係であり、だからこそエヴァは、古典的な家族物語構造やフロイト精神分析祖型――エディプス・コンプレックス、または父を殺して母を娶りたいという抑圧された欲望――にぴたりとはまる部分があるのだけれど、垂直的な親子関係が人間関係の軸になるからこそ、水平的で対等な友人関係はつねに従属的なところに置かれてしまう。

「ボク」を認めることができるのは「父さん」(でなければ、「母さん」に相当する者)だけであり、友人や恋人からの承認では駄目なのだ。エヴァの物語が横の関係に広がるとき、それは、偽装された縦関係(母のクローンである綾波)であるか、縦関係を共有する者たちの連携(不在の死者の母に認められたいアスカ)であるか、さもなくば、群衆的で匿名的な他者(補完計画に吸収される有象無象)でしかない。

渚カヲルが特異なのは、彼が、縦でも横でもないポジションを占めているからだろう。しかし、同時に、エヴァの物語世界のロジックのなかでは決して叶えられない関係でもある。だからこそ、カヲルとシンジの物語は短命でしかありえず、ハッピーエンドにはたどり着かない。

対等な存在による水平的な関係というベクトルは、エヴァの物語の主軸になりえない。

 

新海がエヴァから引き継いでいるもの、または半自律的な風景

新海の映画は初期のものから一貫して、エヴァ的な雰囲気を引き継いでいる。しかしそこで引き継がれているのは、もしかすると、アポカリプス的な世界観であるとかセカイ系といったジャンル性よりも、映像的表象的なものかもしれない。たとえばエヴァTV版第1話の夏の陽射しとセミの鳴き声だ。ノスタルジー的な、ここでありながらここではないような、そんな不思議な空気観。その上流にあるのは、押井守の『ビューティフル・ドリーマー』の終わらない学園祭前夜のニュアンスだろうか。

ここに共通するのは、風景や背景でしかないようなもの――たとえば、かげろうが立ち上りそうに暑い道路に並び立つ電信柱と電線、響き渡るセミの鳴き声、夕暮れのなかで生き物のように伸長するジオフロントのビル群、ウォークマンのウィンドウからのぞくテープ――によって、何かしらの感性を情動を呼び覚まそうとする手法だ。

彼らの描く風景は、風景であって風景ではない、風景以上の何かである。物語展開に絶対必要な情報というわけではないし、空間をただ埋めるだけの付け合わせではない。しかし、たとえばシャフトの『化物語』がやるような、物語展開とはほとんど無関係に、それ自体の美しさやお洒落さによって自律する様式化された絵としての背景でもない。

遠景から捉えられた雨上がりの光で照らし出されるビル群、見上げるようなかたちで映し出される雨に濡れたビル群、カラフルなネオンサイン、入り組んだ路地のおくにある安アパート、それらの情景は物語展開に必要ではあるが、必須というわけではない。それらがなくても物語は成立する。しかし、彼らの映像が強い心理的喚起力を持つのは、物語展開上の必然性を持たないそのようなシーンのおかげである。

 

現実効果としての細部描写の自律した美しさ

ロラン・バルトフローベールの短編「純な心」の冒頭に登場する晴雨計に言及しながら、プロットを稼働させるために必要な細部と、プロットを稼働させるには不必要な細部とを、区別している。

古典的探偵小説ならば、すべての細部は推理のための手がかりとしての価値しか持ちえない。そこで晴雨計が出てくれば、天気がのちに重要なファクターになったり、それが凶器として使われたりするというようなことしか意味しえない。しかしながら、プロット上は無意味でも、それがあることによって、物語世界の真実性を高める効果を発揮する細部もある。晴雨計は、19世紀のブルジョワ家庭の階級性を表す物品であり、物語設定に真実味を持たせるための記号なのだ、というのがバルトの議論である。たとえば『コナン』や『金田一の事件簿』における細部描写は前者の部類に、『ナニワ金融道』や『ウシジマくん』における細部描写は後者の部類に入るだろう。後者のような、物語世界のリアリティを高めるためだけに存在しているい細部が発揮するものを、バルトは現実効果と呼んだ。

『天気の子』は現実効果を醸し出すディテールであふれかえっている。陽菜のアパートの窓にぶらさがっている菱形のきれいな色のガラスかプラスチックが数珠状につらなるオブジェ、安物そうではあるけれど印象的なデザインの円テーブル、それらは陽菜のアート的な感性を裏書きするものであるし、台所で水耕栽培されているネギは陽菜たちの節約的で質素な生活を物語っている。

しかし、ここで重要なのは、そうした細部が、陽菜たちの生活の貧しさを表現するための単なる記号として使われているわけではないということだ。もしそのように使われているとすれば、新海の風景からあれほどの情報量を感じることはないだろう。新海の映像の細部には意味があるが、その機能は意図的に不透明なままだ。記号的な意味に収まりきらない、現実効果的な余剰があるからだ。

いや、この説明でもまだ不十分だろう。新海の風景は、物語世界の厚みを増すための装置であると同時に、 物語世界から浮遊して存在しえるほどの独自の自律した美しさを備えている。物語の厚みを増すための細部でさえ、それ自体の美しさで自立する絵画に仕立て上げている。新海の描写の抒情性はそこにある。

 

物語の厚みのための風景に潜むなくてもいい伏線、または細部を統合する全体

しかし新海の現実効果的な細部には、物語の進展に間接的に寄与するものもある。新海の物語が謎解き的な面白さを兼ね合わせているのは、物語世界のリアリティを高めることにひたすら奉仕するために作られたような、ほとんど描写のための描写と言ってしまいたくなるような、風景表象として自律しているように見える美しいシーンに、なくてもいいような――しかしあったことに気がつけば気がついた視聴者が思わずニヤリとできるような――伏線的ディテールが隠されているからだろう。たとえば、陽菜の誕生日が手書きで書きこまれている冷蔵庫のカレンダーのように。

プロットの説得力のために物語世界のリアリティを高めるための思わせぶりな細部をそこかしこに氾濫させていたエヴァと、プロットから半ば自律したところで物語世界のリアリティの密度を極限まで濃くするために細部を執拗に描きこむ新海の映画は、似ているようで似ていない。

エヴァが謎解き本の乱造を誘ったのは、あれらの細部がどんなふうにも解読される余地を残していたからだろう。もしエヴァの細部が、作り手のコントロールから外れていくようあらかじめデザインされていた遠心的で遊離的なものであったとしたら、新海の細部は、新海のコントロールから外れないようにデザインされている求心的で統合的なものであると言っていい。

なるほど、新海の風景の細部は、あまりに緻密で、すべてが新海の意識下にあるとは思えないかもしれない。しかしそれは、新海のコントロール範囲があまりに広いーーというのも、彼がコントロールしようとしているのは、物語の進展というよりは、物語世界の設定のほうだからだ――ので、一見したところ、視聴者が好きなように解釈していいように思われるだけなのだ。こう言ってみてもいい。新海の意図とは、風景の細部に意味を付与することではなく、細部のひとつひとつに絶対的な存在理由を付与することである、と。

新海の映像のディテールは、まさに、「ただそこにある」ものだ。描かれたものである以上、すべては描き手が恣意的に書き込んだものにすぎないのだが、にもかかわらず、まるですべては必然の理にしたがってそこに存在しているかのように感じられる。スクリーンは、スクリーンの向こうに確かに存在している風景を忠実に写し取っているかのように感じられるのだ。アニメ絵の向こうに現実のモデルが存在しているかのように。

しかし、新海の映像そのものの風景は現実には存在しない。もちろん、モデルになった現実の風景はある。だからこそファンによって聖地巡礼が行われるのだけれど、にもかかわらず、新海の風景はスクリーンのなかにしか存在しない虚構である。現実効果によってすみずみまで充たされているがゆえに、まるで現実をそのまま写し取ったかのように感じられるが、それは現実の風景よりもはるかに過剰なものである。

ただそこにあるものの秘密を完全に解読することはできない。そのような明かしえぬものを内包するのが、「現実そのもの」だ。新海の風景の根源的な無意味性ないしは超‐意味性は、そこに現実そのものに似た何かが表象されているからだろう。「似た何か」というのは、新海の映像はつまるところ、物語由来ものだからであり、彼の作り出した虚構でしかないからだ。しかしながら、にもかかわらず、新海の映像の細部は、創造者その人によっても究極的には説明しきれないものではなかろうか。

 

音と絵の相補的で相互自律的な関係

新海の映像の代名詞である美麗な風景とはまさにそういうものだ。物語に依存せず、それ自体として美しい。きわめて写実的でありながら、巧みにアニメ絵に落としこまれている。記号的な意味を持ちながら、既存の意味に容易に変換されきらない余剰がある。現実の写し絵でありながら、それ以上のものだ。現実以上にミステリアで、そして、確かなものである。

意味の不透明性から生まれてくる存在の確かさが、見ることの快楽をくすぐる。そして、その確かな存在の手触りが、強いノスタルジアをかきたてる。

かき乱す、と言ってもいい。『秒速5センチメートル』の最後は、山崎まさよしのミュージックビデオのようでありながら、それ以上のものだ。山崎の音楽の歌詞内容に完全に依存しているように聞こえながら、新海の物語の延長にある。相乗効果がある。そのおかげで、山崎まさよしの歌と、新海の映像とは、互いに補完関係にありながら、依存関係にはなく、一方から他方が引き出されるという因果関係ではなく、パラレルな共‐創造関係にある。それは『君の名は。』でも『天気の子』においても同様だ。

映像も音楽も、新海においては、物語のためのものでありながら、物語というプロット‐時間軸とはパラレルに置かれた空間演出的なものだ。新海の作品では、映像も音楽も、半‐自律的状態にある。

新海の音楽の使用法がPV的である、つまり、物語のために音楽が付けられているのではなく、音楽のために物語が使われているように感じられるのは、そこで、物語の展開の速度やリズムが変わってしまうからだろう。

新海は物語を動かすことがうまくない作家だ。極論すれば、新海の物語には、ふたつのリズムしかない。実写のようにすべてが事細かに描かれ、現実の時間と同じ速度で物語が進んでいくか、さもなければ、日常のなかの繰り返しが圧縮され加速的に提示されるか、そのふたつしかない。『君の名は。』でも『天気の子』でも、後者に当たるのはバイトのシーンだ。それは、主題歌とともに疾走する、見ていて気持ちのいい箇所でもあるけれど、同時に、物語が早送りで進み、いまいち訳も分からぬまま、キャラクターのあいだに深く親密な関係が築かれてしまうシークエンスでもある。早送りはスキップに似ている。そこではなにかが抜けている、なにか未知のエピソードがあいだにあったはずだという印象を抱いてしまう。

こう言ってみてもいい。新海は物語世界の厚みを出すことに長けているが、プロットの奥行きやキャラクターの肉付けがうまくない、と。なるほど、彼は持ち物や部屋のインテリアによってキャラクターの生活や性格を描き出すことはできる。しかしながら、キャラクターの何気ない仕草や動作によって、キャラクターを唯一無二の存在に引き上げることができない。

こう考えると、『けいおん!』の日常の描き方、反復的でありながら徐々にキャラクターの関係が深まっていくような物語運びは、とても見事なものだったのだということを、再確認させられる。『けいおん!』のアニメの成功は、もちろんキャラ立ちのよい4人組ないしは5人組という常套句が最高にハマったというコンビネーションの妙もあるだろうけれど、アニメが成し遂げたキャラの身体表現の上手さが、キャラをそれだけで自律したものに仕立て上げ、ちょっとした振る舞いがそのままキャラの真実性の証になるようなところにまで到達していたのではないだろうか。

 

新海のキャラクターのモブ性

新海におけるキャラクターの真実性の弱さは、ある意味、ギャルゲーやエロゲーから引き継がれたものかもしれない。ギャルゲー的キャラがテンプレ的なのは、それが属性の寄せ集めでしかないからである。東浩紀が述べているように、そうしたキャラの作成原理を成すのは、データベース的な思考だからだ。キャラクターは、彼や彼女が登場する物語世界とフィットしマッチするように生み出されるのではなく、あれこれの既成の物語世界から抽出されたデータベースからカスタマイズされるものだからだ。そうなってくると、キャラクターが物語世界に存在しなければならない理由は、物語そのものには求められないことになる。作者がそう望むからか、さもなければ、プレイヤーがそう望むからか、この二択になる。

当然ながら、ここで新海が選ぶのは前者の道だ。その点において、新海は商業的というよりは同人的なのかもしれないし、新海がもともと自主製作畑の人間であったのは偶然ではないだろう。誰かが見たいものではなく、自分が見たいものを作り出しているという意味で、彼はアーティスト的であると言っていい。

しかしその結果出来上がったキャラクターは、かなり薄い。モブ的とさえ言っていい。それは造形が特徴的ではないという意味でもあるけれど――それはもしかすると、テンプレ的キャラがテンプレ的な特徴(髪型や服装)を持つことのアンチテーゼなのかもしれない――内面の動機づけが曖昧であるという意味で考えたほうがよい。

そのように造形されたキャラクターが表象するのは、彼や彼女だけの物語というよりは、彼や彼女のようなシチュエーションにいる不特定多数の人間がつながりやすい物語だ。新海の映画がキャラクターの名前を冠した題名を持たないのは当然である。

 

「遠くにあるどこかへ行きたい」

新海の映像のキャラクターのモブ性と匿名性がもっとも象徴的に表れているのは、Z会のCМだ。離島に住む女の子と、都会でアルバイトに明け暮れる男の子、それぞれの生活が細やかに描かれる。家族に囲まれ、豊かな自然のなか、かわいらしい小物で彩られた自分の部屋で勉強する女の子、コンビニのバイトをし、寝静まった夜に台所の机で勉強する男の子。

ここでふたりが匿名のままであるのは、ふたりが全国の受験生の2例にすぎないからなのだろうけれど、ふたりは本当に、全国の受験者を代表し、Z会利用者を代表しているのだろうか。このような学生たち――塾の無いところに住む地方の人間、塾にいく金銭的余裕のない都会の人間――がZ会利用者のメイン層ということもありえるかもしれない。しかし、ここで注目したいのは、ふたりの心理造形だ。

 属性的に考えれば、ふたりは意図的に対照的になっている。男と女、地方と都会、家族のきずなの薄さ濃さ。しかしながら、ふたりに共通するものがひとつある。ふたりの心理状態、冒頭のモノローグで告白される「遠くにあるどこかに行きたい」という焦燥感だ。

この心理状態が全国の受験生に共有されているものであるという可能性も、もちろん否定できない。しかし、これが新海の作家性に由来するものでもあることを疑い者はいないだろう。「ここではないどこかへ」という漠然とした所在のなさ、それこそ、特徴のない新海のキャラクターたちに普遍的に共有されているほとんど唯一の特徴だ。

 

漠然とした理由、または親の不在というギミック

「ここではないどこかへ」という思いが新海の物語の基調にある。にもかかわらず、その理由を掘り下げることは新海の興味の埒外にあるらしい。新海にとって「ここではないどこかへ」は、ほとんど所与のものなのだ。自明のものであり、それゆえ、説明を必要としないものであるかのようなのだ。

穂高にも同じことが当てはまる。彼が離島を抜け出して東京に行くのは、親との仲が悪いからでも、学校が嫌だからでも、田舎が嫌だからでもないらしい。彼は離島の現状に不満があるわけではないらしい。しかし、離島にいるだけでは充たされないものがある。

それを都会願望と捉えるなら、新海の物語はどこか昭和的で、時代遅れの上京物語のように映るかもしれないが、それが不気味なほどの空虚感を醸し出すのは、上京願望の底がまるで見えないからだ。その理由は穂高にはわからない。有名になりたいわけでもないし、金持ちになりたいわけでもない。光の指す方向に行ってみたいというような、きわめて漠然とした動機なのだ。あまりに漠然としていて、そこに何らかの社会的、社会学的な理由を読みこむことができない。

いっそう不気味なのは、その願望の説明のために物語が使われないことだ。キャラクターに動機は与えられる。しかし、その動機は決して説明されず、説明されないままにとどまる。なるほど、自己告白シーンがないわけではない。『秒速5センチメートル』の3部のなかでの男の心情吐露はまさにそのようなものだが、そこで語られる言葉は、具体的な参照項を欠いた漠然とした語りにすぎない。

新海のセリフは、究極的には、JPOP的な歌詞なのかもしれない。状況はあるし、動作もあるが、そこに具体性はない。いつかの、どこかの、誰かの物語は、裏を返せば、いつであってもいいし、どこであってもいいし、誰のものであってもいい物語だ。この不特定性を確保するには、細かな説明はいらないし、それどころか、そんなものはあってはならないのだ。

説明の不在は徹底している。『天気の子』において、穂高と圭介がパラレルな存在であるのは、ふたりとも生まれ故郷から家出してきて、都会で生き抜こうとする存在だからだが、彼らの時をまたいだ双子的な状況の根底にあるのは、ふたりの物語のバックグランドの解き明かされなさだろう。なぜ彼らがそうなってしまったのかの裏話は明かされないし、それどころか、そんなものは最初から存在していなかったかのようである。

もし風景の細部における説明の不在――「ただそこにある」という存在の神秘――が物語世界の存在の確かさを強めるための効果を発揮したとしたら、キャラクターの動機の説明の不在もまた、似たような効果を発揮していると言えなくもない。わたしたちが自分たちの行動原理や行動理由を完璧には説明できないように、新海の物語の登場人物たちも、自己の動機を語りつくすことができない。というよりも、自己探求は登場人物たちの主要な関心領域ではなく、その結果として、新海のキャラクターたちは内面性を持っているように見えるにもかかわらず、それがどのようなものであるかが視聴者には不透明なままなのだ、と言ったほうがいいだろう。他人の動機が不明瞭であるのは、現実の常であり、他人の動機が隅々まで明かされるのは、フィクションの場合だけだ。動機を明かさないことを選ぶことで、新海の物語は、物語のリアルさを取る。透明なのはフィクションであり、不透明なのがリアルだからだ。

とはいえ、そうした不透明なキャラクターがプロット展開をリアルにしているかとなると、かなり微妙ではある。動機の説明されなさが、動機の不在であるかのように感じられなくもないし、そのように眺めていると、新海のキャラクターたちはプロットのための操り人形にすぎないように見えてくる。キャラクターは行動するし、行動原理もあるらしいが、行動原理のほうは行動からどうにか推測される程度であるし、なにより新海はキャラクターの掘り下げをPV的なシーンによって加速的かつ圧縮的に行ってしまうので、キャラクターの胸の内はますます不透明に、測りがたいものになっていく。

ここで興味深いのは、不透明性の原因の一部を形づくっていてもおかしくないはずの穂高の両親が、映像としてもまったく不可視にとどまっているところだ。ギャルゲーやエロゲーにおける親の不在は、物語的な必然性というよりは、エロイベントを自宅で起こせるようにするために要請されたギミックだったと思うのだけれど、ここでは、そのギミックが、もともとの機能を欠いたかたちで借用されている。親の不在は、思春期の子どもたちの心理的な行き詰まりの突破口を、親子関係という垂直関係の改善ではなく、友人関係という水平方向への脱出に見出すためのギミックとなっている。

こうして、範例的なまでのエディプス・コンプレックスの物語であり、その繰り返しが堂々巡りにしかならない自己告白的な心情吐露の物語であったエヴァとは裏腹に、新海のプロットには超自我もなければ無意識もない。内面はただひたすら行動によってのみ表象される。そこでは、匿名的でモブ的で、奇妙なまでに薄味のキャラクターたちによって、それなりに濃厚でそれなりに濃密な対人関係ストーリーが繰り広げられていく。

 

新海の物語展開の中心に置かれた水平的な人間関係

新海の物語は、水平的な対人関係を主軸に据えている点で、エヴァ独我論セカイ系物語とは大きく異なる。なるほど、碇シンジの思春期的な中二病の悩み――ぼくはここにいていいのか?――と、新海の物語の男性キャラクターたちの高二病的悩み――ここではないどこかへ――は、かなり似たトーンで描かれているように感じられる部分もあるけれど、新海の物語では、それがかならず女性キャラクターによって複線化される。それによって新海の物語がエヴァよりも深くなったり広くなったりしているかは、また別の問題なのだが、新海の物語の展開方向がエヴァとは異なっていることは間違いない。だから、自責の担い手がシンジひとりであった『Q』にたいして、『天気の子』は、ふたりのつみびとを、ふたり以上のつみびとを登場させるのである。

新海のボーイ・ミーツ・ガール物語において、恋愛要素は必然だ。しかしながら、この恋愛物語において、どちらかの項が独立して機能することはないだろう。それはふたりが両想いになるとか、物別れになるということではない。新海の恋愛物語は、どこまでいっても、ふたりの関係の物語であり、ここで焦点化されるのは、どちらか一方の内面心理でもなければ、ふたりの具体的な恋愛行為でもなく、ふたりの距離感なのだ。

新海の恋愛物語は距離感のドラマ化である。『君の名は。』にしても、『天気の子』にしても、話のクライマックスに置かれるのは、セクシュアルな肉体的接触ではない。そうではなくて、ふたりの物理的距離がゼロになる瞬間だ。『君の名は。』の場合は、時空を超えた狭間における瀧と三葉の再会であり、『天気の子』の場合は、地上と雲の上というふたつの世界をまたぎ、天気という超常的なものを越えた穂高と陽菜の再会である。『秒速5センチメートル』の場合、恋愛という心理的なものが婚姻という社会的なものによって、長年の関係が断ち切られるときが、距離感のドラマの頂点をなすだろう。ここで演じられるドラマの根底にあるのは、ふたりの物理的な距離と心理的な距離とのあいだの緊張関係だ。

このふたりの距離感の問題が、世界との距離感の問題とクロスする。『天気の子』のプロットが問題化するのは、単純化すれば、個人と世界の幸福のバランスではある。しかし、正確に言えば、そこで問われるのは、ボクかセカイかではなく、ボクとあの子(たち)かセカイか、なのだ。

 

世界を犠牲にしても自分の望みを正当化する(のか?)

自らの身を犠牲に捧げることで雨の世界に晴れ間をもたらすことのできる天野陽菜は、「自分が世界をこんなにも幸福にできるなんて思わなかった」と嬉しそうに話す。自己犠牲によって、彼女は自己の存在意義を発見する。しかしそれは、世界のほうを個人よりも上に置くことである。

「世界を不幸にしてでもわたし(たち)は幸福になりたい」、そんな身勝手と受け取られかねない個人的欲望は正当化してよいのか、と森嶋穂高は逡巡する。だから、「雨は上がったほうがいいと思う」と彼女に尋ねられると、彼は本当に何気なく「それはそうだよ」と答えてしまう。そして彼は彼女を失ってしまう。

どうやって彼女を取り戻すか、それが映画後半のプロットをドライブしていくことになるが、ここで困難なのは、ただ彼女を取り戻せばそれで問題が解決するわけではないところにある。彼女と世界の両方を選ぶことはできない。彼女を選べば世界が不幸になり、世界を選べば彼女が不幸になる。

彼女も彼も、自分の幸福が大事でないわけではない。しかし自分というちっぽけな存在の幸福と、世界全体という大きな幸福を天秤にかけると、ふたりの天秤はともに、ほとんど無意識のうちに、自己犠牲のほうに傾いてしまう。それほどまでに、「世界の幸福のために個人は自分の幸福を犠牲に捧げなければならない」という自己犠牲を強いる社会の声が内面化されているのだ。

そしてその社会の声は、否定しても否定しきれるものではないし、内面のなかで否定できたとしても社会のなかから消滅するわけではない。彼女や彼がそこから自由になったとしても、社会の声は別の人びと心のなかに残り続け、別の人びとの心を支配し続け、そして、そのように支配された心を持つ別の人びとの声が彼や彼女に浴びせかけられるだろう。

だから真の問題は、個人が大事か社会が大事かという単純な二者択一ではない。それでは、社会の存在を完全に無視した「ふたりだけの世界」であるとか、社会が認めるかぎりにおいてのみ自由を許されるというという空想にひたるか、の二択になってしまう。ここで投げかけられている問いとは、自分の幸福と世界の幸福を両立させられないことを完全に理解したあとで、それでもなお、自分の幸福のほうを選ぶことができるのか、という認知のあとに出現する倫理の問題である。

 

バッドエンドからトゥルーエンドへ

「トゥルーエンドに至るにはバッドエンドを経なければならない」というマルチエンディングのギャルゲー/エロゲーヘーゲル的定理に、『天気の子』は忠実だ。けれどそれはすでに『君の名は。』に見出されている。入れ替わりから解放されてしまった瀧は、記憶を頼りに描き出した絵を手がかりに、三葉のところにたどりつこうとするが、そうすることで彼は彼女も彼女の町もすでに失われていることに気がつく。しかし、気がついたからこそ、彼は自らの失敗を上書きするような別のエンドに向かって歩いていけたのだった。

新海の物語において、男性キャラクターたちが自らの失敗に気がつくのは、失敗した後のことでしかない。おそらく『君の名は。』とそれ以前の新海作品を分けるのは、すれちがっていくふたりが再び出会うか、出会わないかではないだろう。そうではなく、間違えたことに気づいたキャラクターに、間違いを乗り越えてトゥルーエンドにたどりつくためのチャンスが与えられているか、いないかが、決定的な違いなのだ。『秒速5センチメートル』は、その意味では、ギャルゲー的でない。『君の名は。』と『天気の子』は、きわめてギャルゲー的である。

そしておそらく、『君の名は。』と『天気の子』では、男性キャラクターが「プレイヤー」に仕立て上げられていると言っていい。『君の名は。』や『天気の子』がフェミニズム的ではないとしたら、それは、新海の物語が女性キャラを雑に扱っているせいだけではない。問題はもっと深いところにある。

ヘテロな男性原理にもとづくギャルゲー/エロゲー世界では、男性キャラクターこそがプレイヤーであり、女性キャラクターは攻略対象にならざるをえない。このジャンル的硬直性を解体できていないところに、『君の名は。』と『天気の子』の保守性がある。

そして、入れ替えによってプレイヤーが男性キャラと女性キャラを往還できた『君の名は。』に比べると、『天気の子』におけるプレイヤー役は穂高しかいない。この意味で、『天気の子』は前作よりも深くギャルゲー的ジャンル性に拘束されている。陽菜は攻略対象であり、彼女の弟の凪にしても、穂高を住みこみでこき使う須賀圭介にしても、その姪の夏美にしても、NPC以上にはならない。

『天気の子』のプロットは『君の名は。』より収斂度が高く、そのおかげで物語の強度は高まっている。しかしその代償として、物語の複数性が失われている。『天気の子』における天気の写実的表象は、現在アニメが到達しうる最高峰――たとえば、2次元的な絵に違和感なく重ねられた3次元的奥行のある雪、地面に落ちて跳ね上がる雨粒――に達していると思うけれど、その象徴的表象となると、『ラピュタ』の雲や城、『もののけ姫』のダイダラボッチ、『崖の上のポニョ』の海を思い出さないわけにはいかないし、それと同時に、ジブリ映画における保守的プロット――女のために男が闘う――が思い出される。もちろん、ジブリには、戦う男と同じくらい多くの戦う女もいるのだから、新海のジブリからの影響がかなり恣意的に選択的なのだと言うべきだろう。ジブリのギャルゲーへの影響というようなものを考えるべきかもしれない。

 

トゥルーエンド?

とはいえ、ここで強調しておくべきは、『天気の子』が、バッドエンドを経由してからのトゥルーエンドへというご都合主義的な流れに乗りながら、すべてがハッピーエンドに終わっていないという点だ。

「晴れのほうがいい」という無邪気な一言で失ってしまった陽菜を取り戻すため、穂高は警察の取り調べ室から逃げ出し、夏美の運転する原チャリの後ろに乗って逃走し、いまだ復旧しない山手線の線路をひたすら代々木に向かって走り、荒れ果てたビルを上り、取り押さえに来た警官たちを銃で脅し、屋上の祠にたどりつき、そこで祈ることによって陽菜が横たわる雲の上の緑の草原にたどりつき、ついに彼女をつかまえて再び大地に戻ってくるが、人柱となった彼女を犠牲に捧げることで取り戻された天候は再びバランスを失って異常気象続きとなり、東京の沿岸部の多くが海に沈むことになる。

ここには未解決のものが残る。穂高と陽菜は、ハッピーではないかもしれない世界のなかで自分たちがハッピーになることを選択したのだが、それはつまり、ふたりがハッピーであるために、世界のほうに、世界がハッピーでないことを求めた、ということでもある。

なぜ世界にハッピーでないことを求めることが可能なのか。

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ』問題、または世界の欺瞞の帰結

穂高は東京に向かう連絡船のなかで村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいるし、圭介の事務所でもそれを読み続けている。果たして穂高がそれを読み終わったのかどうかはよくわからないが、『天気の子』に充満しているのは、サリンジャーの主人公ホールデンが折に触れて口にする「インチキ phony」なものにたいする本能的な怒りだ。

人柱として犠牲に供されて消えてしまった陽菜のことに、人々は思いをはせようとはしない。人々は天気が好転したことを無邪気に喜ぶし、陽菜のおかげで世界は救われたのだという穂高の叫びに、警察官たちは耳を貸そうとはしない。「おまえたちはわかってないんだ」と穂高が叫ぶとき、それは彼自身の後悔の念の表れでもあれば、自責の念を転化するためのあがきでもあるのだろうけれど、同時に、穂高は字義通りのことを言おうとしてもいた。

世間の人間は、彼ら彼女らの幸福が、彼女ら彼らの知らない陽菜という一人の女の子の犠牲のうえに成り立っているという真実を知らないのだ。世間の人々は、自らは代価を払うことなく、ある一人の女の子にすべての代価を払わせることによって、無邪気に、無責任に、幸福をふたたび味わうことができるようになっているのだ。穂高が糾弾するのは、世間の人間の自己欺瞞であり、世間の幸福のインチキっぷりである。

それは思春期の子どもが通過する普遍的な気持ちなのかもしれない。そして、世間の欺瞞性を告発し、そうすると同時に、自らの欺瞞性をも告白し、それを乗り越えるために社会的な罰則を恐れることなく突き進んでいく穂高は、思春期シナリオのひとつの極点に達していると言ってもいいだろう。 それはおそらく、白水Uブックス野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』をポケットに忍ばせ、果たされざるテロ行為を完遂しようとするトグサの怒りを茶化し気味に冷やかし、その怒りを再び政府機関である九課のなかに取り込むことで幕を閉じる攻殻機動隊笑い男事件』シリーズよりも、さらにラディカルなシナリオである。

そして、おそらく、さらに中二病的だ。そう、ここでは、思春期的な激しい思い込みからくる反社会性のほとばしり――陽菜を助けようとしてキャバクラのスカウトともみあいになり、銃をぶっぱなしたり、人柱になった陽菜を救うためとあらば、警察署から逃走し、線路を走り、廃ビルに入り込み、警官隊に銃を突きつけたりする――が、周囲の大人のしたり顔の説得によって押さえつけられることはない。逆に、それが周囲の大人たちにも感染していく。

圭介は穂高の未来予想図である。圭介もまた、穂高のように都会脱出者であり、おそらく彼がかつてそうしてもらったことを、今度は彼が穂高にしてやることになる。離島から家出して連絡船に乗り込んだ穂高が波にさらわれそうになったところを救った命の恩人が圭介であり、都会でバイト先も見つからず金もつきて空腹に苦しんでいたところを再び救ってくれるのも圭介であるが、人柱になった陽菜を救うという突拍子もない話を信じようとしないのも圭介であり、不法所持している拳銃のことや家出願いからの捜索の件で尋ねてくる警察にたいして腰砕けになるの圭介であり、「警察から逃げるなんている馬鹿な真似をするな」と言うのも圭介である。圭介はいわば、バッドエンドルートのまま年を取った穂高だ。

穂高は圭介にできなかったことを成し遂げる。大人にならない。大人のように世間の欺瞞をしたり顔で受け止めず、思春期の本能的な怒りと衝動のままに突き進む。そうすることで、穂高は圭介をも、トゥルーエンドに巻きこんでいく。

世界が不幸であってもいい理由、それは世界が欺瞞的であるからだ。少数の犠牲に無頓着で、自分に不都合がないかぎり誰かの不幸などどうでもいいという世界、そんな身勝手で無神経な世界が招いた罰が、世界の不幸なのだ。

『天気の子』が最終的に提示するのは、世界を崩壊させずに進行させていくための犠牲を、誰かひとりに押し付けるのではなく、世界全体が引き受けることであり、そうすることで、世界のひとりひとりが、世界の引き受けた犠牲を甘受するというシナリオだ。人身御供の拒否であり、犠牲の共有だ。誰もがすこしずつ不幸になることで、幸福になる権利を誰からも奪わないことだ。

『天気の子』の結末はマイナス的に、ネガティヴに平等主義的である。

 

「オメラスから歩き去る人びと」を越えて

それはアーシュラ・ル=グィンが短編「オメラスから歩き去る人びと」で描き出したシナリオよりもはるかにラディカルかもしれない。功利主義原理に抗するための思考実験であるかのようなこの短編は、共同体の安寧のために虐待される子どもの存在を仮定する。子どもひとりの苦しみによって共同体すべてが幸せでいられるという状況は倫理的に是認できるのか。たったひとりの不幸と、そのた全員の幸福を天秤にかけ、数と量の論理に従って、後者を選ぶことは道徳的に正しいのか。

ドストエフスキーの提起したこの問いを取り上げたウィリアム・ジェイムズに触発されたル=グィンの物語は、そこにさらなるひねりを加えている。もしその子どもを助けたとしても、虐待によって精神の均衡をなくしてしまった子どもは回復しないとしたら? 子どもを助けることによって得られるのは共同体の幸せが失われることだけであるとしたら?

そこでル=グィンはふたつの道筋しか示さなかった。子どもという犠牲を受け入れ、しかし犠牲のおかげで自分たちが幸せでいられるという罪悪感を抱えたまま生き続けるか、それとも、子どものおかげで共同体の幸せが保たれているという状況に耐えられず、さりとて共同体の幸せを破壊することもできず、ただひとり、共同体から歩き去っていくか、の二択である。

短編タイトルがほのめかすように、ル=グィンの共感は歩き去る人びとに置かれていたのだと思うけれど、このシナリオが『天気の子』で成り立ちえないのは明白だろう。というのも、ル=グィンにおいては、人柱になった人間はもはや元に戻れないという不可逆性を前提としていたが、新海においては、可逆性がある。人柱となった陽菜は取り戻せるという想定がある。

そしてさらに重要なことだが、「オメラスから歩き去る人びと」において、ひとりの犠牲によって可能となった幸福は限定的で、それゆえ、欺瞞的幸福の外部に逃れることが依然として可能であったのだけれど、『天気の子』には、そのような外部は存在しない。それは新海が天候という何人も逃れえない自然現象を扱っているからだ。不幸をもたらす現象は、超人間的なものだからだ。

 

人新世か、自然の狂気か

『天気の子』のエピローグは、『君の名は。』と同じぐらい感動的でもあれば、それよりもはるかに肩透かし的である。感動的なのは、陽菜と穂高が、三葉と瀧のように、数年の後に再会できるからだ。肩透かし的であるのは、サリンジャー的で思春期的な反社会行為によって社会的にお咎めがあったはずなのに、穂高の生活がそれで一変したわけでもなく――もちろん保護観察処分ではあったけれど――粛々と高校生活を終え、卒業式に出て――蛍の光の「わが師の恩」のくだりで口ごもるのは、彼が依然として、サリンジャー的な大人不信を生きていることのしるしだろうか――すぐさま連絡船に乗り、何の問題もなく東京に舞い戻ることができるからだ。あたかも彼の数々の犯罪行為が、何でもなかったかのように。あれだけのことをしでかしたというのに、何の罰も受けなかったかのように、そしてこれから先も、何らかの罰を受け続けなければならないわけではまったくないかのように。それは、罪の象徴であり、罪そのものとして生きねばならない『Q』の碇シンジの苦境と比べると、拍子抜けと評することすら生ぬるい状況だ。

しかし、『天気の子』という物語世界において最終的に勝利を収めるのが、社会的なものではないことを思えば、穂高にたいする社会的罰則が茶番でしかなかったらしいことも、当然なのだろう。

東京の大学に通うことになるらしい穂高は、東京のアパートの一室でこれから通うことになる大学のパンフレットを見ている。そこには「人新世 the Anthropocene」という言葉が記されている。「人間の活動が惑星に影響を与えるようになった新たな地質的時代」を意味するこの言葉が名指す学問を勉強できる大学を志望したというのは、惑星における人間の活動が自然の猛威によって危機にさらされているようになった『天気の子』の世界において、タイムリーでもあれば、アクチュアルでもあるらしい。

惑星を乱しているのは、人間なのか、自然なのか。おそらく新海が『天気の子』のなかで提起する最大の問いがこれである。そしてそれにたいして、新海は、自然であると答えているように見受けられるふしがある。

この点で重要なのは、局所的に天気を晴れにするというバイトをしていた陽菜と、凪と、穂高とが訪れたある老婆の家でのやりとりだ。そのときは伝統的な平屋の家屋に住み、昨年亡くなった夫のために初盆の迎え火を焚いていたが、人柱であった陽菜を穂高が取り戻したせいで世界全体の沿岸部が水に沈むことになると、思い出の家を引き払い、マンションに引っ越していた。

しかし、老婆はそのことに憤るのでもなければ、悲しむのでもない。彼女は淡々としている。というのも、「数百年前、あのあたりは海だった。それを、人力で埋め立てて、人が住めるようにした」だけであって、自然の気まぐれひとつでどうにかなってしまう、脆弱な人間の営為だったからだ。狂気を見せるのは、人間ではなく、自然である。

 

陶冶されざる自然、または畏怖すべき天体的自然

自然に人間は手出しができない、そして、自然の狂気の影響は万人に及ぶ。『君の名は。』がフクシマにたいする間接的なコメンタリーーー糸守町を滅ぼすのは、津波でも原発でもなく、隕石落下であったーーであったように、『天気の子』は現代の気候変動にたいするにかなり直接的なコメンタリーになっている。

しかしながら、『天気の子』において「世界のかたちを変えてしまう」ことが、いわば超自然的な事柄として扱われているのにたいして、いまこの世界で進行中の気候変動は、おそらく、人間的な事象だ。人間のさまざまな活動――化石燃料の消費、浪費的な消費社会、自然を支配対象とみる世界観――が積もり積もった結果であり、その咎は、人類全体が、人類の歴史全体が、負うべきものである(もちろん、そのなかでも、産業革命によって世界を大々的に汚染し始めた西洋諸国とそれに追随した現代の先進国の責任が圧倒的に大きいことは言うまでもないが)。ところが、『天気の子』における最終的な審級は、人間ではなく、自然なのだ。

人間は祈りを通じて自然とつながる。人間と自然のあいだには、科学技術のような中間項は存在しないかのようだ。それが『天気の子』の惑星秩序であると思われるのだけれど、もしかするとこうしたアニミズム的で自然崇拝的な立場は、ジブリ的と言っていいのかもしれない。それはたとえば、タタラ場という人間の科学技術の空間が、デイダラボッチという自然神によって上書きされるような世界観だ。最終的には、人間ではなく、自然が、超自然的な神的存在が、すべてを包みこむことになる。

『天気の子』には明示的に表象される神はいない。神的存在がいる/あるのかすら微妙なところだ。雲の上の世界で陽菜の身体を取り巻くように空気の中を泳ぐ半透明の魚状の物体は、まちがいなく超常的なものだが、それよりも上に立つ絶対的人格神のようなものは、どうやらこの物語世界には存在しないらしい。同じことが『君の名は。』にも当てはまる。

しかしこれは奇妙な状況ではないだろうか。『君の名は。』にも『天気の子』にも、宗教儀式的な場面が物語のキーとなるシーンで登場するにもかかわらず、そうした宗教儀式が捧げられるべき対象である神様は、描かれることがない。そして本来ならば神が鎮座するはずの超越的な地位を占めることになるのは、絶対的な自然現象なのだ。隕石であり、天候であり、惑星規模の超‐人間的事象なのだ。

人間が科学的手段によってできることなど、そこでは何の役にもたたない。唯一可能なのは、非科学的な手段――口噛み酒、鳥居でのお祈り――によって、自然とダイレクトに交信することだけだ。人間が作り出した人間的なものは、自然の狂気を前にして、まったく無力である。

 

社会的なものの過小化、または惑星宿命論の受け入れ

新海がセカイ系の物語によって描き出そうとしたのは、倫理の問題だったと思うのだが、ここでその倫理問題は二重になっている。一方において、社会の倫理の問題がある。功利主義を正当化するのか、少数の犠牲を黙認して多数の幸福を確保してよいのかという問題であり、平等性と対等性の原理を前提とした近代社会を目指すのか、それとも偶然性と運命を甘受した前近代的社会に逆戻りするのか、という問いかけだ。

ここから引き出されるのはサリンジャー的な物語である。傍観者であることの罪深さを糾弾する物語であり、欺瞞のうえに作られた幸福の空虚さを、思春期的な怒りを込めて告発する物語だ。

しかし他方において、この間‐主観的な共同体の倫理というミクロな問題は、自然と人間、惑星と人類というマクロな問題に包含されることになる。では、そうしたマクロの視点から紡ぎ出される物語はどんな倫理を帯びるのか。

それはもしかすると、第一のレベルで引き出された人間的な立場からの後退ではないだろうか。第一のレベルでは、セカイ系の「ボク」と「セカイ」という短絡的なつながりを、「ボク」と「キミ」と「セカイ」と複線化することによって、わたしたちひとりひとりの存在の原罪とでも言うべきものを描き出すことに成功していた。ここで陽菜という犠牲は、社会的なものであると同時にセカイ的なものであり、だからこそ、そこでは社会的な解決――社会全体で犠牲をすこしずつ共有する――が想像しえたのである。

しかし、第二のレベルでは、社会全体が自然と対峙するようになった結果、個人の倫理性は埋没してしまう。穂高と陽菜は不幸な世界のなかで幸福なカップルになるかもしれないが、そうしたグレーなハッピーエンドが可能なのは、世界の不幸性がすでに既定路線となり、もはや変更不可能な現実として確定してしまっているからでしかない。

それはつまるところ、不幸な世界を受け入れることであり、不幸な世界を変革する人間的な可能性を否定することにほかならないのではないだろうか。もしかすると、それは、人間的な可能性を否定するばかりか、宮崎駿的な、人間に無関心ではあるが、人間に無関心であることによって人間を滅ぼすこともいとわず、ついには人間をも救済してしまう無慈悲に慈悲深いアニミズム的自然――たとえば『ナウシカ』における腐海とオウムであり、『となりのトトロ』におけるトトロ、『もののけ姫』におけるデイダラボッチーーの否定ですらあるのかもしれない。宮崎のアニミズムが、自らを癒し、自らを救うホメオスタシス的な円環的自然であるとしたら、新海の自然には、そうした循環性や自己回復性が欠けている。

地球外のものの地球への訪れを物語化する新海が描き出す自然的出来事は、隕石落下のように、一回的で、破滅的で、再興不可能性を含意しているのではないだろうか。そこで最終的に引き出されるのは、惑星的宿命論ではないだろうか。なるほど、宿命的な状況という悲劇的に美しい世界のなかで、これから滅んでいく世界は必然的に美しく映るだろう。すべてが崇高化され、すべてが二度とは起こらないからこその特権性を帯び、すべてが輝き出すだろう。それは新海が風景描写において試みたことを、映像のあらゆるレベルや次元において推し進めることになるだろう。

美しい映画が、このうえなく美しい絵が、出来上がるかもしれない。しかしそれは、滅びの美学であり、非人間的な美だ。美化された運命から生まれるのは、精神の鈍化であり、行動の麻痺である。

 

「あなたと一緒に勇気を出して切り抜ける Weathering with You」

「あなたと一緒に勇気を出して切り抜ける Weathering with You」という英語副題はたしかに勇気を与えるものかもしれない。それに、これは「あなた」との束の間の逃避行のことではないだろう。「あなた」と一緒に不幸せな現実に向き合い続け、それを乗り越え続けていこうという強い気持ちの表れだろう。

「あなたと一緒なら、罪を乗り越えていける」、それは、「ボクひとりでは罪を背負えない」ことから引き起こされた自己崩壊がもたらす世界崩壊未遂の物語であるエヴァ新劇版『Q』にたいする、希望に充ちた返答になっている。

しかし、もしエヴァが依然として世界を変えることによって世界を幸福にするという、押しつけがましくもあれば、不可能でもある壮大な希望の物語を見苦しくも手放そうとしないのだとすると、新海の『天気の子』は、世界の不幸を既定路線とし、完全に幸福な世界の不可能性をあっさりと受け入れ、そのなかでのプライヴェートなしあわせの追求を、最終的にあまりにスマートにあっけらかんと肯定してしまっているように見える。

なるほど、その身勝手なまでの「ボクとキミ」の幸福の肯定に至るまでの過程で、「わたしたち/あなたたち」の誰もが世界=惑星の不幸の責任を分かち合うべき罪深き存在であることが明らかにされるのだから、『天気の子』にはネガティヴな啓蒙的効果があると言うべきだし、それがとてつもなく美しい狂気の自然の表象によって、感性的に説得的なかたちでなされていることは、日本のアニメーションが到達しえたひとつの極点を記念する事件である。だが、そこから引き出される敗北主義的な世界観――敗北が必須の世界のなか、どうにかしてプライベートなスペースを確保し、そこでなんとか幸せに暮らしたいという欲望――は、いまここにある問題含みの社会=世界を、その深いレベルにおいて肯定することにしかならないだろう。

「ここではないどこか」へ逃避した先で、オメラスから歩き去った人びとは、エマ・ゴールドマン的な女性革命家にインスパイアされ、クロポトキン的な相互扶助的アナキズム原理にもとづく新たな国を創るだろう。しかしながら、そうした外部のユートピアの可能性を措定できない『天気の子』の物語世界は、最終的に、「いまここ」の人間的可能性が超‐人間的な自然的=惑星的可能性によって否定されるところを傍観するばかりである。

奇妙に聞こえるかもしれないが、『天気の子』は、気候変動の不可避性を受け入れ、人間的介入の可能性をくじいてしまっているように思われるのだ。しかしその「どうせしかたないさ」という大人めいた傍観行為こそ、ホールデン穂高が、中二病的で本能的で直感的な思春期の真摯な怒りを込めて告発しようとしたものではなかったのか。そのような傍観行為のせいで、陽菜が人柱に供されたのではなかったのか。『天気の子』が欺瞞の告発の物語であるとしたら、おそらく、『天気の子』それ自体がはらむ欺瞞にも、その告発が向けられねばならないはずである。

特任講師観察記断章。下から目線の「空気読んでくれますよね?」の態度。

特任講師観察記断章。甘えるような媚びるような、しかし、そのように振る舞えば自分の要求はきっとわかってくれるはずだという確信と期待に充ちた下から目線の「空気読んでくれますよね?」にたいして、どう対応すべきか。

学生たちの振る舞いが、これまでの刷り込みの結果だというのは、よくわかる。しかし「先生の○○という授業を取らせていただいている××です」という書き出しを見ると、ほとんど憐れに思う。「取らせていただいている」はコピペのようなもので、そこに卑下の気持ちなど隠れてはいないのかもしれない。字義通りに受け取る必要はないのかもしれない。けれども、「させていただいている」意識は、どこまでいっても、尊厳や人権に出会うことはないだろうし、上であるか他人であるか世間であるかを問わず、何かから「許されている」という受動性が根底にあるかぎり、自尊心はつねに監視状態に置かれ、自ら動くことができないだろう。「何かやってみる」ではなく、「何も余計なことをしない」が、デフォルトになってしまう。言葉を新たに作り出すのではなく、ありふれた言い回しを機械的に繰り返すだけになってしまう。

他人の気持ちを先回りし、まだ起こっていない未来を先取り的にフィードバックするという「おもてなし」の気づかい自体は決して悪いことではないけれど、下から上への「忖度」があまりに隅々にまで染みわたった結果、下も上も予定調和という名の精神的牢獄の虜囚として振る舞わなければならないというのは、あまりにも不自由だ。そのような箱庭的疑似世界をリアルで全世界に当然のように期待する狭い心は、息苦しいだけだ。

何が正解なのかはまだ見えていない。無意味な謙譲語を処世術として内面化してきた結果できあがってしまったものがあるし、そうした社会のなかでこれからも生きていかなければならないという事情もわかるから、それを食い破れとストレートに言ってしまっていいのかという気がする。だから、忖度をパロディー化するかのように、自分の日本語能力が許すかぎりもっとも婉曲的な言い回しを使って、「空気は読みません」と答えてみることにした。

「お訊ねの「対応」とはおそらく……何か別のものなのだろうということまではどうにか理解できなくもありませんが、その先にあるらしいあなたの真意を、それをはっきりとは語ろうとしないあなたのために、わたしがあなたに代わって語るべきであるとはどうしても思えませんし、そうしてどうにか語ることのできるようになったあなたの真意かもしれないものにたいして取りうる「わたし」の対応をわたしがここで先取りして語るべきであると思わなければならない理由をわたしはひとつとして思い浮かべることができません。」

特任講師観察記断章。3次元的な音のフロー。

特任講師観察記断章。今学期の少なからぬ時間を使って音読を仕込んでみたけれど、いくつか見えてきたことがある。音量(アクセント)、音高(イントネーション)、音長(リズム)の3つのなかでことさら身に付きにくいのが音の長さの感覚であるのはどうやらまちがいないようだけれど、本当に難しいのは、これらのパラメーターを同時に操作して、3次元的な音のフローを作り出すことだ。

日本語の地名を英語的に発音することを考えてみるとわかりやすいかもしれない。「しずおか」の「お」に強いアクセントをつけるだけでは不十分だ。「し/ず/オ/か」とそれぞれの文字を均等な長さにしているかぎり、フレーズのこわばりはとれず、英語らしく響かない。「しず/オ↑オーかぁ↓」のように、「しず」をひとまとめにし、「お」で音高を上げながら長く引き伸ばし、「か」で軽く抜きながら下げることで、やっと英単語らしくなる。音楽的に言えば、「しず」をアウフタクトに入れ、「お」を表拍でとり、「か」でフレーズをとじるような感覚だ。

このあたりの感覚を体感させるための手段として、詩の朗読は有効かもしれない。TOEICのリスニングパートのスクリプトより、こういうテクストのほうが、言葉の音楽性やポーズの余韻を深く感じるには、教材としてはるかに優れている気がした。これがTOEICの得点アップに通じているのかはきわめて疑問であるし、下準備がなかなか手間ではあるけれど、同じものを100回も聞かなければならないなら、TOEICスクリプトよりシェイクスピアのセリフのほうが100倍いい。

11年前の今日アメリカに

もうあれから11年か。デイヴィスには直で行けなくて、ユーリカという小さな地方空港に行く羽目になって、空港というよりは日本の片田舎の無人鉄道駅のような佇まいに驚き、空港周りの何も無さにさらに驚き、ホームステイ先に遅れると連絡したいのにネットはつながらず、電話はまだ使い方がよくわからず、夜も随分遅くなってからやっとサクラメント空港に着き、そこから予約したはずの乗り合いシャトルのブースに行って予約の紙を見せてどうにか車を手配してもらい、日付が変わるほんの少し前に目的地にたどり着くと、「今日はもう来ないと思っていた」とホームステイ先の人に驚いたように言われたことを、いまでもかなり鮮明に覚えているし、こう書きながら、もうすっかり忘れたと思っていたデイヴィスの街の通りのいろいろな情景が突然フッと頭のなかに蘇ってきた。あの夏の暑さのこと、ホームステイ先の家の床に敷かれた毛足の深いフカフカの白い絨毯、古本屋で8ドルくらいで買ったHackett版のスピノザの『エチカ』英訳、日本から持っていって読んでいたパウンドのCantos、線路そばのボーダーズで買ったペンギン版『神曲』英訳、キャンパスの牛糞の臭い、ランゲージセンターの前に昼時に来て食べ物や飲み物を売っていたトレーラー、大きな松ぼっくりが落ちていたキャンパス内の道、天井の高いホームセンターの高い棚、ラップで適当に包まれたモソモソした食感の大ぶりのマフィン、甘すぎるし大味すぎるシナモンロールのパック、Fijiミネラルウォーターの角張ったボトルの硬さ、雲のない青く高く乾いた空、住宅街のなかのカーブした道路と縁石、そんな脈絡のないイメージや感覚が次から次へと浮かび上がってきた。英語をほとんど話すことができず、ひとりふらふらと、デイヴィスの街をあてもなく、直感的にあたりをつけ、自転車に乗れるようになって行動範囲が大幅に拡大したことが嬉しくてたまらない男子小学生のワクワク感のようなものと、これから先ほんとうにやっていけるのか、ホームステイが終わってからアーバインの学内寮に入るまでの数週間の滞在先も決まってないのにどうするのかという言いようのない不安をいっしょにかかえながら、ひたすらペダルをこいで、ふと立ち止まってはデジカメで写真を撮っていた。あれからもう11年とは。