うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。瞬間脳内対話。

特任講師観察記断章。ジェンダー二進法にからめとられないように話すこと。「彼」というところを「彼や彼女」とするだけでも微妙に文字数が増えるし、「○○な人たち」というのを機械的に「彼ら」とは受けずに「○○な人たち」と繰り返すのは冗長だ。限られた授業時間のなかで、カバーすべきノルマに追い立てられていると、どうしてもそのあたりをスキップしたくなるけれど、そこで踏みとどまる意志の力と心理的な余裕が欲しい。

豊かな想像力も必要だ。TOEICの授業でreimbursement――辞書だと「返済」とか「弁償」となっているが、TOEICでは「ポケットマネーで払ったものを後で経費として請求する(たとえば出張費)」と理解したほうがわかりやすい――の説明をしながら、「家に帰ったら父親に尋ねてみてください」と言おうとしたその瞬間、「いやいや、なぜ父親が働いていると決めつけるのか」と思い直し、「両親に」と言い出そうとするが、「まてまて、父母両方いるという想定もちがうぞ、なぜシングルファーザー、シングルファーザーのような状況を除外する、まったくべつの生活形態だってあるじゃないか」と再び思い直すぐらいの瞬間脳内対話ができるようでないといけない。思い浮かべられるかぎりさまざまな家族のかたちを頭のなかで描き出してみる。いくつものイメージがあふれだし、おりかさなり、まざりあう。そんなふうに現実的でもあればユートピア的でもある想像力を奔放に解放させる契機は、TOEICの授業にも潜在している。しかし、それをどうにか言葉に捉えようとすると、「親でも親戚でも兄弟姉妹でもいいので、もし一般企業に勤めている人が周りにいたら、会社ではどういうプロセスで出張の経費の請求をするのか、いちど聞いてみてください」という、焦点の定まらない凡庸な説明になってしまう。

インクルーシブであろうとすることは、量の問題と向き合うことでもあるけれど、どれだけ具体的なレファレンスを増やしたところで、やはり零れ落ちるものはある。すべての可能性に言及することは不可能だ。すでにあるものだけではなく、まだないものも、可能性の世界の住人だからだ。だから、量的ではないかたちで言葉を使う必要があるような気がする。言葉を質的に変容させる必要があるような気がする。クリシェ的な言い回しだとか、あたりさわりのない表現ではない、強度のある私的な詩的言語を探り当てないと駄目な気がする。それをTOEICの授業で実験実践しようというのは、倒錯的な行為なのだろうけれど。

市民教育をやりなおす:マーク・リラ、夏目大訳、リベラル再生宣言(早川書房、2018)

民主主義の主要な概念の一つである「市民」はフェイスブックのアカウントとは違う。市民は、個人の持つ属性とは無関係に、絶えず政治社会を構成する他のすべての市民と結びついている。そして、社会における権利を持ち、同時に義務を負っている……フェイスブックにおいては、自分の承認した人とだけ結びつくことになるし、その人との結びつきは、民主主義社会における他人との政治的な関係とは違ってくる。(95頁)

 

既存の政治装置を軽視してはならない

もし60年代フェミニズムのスローガン「個人的なことは政治的the personal is political」の裏返しである「政治的なことは個人的the political is personal」がまかりとおるようになれば、それどころか、「政治的なことは個人的なことにすぎないthe political is merely personal」という劣化版がかつての運動のための理念を駆逐するようなことなってしまえば、政治はもはや成り立たない。というのも、もし政治的なことが個人的なこと「にすぎない」としたら、政治は個人的な趣味嗜好の問題に解消されてしまうからだ。趣味嗜好について話すように、政治について話すことはできない。自分の趣味を他人に布教することはできるが、それは押し付けと紙一重であるし、そこにはなんの普遍的根拠も存在しないだろう。趣味嗜好の合わない他人と連帯することは可能かもしれないが、そこで説得はまったくの偶然的なものにすぎなくなるだろう。趣味の世界の行き着く先は相対主義であるが、政治とは、主義主張の食い違う個人間の説得を必然として受け入れることである。

しかし、個人が使えないからといって、アイデンティティ・ポリティクスに頼っても、政治は成り立たない。それでは、ある特殊的集団のポジショントークに還元されてしまうからだ。アイデンティティに依拠して、何らかの集団を背負って話すこと、それは、絶対に譲ることのできないなんらかの立場を拠り所にすることである。そこでは説得は不可能となるだろう。それどころか、ほんのわずかな部分的批判すら、アイデンティティにたいする全面的な人格攻撃と見なされ、袋叩きにあうだろう。妥協がありえないものとなるだろう。少しでも譲ってしまえば、アイデンティティの純粋性が汚され、アイデンティティの意味が失われる。しかし、政治とは、相容れないアイデンティティ同士の間の連携にほかならない。

個人を起点にしては政治にならない。しかしアイデンティティ・ポリティクスで集団を拠り所にすれば分断と敵対しか生まれない。政治は集団的な行為だが、そのうちに妥協を含みこむ漸近的な営為である。不誠実というわけではないが、便宜的なところがある。純粋ではないし、明快でもない。曖昧さがある。不合理もある。そうしたゴタゴタを全面的に拒否することは、道徳的には高潔かもしれないが、実務的には無力だ。

政治をやること、それは、フェイスブックの「いいね」のように好きなときに押したり取り消したりできるようなものではない。わたしたちは流動的な世界を生きてはいるが、政治をやるには、「いいね」で作り出されるような想像の共同体だけでは不十分である。 

たんなる趣味嗜好の個人でも、特定利害を代表する集団でもなく、だれにでも等しく当てはまる「市民」という根本的なカテゴリーから始めなければいけない。最も包括的な意味で「わたしたち」と言えるようでなければならない。そしてその「わたしたち」は、気の合う者も気の合わない者も、お気に入りの人間も気に食わない人間も、好きな人たちも嫌いな人たちも、すべてひっくるめたものでなければならない。政治は好き嫌いに左右されるべきものではない。

政治をやることは継続的な辛抱強さを必要とするし、それは、辛抱強いプレイヤーを必要とするだろう。そして、そうしたプレイヤーは持続的な教育によってのみ作り上げられるだろう。リベラルを作り直すこと、そのためには、教育によって市民というものを作り直していくことにほかならない。

市民と教育、持続的な努力によって市民を作り出すための教育を行うこと。そこから始めなければ、リベラルに未来はない。 

 

マーク・リラの『リベラル再生宣言』の主張の根底にある考えをざっくりとまとめればそんなところになるだろう。そのうえに築かれるリラの主張は、拍子抜けするほどに、馬鹿馬鹿しいほどに、月並みなものである。既存の政治回路を信頼しよう。選挙で候補を当選させ、議会で法律を通過させよう(110頁)。政治とは議会でやるものである。

それはもしかすると、政治を政治家に委ねよう、ということになるかもしれない。政治を自分探しだとか自己実現のための口実にしてはいけない。そういう契機が政治にあることは否定しないし、そういう側面が政治にあってもいい。しかし、政治の本当の役割はそれではない。

 

右左両方で肥大する個人

レーガン的な個人

リラの見取り図によれば、右派と左派の両方において「個人」というカテゴリーが台頭してきた結果、リベラルという立場が成立しえなくなってきている、ということになるだろう。ここで興味深いのは、リラが、共和党民主党の両方のスペクトラムにおいて、レーガンをさらに過激化したようなネオリベラリズムと、ニューレフトに端を発する文化左翼の両極において、個人の肥大化が進んでいると見ている点である。

レーガン的な消費社会的個人主義は、伝統的な保守層が思い描いてきたような、農村的保守性ではない。郊外に生きる互いに孤立した消費者たちは、ショッピングモールにおいて邂逅することはあるかもしれないが、もはや積極的な共同体志向は持ち合わせていない。道徳的基盤がないから、義務の観念のようなものもない。あるのは、ただひたすらに、経済的なもの一元論である。勝者総取りの世界。

・良い生活とは、自立した個人の生活のことである――個人はおそらく家族や教会、小規模な共同体に属しているだろう。しかし、どの人も、共通の目標を持った、互いへの義務を負った共和国の市民というわけではない。

・優先すべきは富を築くことであって、その再分配ではない。したがって、個人やその家族は、独立を保ち、自らの経済的繁栄に集中できる。

・市場は自由になるほど成長し、その結果、すべての人を富ませる。

・政府は、レーガンの言葉によれば「その存在自体が問題」である。専制的な政府でなくても、非効率な政府でなくても、不公正な政府でなくても、ともかく政府でありさえすれば、それだけで問題である。(36-37頁)

レーガン個人主義、それは自助努力によってすべてを成し遂げたと信じる自由な個人への信仰であり、それが行き着く先は、ノージック的な最小国家である。なるほど、右翼的な思考を根気よくシンクタンクやアカデミズムへと浸透させていったのはレーガンの遺産である。 

ともかく[共和党の中核を担う人材を育てるための教育が必要であることを理解していた者たち]は、運動に永続的な変化を起こすためには、絶えず新しい人材を育成しなければならず、また新しい人材はとにかく必要な荷物だけ持たせて外に送り出し、自らの足で政治に関わる長い進軍をさせなくてはならない、と直感的に理解していたらしい。進軍の目的は、既存の政府を取り除くことだ。まずは既存の政府を自分たちのものにし自由に制御できるようにする。いわば、反政治的な目的のために、政治的な手段を使うということだ。(53-54頁)

大学生向けのサマーキャンプだと大学教授向けの読書グループだとかを立ち上げ、大学院生に資金援助をして共和党的な考えの教授のもとで学ばせ、法曹界や教育界にシンパを増やし、法律や政治の教えられ方に影響を与えていくという、ある意味ではトロツキストでさえある戦略的教育介入からすると、FOX Newsはそのさらなる過激化と言えなくもないが、その陶酔的なまでに騒々しい自画自賛的トーンは、かつての地下活動的な迂遠的プロパガンダからは大きくかけ離れてきている。

レーガンは政治の意義を縮小し、経済的なものを極大化することによってリラが「反‐政治」と呼ぶ傾向を作り出したが、その過激な継承者は、レーガンその人ではなく、レーガン主義とでも言うべきものである。それは共和党保守本流が引き継いだものではなかった。それをひょいと受け取ったのは、ドナルド・トランプである。

 

ニューレフト的個人

リラの描写は少々戯画的であるし、あまりに厳しすぎるようにも感じるが、彼の語る批判連鎖の例はあまりに示唆的である。

たとえば、人種による分裂は急速進んでいる。黒人たちは、指導者の多くが白人であることに対し、不満を訴えるようになった。指導者に白人が多いことは事実だ。フェミニストたちは、指導者のほとんどが男性であることに対し、不満を訴えた。指導者のほとんどが男性であることもまた事実だ。間もなく、黒人の女性は、急進派の黒人男性たちによる性差別と、白人のフェミニストたちによる暗黙の人種差別に対する不満を訴え始めた――また彼女たち自身、ヘテロセクシュアルの家族だけが自然のものと考えているとして、レズビアンたちから批判されるようになった。(83頁)

ある問題を、特定のアイデンティティを持つ人だけのものにしてしまうと、敵対者に必ず同じことをされる。特定の人種のためだけに闘う者は、他の人種のためだけに闘う者に攻撃されることを覚悟しなくてはいけないし、攻撃に負けることもあり得る。(138頁)

これらの批判はいちいちもっともだし、正当なものではある。しかし、それは、そもそもの問題をぼやかす結果にもつながってしまう。社会正義を押し出しすぎると、自分たちを正しく表象することに固執しすぎると、自分たちが自分たちの思うように認知されることに固執しすぎると、具体的なイシューが影に隠れてしまう。「アイデンティティに対する意識が強まるにつれ、問題別の政治運動への参加意欲は薄れることになった。そして、自分にとって最も意味のある政治運動とは、当然、自分のことに関する運動だろう、という考えを持つ人が増えていった」(90頁)。

ニューレフト的な個人主義が行き着いたのは「疑似政治」である。そこで、政治は、たえざる運動であるとか、おわることない議論に移し替えられる。たとえば大学のキャンパスが、疑似政治のための絶好のフィールドとなるだろう。そこでは、「わたしたち」という大きな主語は普遍主義や本質主義の臭いがするものであり、忌避されるものとなっていくだろう。大きなカテゴリーは、ますます細分化されていくだろう。そうした動きが、フレンチセオリーによって知的に裏づけられていくだろう。「過激な個人主義に知的な根拠が与えられる」(94頁)。

政治はもはや、議会や法律ではなく、裁判所や街頭において営まれるだろう。プロテストこそが、デモこそが、政治なのだ。なるほど、それは、「反‐政治」とは違い、政治的なものを否定することはない。議論はあるし、理念はある。集団がないわけではないが、それはもはや、フェイスック的なものでしかない。

そこには永続的な政治装置がないし、異質な他者の身になって考えるような媒介装置がない。フェイスブックの集団性は、ルーズベルト体制にあったような強固な集団的アイデンティティではないのだ。なるほど、それはたしかに、美しい嘘のようなもの、輝かしい空約束のようなものだったかもしれないにせよ、連帯の戦略的必要性を教えてくれるものでもあったのだが、それが失われたいまや、キャンパスにおけるアイデンティティ派のリベラルな個人のあいだでは理性的な政治的議論が成立しなくなってきている。

たとえば教室での議論なら、過去には誰かがまず「私はAだと思う」と言い、その後、互いに自分の意見を言い合う、という流れになったはずである。今はそうではない。Xの立場で意見を言った人は、たとえば誰かがBという意見を言っただけで、それを自分への攻撃と受け取り、怒り出す。アイデンティティがすべてを決めていると信じているのだとしたら、意見に反論された怒るのは当然である。アイデンティティを否定されたのと同じだからだ。これでは偏りのない公平な対話の余地はどこにもないことになる……他人に意見を変えさせようとするのはタブーにすらなっている。誰もが特権的な立場で話をし、誰も人の話を聞かないキャンパスにいると、宗教に支配された古代世界にいるような気分にもなる。(97-98頁)

しかしこうした態度は、「白人の男性には白人の男性の認識があり、それは黒人の女生徒は違っている」という当たり前の前提を確認するだけだろうし、「それに何を言えばいいというのか」ということにしかならない。理性的な熟議が、理論武装されたアイデンティティ・ポリティクスによって、完全に封じこめられてしまう。

新左翼が激しく現実的な政治闘争から逃れて大学のキャンパスへと戻り、若者たちを自分たちの後継者にできればと期待したころには、このような事態になることはまったく想定していなかった。彼らが夢見たのは、学生たちが大きな政治課題について無制限で激しく議論し合うようになることである。部屋に集まった学生たちがお互いを疑わしそうな目で見るだけで、まともな議論をすることもない、こんな状況は望んでいなかった。学生たちが活発に意見を述べて互いを刺激し合い、皆が自分の意見を通すために知恵を絞る、そんな大学の姿を想像していた。ところが、現実の学生たちは、ほとんど会話すらしなくなってしまったのだ。世界に政治的に関与し、そのために幅広い情報を積極的に集めるようになるだろうと期待したのに、実際には誰もが自分の殻に閉じ込もって外に目を向けなくなってしまった。(99頁)

 

アイデンティティ・ポリティクスの後で

そうなってくると、噴出する怒りや憤りは場当たり的に発散されるだけで、具体的な帰結には結びつかず、体系的な変革にもつながらないようになるだろう。感情による政治が現在を支配しているとしても、別の感情による政治では現状は変えられない。感情に感情的に反応するだけでは不充分である。

意識変革には意味があるが、意識変革だけではすべては変わらない。結局のところ、インフラ的なものを、マテリアルなところを、変えていかなければだめであるし、そのためには、政治を担う人材の教育が必要である、というのが、リラの主張するところだろう。

皮肉なのは、それは、レーガンたちが成し遂げたことにほかならないというところだろう。リベラルは、とうとう、ネオリベラルたちの戦略から学ばなければならない。これまでリベラルたちは、大学内の知的エリートたちから学んできたわけだが、それはもしかすると、「一段高いところから無知な人たちに向かって説教する」(117頁)という態度を助長してきたきらいがあるし、それは、コットン・マザー以来の「説教をするのは好きだが、他人に説教されるのは大嫌い」(121頁)というアメリカ国民気質の悪い側面を増幅してきたきらいがある。

リベラルはエリートづらを捨てなければならない。アイデンティティ・ポリティクスから抜け出し、選挙で戦い、選挙で勝つための戦略を練り上げていかなければならない。妥協点を探り、連帯相手を増やしていかなければならない。

そのための拠り所は「市民」であると言う。なぜなら、市民はアイデンティティよりも根源的なものであるがゆえに、人種を越えて適応するものだからである、というのが理由のひとつであり、もうひとつの理由は、「市民」が権利と義務の両面性を備えているから、個人の権利だけではなく他の個人にたいする義務をも含みこんでいるから、とうことであるらしい(131頁)。

 

リラの提言がはたして今日のデジタル・テクノロジーの文脈で果たして実践可能なのかは、疑問がある。SNS的なコミュニケーションは、市民に必要とされるような理性的熟議と真っ向から対立する感情的反射を促進するが、わたしたちは複線的なコミュニケーション回路を発展させていけるだろうか。それは間違いなく、いちど作り上げればメンテナンスしなくていいというたぐいのものではない。「市民は生まれるものではなく、作られるものである」(139頁)のだとすれば、たしかに、新たに作っていくことは依然として可能であるし、これまで想像もしなかった新しい市民のかたちを、これまで想像もできなかった新しいやり方で作っていくこともできるだろう。

依然として問題は残る。「市民意識を維持するのは非常に難しい」(140頁)からだ。もしかりにSNSに逆らってリベラルな教育を作りなおしたとしても、それを継続的に維持していけるかどうかは別問題である。だが、「民主主義者のいない民主主義社会」(143頁)に陥らないためには、とにかく続けていくしかないのだ。そのためにはアイデンティティ教育はむしろ逆効果であり、50年代から60年代のラディカルたちを育てた古典的教育のほうが現実的ではないかという提案は非常に興味深い(とてつもなく保守的で時代錯誤的に聞こえるものではあるが)(147-148頁)。

 

 

翻訳は数か所で微妙におかしい気がしたが、通読を妨げるようなところはない。解説は私的なエッセイとしては面白いかもしれないが、本書の内容解説としては不充分であると言わざるをえないだろう。

特任講師観察記断章。フリの重要性。

特任講師観察記断章。「真面目に聞けとは言わない。そこまでは言わないけれど、真面目に聞いているフリはできるようになってほしい。興味をもって熱心に聞くというのが最上なのは言うまでもない。興味がないから攻撃的につまらなさそうに聞くというのも大学生ならアリです。しかし、無関心に俯いたまま聞いたり答えたりするというのは芸がなさすぎる。デフォルトの態度は、無関心ではなく、やる気のあるフリであるべきです。顔を上げ、フムフムと相槌を打ちながら、内心では「くだらない話しやがって、早く終われよ」と思ってるくらいでちょうどいい。それはこちらも仕事ですから、やる気がある相手だろうがない相手だろうが、やることはやりますし、必要とあれば、明らかにほとんど誰も聞いていない教室に向かって無心で話し続けることはできます。しかし、そんなことをやるんだったら、もう録画した講義を流せばいい。対人コミュニケーション的な要素がことごとく否定されているような空間では、わざわざ対面でやる意味がない。こちらもただの人間ですから、おだてられればやりやすいし、興味のない相手に90分も話し続けるのは心が折れる。よいしょしろとか、ほめたたえろというのではありません。それはくだらないし、気持ち悪い。しかし、話す方に気持ちよく話させてやる技術というのは、みなさんが必要とするもののはずですし、集団的に作っていくものでもある。クラス25人いて5人が興味ありげに聞いていても、20人という大多数がやる気なさげだと、話しているほうもそちらに感化されていつのまにかモチベーションが下がり、それがやる気ある5人にも感染し、という悪循環になる。いい環境を保っていくこと、いい空間をキープしていくことは、持続的な努力あって初めて可能になるものですし、そのためには、リーダーとか一握りの突出した人間ではなくて、モブ役のほう(というのはあんまりな言い方ですが)のアクティヴな関わりが必要になってくる。繰り返しますが、重要なのは、本当に参加するというよりも、参加しているようなフリを続けるということです。フリが作り出すものはあるし、フリから本当になるものもある。しかし、無関心はどこまで言っても無関心でしかない」というような嫌味を、当てられてもこちらを見ることなく下や横を向いて話す学生たちに触発されて二度も放ってしまった。午前中のいちどめは無計画に、午後の授業でのにどめは計画的に。

特任講師観察記断章。自分のスピーチパターンの自己検閲。

特任講師観察記断章。自分のスピーチパターンを自己検閲する。いま英語で話そうとすると、かなり自然に言葉は出てくるけれど、それは要するに、使えるレパートリーが限定的だから、選択肢の幅が狭く、迷う必要が少ないだけでもある。だからだろうか、英語で話す場合、沈黙を埋めるためだけの無意味なフレーズ――umとかyou knowとかwellとかlikeとか――が無意識のうちに口をついて出ることはあまり多くない。それほどまでに英語で話すことが意識的なパフォーマンスになってしまっている。

ところが日本語になると、どんな事柄についても話すことができてしまうし、どんな言い回しでも思いのままに使おうと思えば使えてしまうがゆえに、逆に一瞬迷ってしまい、思わず「えっと」という言葉が口から洩れてしまう。その言葉が発せられた瞬間、「ああ、いま不用意に言葉を使ってしまった」という後悔にも似た気持ちが湧きあがってくる。日本語のコミュニケーションのほうが意識のコントロールに従わない部分がはるかに大きい。

それが正直すこし癪に障る。コミュニケーションを完全にコントロール下に置きたいというわけではないのだが、「えっと」というフレーズがただ単にあまり美しくない気がする。

そこで「えっと」のような言い回しをできるかぎり言わないという挑戦に先週から取り組んでいるのだけれど、これがなかなか難しい。時間にすればほんの数秒、いや、ほんの数瞬のことなのだとは思うが、まず、そのわずかな沈黙にたえる勇気がいる。大勢の人間のまえで、目の前で始まりかけている音のない空間にたちむかう精神力がいる。それから、息を吸いこんでから言葉を吐き出すまでのあいだの時間密度を濃くして、スローモーション化した精神の時間のなかで文章の冒頭を練り上げなければいけない。そして、「えっと」を省くということは、言葉の最初からきちんと聞き取れるように話すということだから、最初の音からはっきりと響かせるために、深い呼吸がいる。「えっと」と思わず漏れそうになる言葉を喉の奥に吸いこみ、代わりの真っ当な言葉を胸の奥から引き上げなければいけない。言葉にたいする真剣度が高まり、自分の身体との対話が深まる。

こうしたマインドフルな言葉の使い方が、はたして聞き手たる学生たちに何か有益な結果をもたらしているのかというと、それはわからない。もしかするとずいぶん人工的な話しぶりに聞こえるのかもしれない。いや、こちらがそんな小細工をしていることに気づいてもらえてすらいないのかもしれない。自己検閲はまったくの自己満足でしかないのかもしれないけれど、このほうが、話すことの快楽は繊細に感じることができる。

「あなた」が旅するアメリカの物語:多和田葉子『アメリカ 非道の大睦』(青土社、2006)

二人称で書かれた不思議な小説。読者を強制的に、しかし威圧的ではないかたちで、物語世界の住民のひとりにしてしまう手法は、たしか、イタノ・カルヴィーノがどこかで試していたはずだがーー『冬の夜ひとり旅人が』だっただろうかーー依然として新しく、依然として奇妙な読書経験を作り出してくれる。

読者である「わたし」は決してこの小説において「あなた」と呼びかけられる人と同じ経験をしていない。人好きのしないドライバーと同じ車のなかで何時間も気まずいときを過ごしてマナティを見に行ったこともなければ、ラスベガスで子供の話をしたこともない。

しかし、この小説を読んでいると、あたかも自分がそのような経験をしたかのように、そのような経験によってかたちづくられる世界の一部になったかような錯覚するし、その錯覚に過ぎないはずのものがいつのまにか自分の実体験の一部にまでなってしまっているの気がついて心地よい不意打ちを味わってしまう。 

マナティはイルカと同じで大変頭がいいんですよ。」

 見ると、隣にヒッピーのような格好をした老人が立っていた。

「頭よさそうに見えないでしょう。お互いに雌や権力を得るために戦ったりしないから、頭わるそうに見えるんです。イルカも同じです。戦わないんですよ。利口さには二種類ある。猿型とイルカ型と。猿はボスから順に身分がはっきりしていて戦争ばかりしている。」

「それじゃあ人間は猿型ですね。」

「そうです。残念ながら。」

 あなたはいつの間にかマナティが好きになっている。(108頁) 

 

「さあ。でも、子供は禁止らしい。子供が生まれたらもうあの街[ラスベガス]には住めないんだって。」「どうして?」「子供のいるところで賭け事をやってはいけないって法律でもあるんじゃないかな。」「それじゃあ法律が逆でしょう。賭け事をしているところで子供を産んではいけないってことでしょう。」「それとも、子供が増えると、保育園とか幼稚園とか学校とか作らなければならなくなって、純粋利益の街じゃなくなるからかな。」(152頁) 

 

2004年から2006年にかけて「ユリイカ」で連載され、2006年に単行本として刊行された『アメリカ 非道の大睦』で描き出されるアメリカは、ポスト911の時代のアメリカだと思うのだけれど、あまりそうした感触はない。多和田は現代世界の政治や社会状況をさらりと作品に盛り込んでくる作家だがーーたとえば、2016年から2017年にかけて連載された『地球にちりばめられて』で登場人物たちはオスロに行くが、そこで登場人物たちが見聞きするテロ事件の余波はおそらく、2011年に起こったキリスト教原理主義者の右翼白人男性による銃乱射事件を踏まえているのだろう、決してそうとは明示的に説明されることはないけれどもーーここでは、政治的出来事によって作り出される短期的な潮流というよりも、ブローデルが「長い持続」と呼んだもののほうに、長い時間をかけて形成されるがゆえに短い間に一挙に変わってしまうことがないような恒常的生活感覚のほうに、フォーカスが当たっていると言っていいように思う。 

興味深いのは、それが、断片的な段落によって描き出されていくことだ。それほど長くない章は、それこそ数頁単位の小さな断片によって出来ている。断片から断片のあいだで話が飛ぶわけではない。断片のあいだに置かれた空白の数行は、連続するシークエンスのあいだに挟まれる一瞬の暗転のようなものであり……

 

とはいえ、ここで描き出されるアメリカが、アメリカ一般であるかというと、それは違う。「あなた」はアメリカのいろいろな場所につれていかれる。ロサンジェルス、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、ラスベガス、フロリダ、ケンタッキー。飛行場、ショッピングモール、ブックストア、ミュージアム。さまざまなことを疑似体験するだろう。車の運転。砂漠。ロブスター。

これはあくまで「あなた」が旅するアメリカの特定の場所についての物語である。「非道の大睦」という副題は、大上段の命題というよりは、「あなた」の極私的な体験から導き出される個人的なものであるととらえたほうがいいのかもしれない。 

多和田の作品を特徴づける言葉遊びはここではかなり希薄だ。ないわけではない。彼女特有の脱臼的な会話の流れはある。しかし、ここでは、「あなた」という文学装置が、それ以外のものを後景に追いやってしまっているきらいはある 

 

単行本として刊行されるさいに書き下ろされた最終章にあたる13章「無灯運転」はかなり手触りがちがう。「あなた」という語りかけは同じだし、運転免許の話であるとか、ペーパードライバーの話は、本書に収められた他の章と呼応している。

では、何が違うのか。おそらく前章までは、ある程度まで、ルポルタージュ的な事実報告の側面が、テクストの本質的な部分にまで絡んできていたが、ここではそれが副次的なものに格下げされ、「あなた」の感性や情感を描き出すことがクローズアップされているところではないかと思う。

ここではもはやアメリカはホテルの一室に集約され、「あなた」の内側がその外側とつなげられる 

もう何日もこの部屋にこもっているのに、ドアをノックする人はいなかった。かまわないでくれるのは嬉しい。レセプションでは、客の体が腐って臭ってきたら警察に来てもらってドアをこじ開け、それまでの部屋代をクレジットカードから引き落とせばいいと考えているのかもしれない。クレジットカードの番号さえ分かっていれば、客の体などなくてもいい、ない方がいいと考えているのかもしれない。でも、身体が腐るまでは、まだまだ時間がかかるだろう。それにあなたは腐る予定など全くない。ただ部屋にこもっているという気分をウイスキーのように熟成させたいだけだ。それまでドアには触らないつもりでいる。ドアの方を見ようともしない。ドアは無視されているうちに、壁の一部になってしまうかもしれない。(176頁)

そして「カラスのお面をかぶった女」(179頁)に連れ出され、最後のドライブに出かけることになる。

あなたは女のやろうとしていることが理解できない。なぜ皮やヒゲつきのトウモロコシをホテルのテーブルのうえに並べたのか、なぜテレビの横に置いてあったウイスキーをグラスに注いで、トウモロコシの横に置いたのか。

不思議な儀式は、車の運転というもっともアメリカ的かもしれないもっともありきたりのシーンへと移行する。「「あなたはホテルにこもって孤独の醗酵するのを待っていたでしょう。その時の醗酵のイメージは、ケンタッキー州にあるバーボン・ウイスキーの工場から借用したでしょう」と言われたらもう言い返すこともできない」(182頁)と思いながら。 前章までは「アメリカ」が主であったのだが、ここでは「あなた」が中心に据えられている。

自然主義的な微に入り細を穿つような細密描写は、多和田の得意とするところではない。彼女は登場人物というきわめて特異な主観的フィルターを通して、ものごとの特定の側面とダイレクトにつながろうとする。だから、「あなた」という不特定多数の任意のキャラクターを狂言回しにするのは、多和田のなかでは傍流的なやり方ではないかという気がするし、だからこそ全編にわたってどこか実験的な手つきが残っていたのだけれど、それがこの最終章においてはとうとう完全に彼女の手中に収められたという印象を受ける。 

では、そのおかげでこの章がおもしろいものになっているかというと、どうだろうか。ひじょうに多和田らしい、とは言える。多和田は物語を終わらせることがうまくない作家だと思うのだがーーというか、すべてのプロットがきちんと閉じられる大団円のフィナーレを彼女から期待するほうがそもそも見当違いなのではあるけれどーーここでも、話はいきなり断ち切られる。というか、物語は終わらないようだが、テクストは終わってしまう。 

詩と地の文が交互に続けられ、テクストのスピードがグングン上がっていく。まだ話を続けてほしい、しかし、それは叶わない願いである。というより、願いは、読者から作者へではなく、作者から読者へと投げかけられるのだと言ったほうがいい。

「あなた」についてのテクストは、あなたに、あなたが持とうとは思わないのかもしれない希望の気持ちを与えることで終わりを告げる。

走るのをやめないで確かめたい。(186頁)

この宙吊り感、この取り残され感のそこはかとない哀しさと狂おしさと憧れこそ、彼女の文学のコアにあるものだ。 

あなたの見つめる水の中の 

あなた          (187頁) 

具体性、主観性、永遠性:「小倉遊亀と院展の画家たち展」

20190525@静岡市美術館

 

http://shizubi.jp/img/exhibition/190406_bn_01.jpg

まるみ、しなやかさ、つよさ

まるみをおびた線。円い顔、丸い頬。弱いわけではない。かよわいわけではない。柔らかく、しなやかで、すべてをやさしく受け入れてはきちんと跳ね返す。不思議な強さが宿っている。

小倉遊亀は戦後わりとすぐの時期にマティスのような20世紀の西欧画家から積極的に学んだ絵を発表しているが、それらの習作群は、日本画と西欧モダニズム絵画の共通の関心領域を浮かび上がらせるとともに、日本画の特異性がどこにあるのかを明らかにしてくれていたように思う。

 

遠近法とはべつの仕方で 

日本画の知識をほとんど持ち合わせていないわたしなので、ここで言うことはあくまで個人的な直感にすぎないのではあるのだけれど、ルネサンス以降の西洋絵画と比較した場合、近代日本画は遠近法にたいする抵抗であると言っていいような気がしている。奥行きとはべつの空間構成の探索である。ここでは2次元的であることが徹底的に追及されている。それはやや太めの線であるとか、フラットな面、陰影をあまりつけない色使いであるとか、奥行きを同一平面に翻訳するというコンポジションである。

それを反‐リアリズムというのは、すこしちがうだろう。反‐ミメーシス的、反‐写真的と言ったほうが、おそらく妥当である。見えるようにただ写しとるのではなく、すべてを意図的に再構成するのだ。3次元の空間にあるものを、画布という2次元のうえに置き換える作業であり、そこには、人為的なプロセスが必然的に入りこんでくる。

セザンヌがやろうとしたことにかなり近いとも言える。セザンヌ静物画は、決して見えるようには書いていない。そこでは、複数の視点からえられた角度が、ひとつの平面のうえで共存させられている。ずっと上のほうからの見え方の盆と、横のほうからの見え方の果物。それは現実には決してありえない合成である。それは画家というフィルターが変容した視覚イメージである。

 

2次元的なデザイン

デフォルメ、と言ってもいい。なぜ浮世絵が19世紀後半にヨーロッパの画家たちに大きな影響を与えたのかがわかるような気がする。浮世絵において遠近法が完全に否定されているというわけではないと思う。しかし、そこで遠近法は、いくつかある空間構成の論理のひとつにすぎないし、もっとも支配的な構成原理ではない。2次元的デザインの美的価値のほうが、3次元的現実への忠実さよりもはるかに重要なのだ。デザインのために、現実を正しく写し取らないことが正当化される。

とはいえ、そこでは、現実のモデルが画家のアイディアを描くための単なる道具や口実にまで格下げされているわけではない。現実は依然として描写されているし、そこに記録的価値は依然としてある。しかし、それは客観的なデータというよりは、画家の主観的な印象である。客観的に存在するものについての主観的な記憶である。

おそらくゴッホセザンヌたちは、非リアリズム的な平面化を、きわめて個人的に押し進めた。セザンヌはとりわけコンポジションにおいてであるし、ゴッホの場合は筆致の果たした役割が大きいように思うが、どちらも、絵画のデザイン性、デザインの現実からの独立性を高めるための、美学的実験ではなかっただろうか。この傾向はキュビズムにおいて、集団的なものに、メソッド的なものにまで高められていくだろう。

 

平面化のメソッド、または日本画という伝統

日本画がジャンルとして取り組んできたもの、伝統として発展させてきたものは、まさにそうした、非リアリズム的な平面化のための方法論だったようにも思う。しかしそれは、同時に、ありのままという写生的リアリズムよりも、伝統的なモチーフやステレオタイプの再生産でもあった。山水画に描かれる山や川は、もはや、実際の山や川ではなく、山水画における画題としての山や川であり、山水画というジャンルが定める山なるものや川なるものでしかない。そうなってくると、絵画は、現実との照応関係ではなく、過去の絵画との相互関係において、文学理論的に言えば、間‐テクスト性intertextualityにおいて理解されるものになっていく。そこから生まれてくるのは、伝統の盲信であり、師匠や学派への全面的追従だろう。というのも、描くということは、個人的で自発的な試みではなく、集団的に受け継がれてきたものの意識的な焼き直しであり、そのために、これまでのレパートリーを保持している人びとから学ぶことであるからだ。

しかし、興味深いのは、明治期におけるリアリズム的な西洋絵画との遭遇が、そうした日本画の伝統的自己参照性の問い直しにつながったらしいという点である。展覧会には速水御舟の作品が何点かあったが、速水の線画的スケッチは、きわめて写生的であり、きわめてリアリズム的である。しかしながら、屏風に落としこまれるさい、リアリズム的なものがスタイル的なものに翻訳される。具体的な花々であったはずのものが、花なるもの一般の表象となる。スケッチにおける凹凸ある陰影は、フラットな塗分けとなる。それはまちがいなく、具体的に存在したものに端を発するものであるし、そことのつながりは切れていない。速水は現実にあるものを克明に、鮮明に描き出そうとする。しかし、そのプロセスは、最終的に、現実そのものの模写ではなく、画題の一般性――それは脱‐文脈的で、超‐時間的なものであると言っていいのかもしれない、プラトンのいうイデアのようものだ――のほうに向かっていく。

 

写実性をくぐって伝統を抜けて生に至る

小倉の絵は「深く」ない。 奥行きがないからだ。しかし、それは彼女の絵が薄っぺらいということではない。その反対だ。画布の向こうもなければ、画布の手前もない。ただひたすらに画布そのものだけがある。ただひたすらに、2次元の画布のうえに描かれたものだけがある。

小倉は、一方において伝統的な日本画を引き継ぎつつ、他方では西欧近代絵画の問題――絵画的表象の自律性――と常に向き合い続けたのではないかという気もする。小倉の絵画には、ひたむきな写実性がある。しかし、それは画布の向こうにあるモデルを忠実に写し取るためではない。その逆だ。小倉において、写実的であることは現実からの解放なのだ。眼前の花や果物を、器を人物とひたむき向き合うことによって、小倉は、具体的なものの向こう側にある抽象的なものを、画布のこちら側のほうに浮かび上がらせる。日本画の伝統的な手法やレパートリーを彼女は引き継ぐだろう。しかし、そうした伝統のほうを優先させることはないだろう。

彼女が描いたものは現実の誰かや何かの似姿かもしれない。しかし、それらは同時に、極私的な彼女自身のヴィジョンでもあり、そうでありながら、普遍的なイマージュでもある。

具体性、主観性、永遠性。小倉の絵画においては、これら3者が奇跡的なバランスで競合し、心地よい緊張感を作り出している。それはひたすら高みに上っていくような昇天的なものではないし、ひたすら暗く沈んでいくような悲劇的なものでもない。この世にあることのよろこびとかなしみを、しずかなつよさとともに、すべてあますところなく肯定しようという生のありかたではないかという気がする。

 

 

日本画アスペクト比と時間性

いくつか思いついたことを書き留めておく。掛け軸にしても、巻き物にしても、屏風にしても、日本画アスペクト比は西洋画のそれとは大きく異なるように思う。もし西洋近代絵画が奥行によって時間性を取り込もうとしたら、日本画は、縦や横の長さのなかに時間的推移を描き出そうとしたのかもしれない。実際、屏風には複数の時間的瞬間が描きこまれていたりするし、巻き物をたぐるという行為は時間的なものである。つまり、横や縦に長いということ、全貌をつかむためには場所を移動したり、一瞬ではない時間をかけなければならないということは、日本画がそもそも時間経験的なメディアであり、絵画というよりは映像なのだということかもしれない。そう考えていくと、日本画から漫画――漫画もまた、複数の画像による時間的推移の表象である――に通じる線を思い浮かべることは、あながち的外れではないのかもしれない。

 

デフォルメのほうへ、または戦後漫画の方法論

リアリズムに始まりながら、リアリズムには着地しない。写実的スケッチから始めながら、デフォルメ的な変容に向かう。このリアリズム的な非‐リアリズムは、手塚治虫たちの漫画の方向性とパラレルではないだろうか。もちろん、手塚はのちに劇画的なもの――リアリズム的なリアリズム――の方向にも進んでいくことになるが、藤子F不二雄のドラえもんのような漫画は、デフォルメ性とリアリズム性を共存させていくだろうし、デフォルメそれ自体をスタイル化し、反復可能で複製可能なメソッドに練り上げていくだろう。

小倉のまるくなめらかな線はどこか石ノ森章太郎のキャラクターたちを思わせる。小倉のしなやかで強靭な線は山岸京子のキャラクターたちを思わせる。とくに山岸京子の古典王朝ものを思い出せるのだが、これは、小倉が谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」の挿絵などを手掛けていたことを考えれば、まったく突拍子のない連想というわけではないのかもしれない。

平等から始めよう:ジャック・ランシエール、松葉祥一・上尾真道・澤田哲生・箱田徹訳『哲学者とその貧者たち』(航思社、2019)

平等「から」始める

知性と感性の平等というランシエールの議論の根本にあるテーゼは、考えるほどにわかりづらくなる。ランシエールにとって、知性と感性の平等は出発点であり、到達点ではない。不平等を存在論的な事実=真実として受け入れてしまえば、平等を理念的な目標=目的として持ち上げてしまえば、是正されるべき「いまここ」から目指すべき「いつかのどこか」の途上のどこかで、起源に置かれた不平等が何らかのかたちで再帰してくるだろうし、そうなってくれば、不平等を無理やり押し込めるしかなくなってしまう。現実を根本から否定するのでなければ、理想にたどりつけないということになってしまう。だから、平等から始めなければならないのだ。平等は「いまだ‐ない」到達目標ではない、「すでに‐ある」のだ。

 

どのような平等?

ここまではよい。しかし、わたしたちがみな瓜二つの同一の存在であるというようなことをランシエールが言っているとは思えない。すべての人間が量的にも質的にも完全に同じ知性と感性を持っているわけではない。そんなことは、デジタルな世界でしか、デジタルなコピーが可能なヴァーチャル・ワールドでしかありえないだろう。アナログな存在であるわたしたちは、絶対に、なんらかのかたちで互いに異なっている。機会の平等だとか結果の平等のような社会的なレベルではなく、肉体的なレベル、生物的なレベルにおいて、絶対に異なっている。近代社会が導入しようとした、そしていまだ完全なかたちでは成し遂げられていない法の下の平等は、制度的な平準化である。わたしたちがたとえ互いにどれほど異なっていようと――年齢的に、性別的に、人種的に、階級的に、思想的に、宗教的に、趣味的に、などなど――、法という観点からすれば、すべてのひとは何の分け隔てもなく同一の扱われ方をする、というものだ。特権の排除、特例の拒否と言ってもいい。しかし、ランシエールが言う知性と感性の平等とは、生物的所与や社会的所与にたいする法制度的な上書きではない。では、それはどのような意味での平等なのか。

 

潜在能力の普遍的な所与性

能力を数量化するのはゲーム的思考であり、まったく褒められたものではないとは思う――はたして能力は数量化できるようなものなのか、数量化されたものはすである特定の目的を念頭に置いて局所化されたものであり、プレーンなものではありえないのではないか、と疑ってかかって然るべきであるし、ランシエールの主要主題のひとつであるpartageがまさに分割と共有という分節の問題(生の「素材」をいかに加工して「材料」に転じるか)を扱っていることを思えば、数量化という安易な分節法に依拠すべきではないとは思う――けれど、その思考法にのっとってあえて端的に述べれば、ランシエールの言う知性と感性の平等とは、みんなのさまざまな能力の具体的な数値が同じ(具体的な相対的平等)なのではなく、わたしたちのだれもが同じ種類の能力を等しく持ち合わせている(メタ的な平等的分配)、ということなのだと思う。ランシエールのいう平等とは、何かをする/になるための能力的な可能性がだれにも等しく与えられていることであるように思う。潜在能力の普遍的な所与性、とでも言えばいいだろうか。パラメーターの項目はみんな同じである、そのどれかが絶対的にゼロということはない、そして、どのパラメータもある一定の数値まではかならず伸ばせるようになっている、という意味での平等。

だれもが同じ種類の能力をすべてデフォルトで持ち合わせているということと、その能力の具体的な優劣が個々人のあいだに存在するということは、矛盾しないだろう。たとえば、だれもが政治をやる能力を本来的に持っているということと、政治をやるのに適した性向について個々人のあいだにバラつきがあるということは、矛盾しないはずだ。フレームワークの設計や構造レベルでの平等と、具体的なパラメーターの数値レベルでの不平等は、両立するはずだ。ここで重要なのは、だれもが潜在的にはどんな役割を果たすだけのポテンシャルを持っており、それゆえ、どのポジションも究極的には交替可能である、ということだ。古代ギリシャアテネにおける民主制の役職決めが「くじ引き」によって行われていたというのは、そういうことだろう。だれでもできる簡単な仕事だからというのではなく、だれもがその仕事をこなすだけの能力を絶対に持ち合わせている、ということだろう。

 

カースト制度の否定、全般的な可塑性の肯定

裏を返せば、ランシエールは自然化され、固定化され、永続化されたカースト制を否定しているのだ、と言ってしまっていいのかもしれない。わたしたちが持って生まれる能力は、「これこれのことしかできない」というような特殊で限定されたものではない。「あなたは何にでもなれる」という無責任な楽観主義をランシエールが支持しているわけではないだろうけれど、「これにはなれない、あれになってはいけない」という禁止条項がわたしたちの身体や精神にあらかじめ書きこまれているわけではないということは、ランシエールの基本的な態度をかたちづくっているように思う。ランシエールの賭け金は、所与の分配の質的な公平性(量的な同一性ではなく)と、わたしたちの全般的な可塑性に置かれているのではないか。

もっとわかりやすく説明するには、ポジションのあるスポーツ――サッカーや野球――にたとえたほうがよかったかもしれない。ランシエールのいう平等性とは、ポジションのローテーション可能性のことだ、と言ってよいだろうか。ファースト「しか」できないプレイヤーとか、DF「しか」できないプレイヤーはいない。だれもが、どのポジションについても、それをやるのに必要な条件を満たしていないことはない。なるほど、ピッチャー「向き」のプレイヤーはいるだろうし、ストライカー「向き」のプレイヤーはいるだろうが、だからといって、バッターに向かってボールを投げたり、ゴールに向かってボールを蹴りこんだりする能力が絶対的に欠けているわけではない。 

平等は事実であり、真実である。平等はすでにわたしたちに与えられており、わたしたちのものである。だから、わたしたちは、平等を基本に社会を設計し、平等なかたちで社会的な生を組織し、平等をラディカルにすみずみまで行き渡らせることができないはずがない。

 

水平的分業の現実から垂直的序列の価値観へ

しかしながら、平等という出発点をラディカルに敷衍した思考はなかなか立ちあがってこない。わたしたちはあまりにも性急に自分の「適性」を探し求め、適性のあるポジションに「特化」してしまい、その結果、汎用性を失っていく。専門化すること、それはえてして一般性と特殊性のあいだのゼロサムゲームであり、不可逆的になるきらいがある。もちろん、オールラウンダーは稀だし、すべてのパラメーターをまんべんなく上げようとして中途半端になるよりは、パラメーターを絞ってそこに特化したほうが、平均から突出するためには効率的なやり方だろう。しかしながら、この便宜的な戦略に過ぎなかったもの――ポテンシャルにはオールラウンダーになれるが、戦略的にDFに特化する――が、抑圧的な命令に転化し――おまえの能力ならDFをやるのがいちばんいい――、固定化した再生産システムにすり替わるとき――おまえはいつもDFをやってきたんだから、それをやれ、おまえにはそれ以外のポジションは無理だ――、所与の時点では単なる「ちがい」でしかなかったパラメーターの数値的な偏差が、「上下」や「優劣」といったランキング制的な不平等に向かうための出発点となるだろう。

問題なのは、所与の数量的な不平等ではないし、特化や分化――マルクス主義的な語彙を使うなら、分業――ではない。とくに後者は、社会的な生を生きる人びとが自然に思い至るようなものである。すべてのことを自分一人でまかなえること、それはもしかすると、全人的存在としての個体が望む完全に自律的な生かもしれないが、有限な存在であるわたしたちには持続不可能なライフスタイルだろう。文明史的に考えてみても、分業がもたらした余暇や、余暇がもたらした非‐生存的創作――生き抜くために必ずしも必要でないもの、役に立たないものをつくること――の意義ははかりしれない。だから、問題は分業そのものではない。問題なのは、分業を自然化し、固定化し、永続化し、絶対化することだ。数量的な「ちがい」(事実のうえでの差異=区別)を肯定し続けることによって、質的な「不平等」(価値判断における序列=差別)を自明なものにすり替えてしまうことだ。

ランシエールはこう問いかけているように思う。いかにしてわたしたちの質的な一般的平等性を出発点として、所与の時点にある数量的な具体的不平等性を出発点としないようにするか。いかにして質的な平等から出発して、質的な平等性によって量的な不平等性を包摂するか。そうであればこそ、ランシエールは、量的な不平等性から出発して、それを質的な不平等性に転化していく思想にたいして批判的なのだ量的な不平等性を再生産することで、それをシステムとして安定的な構造に仕立て上げるような思想にたいして徹底抗戦を挑むのだ。

 

4つのケースが考えられるだろう。

1.不平等から不平等へ。それはカースト制であり、差別主義的な思想のほとんどがこの世界観に立脚しているだろう。本質主義的な差別主義であり、そのために、呪詛や烙印のような神話的、魔術的な操作が引き合いにだされるだろう。神に呪われた民族、禁忌を犯したものたち、罪を背負うものたち、けがれた集団、というように。

2.不平等から平等へ。この態度はもしかすると、温情主義的な、上から目線の、傲慢なリベラリズムなのかもしれない。おまえたちは劣った存在であるが、普遍主義的なものを信じるわたし(たち)は、おまえを同等の存在として扱ってやろう、というわけだ。もちろん、本質的な不平等ではなく、歴史的に作られた不平等の是正を通して平等な社会を目指そうという「下から」の平等主義には、そのような偉そうさはない。そこを混同しないように注意しなければならない。しかし、このアファーマティヴ・アクション的な「下から」の平等志向は、所与の平等性をどこまで肯定しているかだろうか。

3.平等から平等へ。これがランシエールの立場であり、それはアファーマティヴ・アクション的なものと対立しない。ランシエールは、自分の理論的立場を、「すでに」平等が達成されているというような現実肯定のための口実には使わないからだ。それはむしろ、現実にある不平等を変えるための理由であり、足掛かりである。その意味では、2と3は重なり合う部分が大きい。

4.平等から不平等へ。神話的なもの、民話的なものは、不平等を肯定し正当化するナラティヴとして機能する側面がある。創世記の初期においてひとびとはみな平等だったが、何らかの理由で、そこから転落した、というナラティヴである。旧約聖書にはそのようなエピソードに事欠かない。そして、ランシエールが本書で糾弾するのは、前提における平等を認めながら、そこに不平等を導入するものたちである。自らを序列の上のほうに位置づけるナラティヴを創出し、そのような世界観に従って世界を組織しようとするものたちである。そうしたものたちは、ここでは、哲学者と呼ばれる者たちである。

チェスタトンはどこかで「あらたな社会システムを構想しておいて、自らを被支配者側ではなく、支配者側のほうに置くような人間を、わたしは信用しない」と述べていた。ロールズの「無知のヴェール」で言おうとしたのも、似たようなことだろう。もちろん、宗教的な音調や倫理的な態度においては大きな隔たりがあるし、そこから引き出される結論はかなり異なったものであるように思うけれど、彼らが等しく批判にさらすのは、ヒエラルキーを構想するさいに、自分(と自分が属する集団や階級)をそのなかで優位なポジションに位置づけようとする自己中心的な狡さである。

 

プラトンマルクスサルトルブルデューに抗って

ここでランシエールが敵対するのはプラトンマルクスサルトルブルデューだ。彼らはみな、基本的には、マテリアリズム的な認識=存在論を受け入れている。 

生きるためには労働と生産が必要である。生活の糧なくしては精神生活も社会生活もありえない。しかし、誰が生産=労働するのか。こうして分業が導入される。食べ物を作るもの、家を建てるもの、服を縫うもの。さまざまな生活必需品の生産に特化する人々が現れる。生産者たちは水平的な関係にある。どれも必要だからだ。必要の度合いや必要なところが違うだけだ。しかし、必要性を組織し管理しようとするとなると、生産者とはべつの存在が要請されることになる(と哲学者たちは考える)。そうした存在は、生産者と同じ俎上ではなく、べつの階層に置かれることになる。こうして水平的な分業関係から、垂直的なエンジニアリングやマネージメント関係が生まれてくる。そこでは、便宜的でしかなかったはずの分業が、あたかも自然で正当なものであるかのように偽装されていく。生産に携わるものと、生産を上から管理するものとが、分離されていく。

ランシエールが糾弾するのは、分業そのものではないだろう。もしそうであれば、彼はいわばモリス的な全人的生産者を要求することになってしまう。そうした美的生活にむかう方向性がランシエールにないとは言わないが、彼にはそこまでの美学至上主義は感じない。そして、これはなかなか興味深い点だと思う。ランシエールアルチュセールの生徒のなかでも美学的傾向の強い人であるし、実際、文学や芸術について領域横断的に幅広く書いている――たとえばエチエンヌ・バリバールが政治哲学的なものを中心に比較的限定された特定領域内で幅広い仕事をしているのとは対照的である――けれども、ランシエールの趣味がどのあたりにあるのかは、いまひとつよくわからない。マラルメについての著書があるが、だからといってマラルメ的なモダニズムの擁護者というわけではないし、フローベールについて書いているからといって、ブルジョワ的な反‐ブルジョワというひねくれた皮肉を全面的に肯定しているわけでもない。19世紀の労働者文化について造詣が深いからといって、いわゆる労働者文化だけを手放しで絶賛しているわけでもなさそうである。おそらく、傾向としてはハイカルチャーよりなのだろうが――ランシエールポップカルチャー的なものについて言及しているところを見たことがないのだけれど、実際はどうなのだろう―――、ブルデューのように「高級文化」を上層階級の専有物とみなし、それをディスタンクシオンの指標に使うことには反対である。もちろん、ランシエールが自身の美的趣味について言明しなければならないなどという理由はどこにもないし、それを開示しろと迫るほうがむしろ理不尽なのだとは思うものの、ランシエールの美学に関する文章を読んだときにいつもふと感じるのは、彼の美的趣味にたいする疑問である。

 

価値のヒエラルキーVS混淆的な平等性

貴族主義的な価値のヒエラルキーと、現実に存在する混淆的な平等性。このふたつはけっして解消できないだろう。しかし、だからといって、どちらかをもう一方に無理やり解消させてしまうのは間違っている。ここで糾弾対象となる4人の哲学者たちは、後者を認識しながら前者を優越させてしまうという意味で、同じ過ちを犯しているということになる。

きわめてフランス的な本だ。20世紀中盤と後半をそれぞれ代表するフランス知識人サルトルブルデューが槍玉にあがっているからというのもあるが、それにもまして、議論のすすめ方がフランス的であるように感じる。執拗なまでの網羅性なのだ。この厳密な書き方にはフランスの高等教育における知的訓練の最良の側面と不毛な側面の両方が如実に見て取れる。マルクスの章がもっとも掘り下げらているのは、ランシエールアルチュセールのもとでマルクスについて学んでいたからだろうけれど、プラトンについての章もかなり深い。1次文献の深い読み込み、2次文献の広いリサーチ、どちらも学者たるものの基本的作法ではあるけれど、それがきわめて綿密で、しつこいほどに詳細なのだ。

正直、ここまで長く書く必要があったのかと思ってしまう。たしかに、ランシエール本人が序文で述べるように、彼の他の本にくらべれば直截的なスタイルだし、乱暴なまでの単純化――いかにして哲学者たちは存在論的な水平性を裏切り、価値論的な垂直性を正当化するか――にもとづく一本鎗な議論ではある。しかし、だからこそ、もっと短くまとめられたのではないかと思ってしまう。

 

喜劇の問題

面白い論点だと思ったのは、ヒエラルキー的価値観の肯定と悲劇愛好の関係性だ。悲劇とは死のなかでの生の肯定であり、喜劇とは生のなかでの死の肯定である。好まれるのはドン・キホーテであって、サン・チョパンサではない(138頁)。たしか『ドイツ・イデオロギー』のなかでシュティルナーはサンチョになぞらえられていたと思うのだが、その意味でも興味深い指摘だろう。マルクス主義は喜劇的なものを、ジャンルの混淆的なものを嫌うのだろうか。

マルクスを議論しながら、ワーグナーの『マイスタージンガー』を持ってくるという独創性には驚かされるし、ここにある民衆的なものと貴族的なものの対立が、マルクス主義に持ち越されるという見方も、きわめて興味深い。もちろん本書はバイロイト百年祭におけるあの衝撃的なパトリス・シェローピエール・ブーレーズによる19世紀産業社会に翻案された『ニーベルングの指環』以降に書かれたものだから、ワーグナーマルクスを結びつけること自体はとりたてて独創的ではないし、ワーグナーを19世紀政治思想や運動と関連させて『指環』を読むという方向性はすでにジョージ・バーナード・ショーが先鞭をつけていたのだから、なおさらオリジナルな論点とは言いがたいものではあるけれど、ユダヤ問題的な方向からではなく、ジャンルやテーマの混淆という美学的観点からの比較は、それでもやはり面白い。ベックメッサーがヘボなソフィストプチブルだというのは、刺激的な論点だ(126頁)。たしかに彼はヴァルターという騎士の霊感もなければ、ザックスという親方の技術もない。だから彼がコピーするものは不完全であるばかりか、欠陥品でもあり、その意味ではソフィスト的な洗練すら持ち合わせていない。

マルクス主義は、批判対象を、喜劇の領域のほうに追いやるのだろうか(たとえば『ブリュメール18日』におけるルイ・ナポレオン)。マルクス主義的なものにたいする対抗軸を考えること、それはもしかすると、喜劇的なものを真面目に考えることかもしれない。

真面目な喜劇というのではない。それではつまらない喜劇になってしまう。くだらない(ようにみえる)喜劇をまじめに考えるのだ。アイロニーは中断と宙吊りに終わってしまい、行動不能に陥りがちである。フローベールポール・ド・マンが良い例だろう。それはテクストにおいて自らの批判的立場を結晶化させるというエクリチュール的実践にしか着地できないだろう。

ランシエールによれば、マルクスのあやまちとは、自らを芸術家になぞらえ、自らの著作を芸術品のように扱ったことだという。それは、科学信奉にもまして、自らの自律性を称揚することである(ところで、一般に素朴な科学信仰を抱いていたのはエンゲルスのほうであり――『自然弁証法』!――マルクスのほうは科学に懐疑的だったと思われているが、ランシエールはそれがまったく逆であると主張する(213頁)。彼らの書簡をひもとけば、エンゲルスのほうが科学についてはるかに慎重であり、マルクスのほうが無批判的であるという)。ともあれ、科学信奉にしても芸術信奉にしても、それらは同じことだろう。社会との距離を確保し、その距離を正当化し、自らを社会から隠遁させることになる、という意味では。

 

デカルトの例、または哲学者とその貧者の幸福な対話

哲学者の罪、それは問題の所在(根拠のないヒエラルキー的な分業=搾取関係)を見抜きながら、自らを価値序列の上のほうに割り当てることによって、下に置かれた人びとの望みを見下し、価値低下させ、棄却することである。下に置かれた人びとから潜在能力を奪い、代弁されなければならない存在に格下げすることである。なるほど、そうすることによって、哲学者はかならずしも支配者の層には入らないだろう。彼ら(と男で呼びかけてもよいだろう)は依然として、権力者にたいしては、被支配者に留まるかもしれない。しかし、彼らはマテリアルな権力闘争において負けるとしても、イデオロギー的な価値観闘争においては勝つのである。すくなくとも、自分たちを、マテリアルな勝ち負けとはべつのところに位置づけ、外れ値的な自分たちに特別な役割――社会全体の価値観の形成であるとか、マテリアルな意味での被支配者の代弁――を割り振ることによって。

この意味で、デカルトは稀有な例外であるらしい。冒頭に置かれたエピグラフで語られるのは、デカルトが当時の平民に天文学を手ほどきしたというエピソードである。それは、機械的世界観を奉じたデカルトだからこそ、逆説的に、人間の潜在能力の普遍性を信じることができたのであり、だからこそ、知性と感性の平等を字義通りに受け取り、真の意味での知の民主化を実践できたということなのかもしれない。